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2012年8月

2012年8月27日 (月)

富田と豊橋近辺を撮る旅

1日目(8月26日)

「富田」と言われても、どこかお判りにならない方も多いと思う。名古屋から関西線に乗って40分くらいの所で、四日市も目と鼻の先だ。

その富田には、三岐鉄道なる私鉄がタキを連ねて、1日に5往復のセメント貨物列車を走らせている。そして、四日市へ向けてタキを送り込むため、富田で三岐鉄道のEDからJRのDD51に機関車を付け替える。

そんな様子のあれこれを撮ろうと、富田へ出向くことにしたのだ。名古屋を9時半過ぎに出たので、富田では2往復分の列車を撮影する予定でいる。

細かいことをごちゃごちゃと書いていても飽きられてしまうと思うから、ともあれ

Dscn3276こんな機関車(三岐鉄道では重連)から

Dscn3286dd51こう云う風になる様子を、炎天下で撮っていたと思って頂ければいい。上手く撮れていたらの話であるが、撮影結果ご報告で詳細は書こうと思っている。何しろ、富田駅近辺を4時間半ばかりうろついていたのだ。

撮影途中で、ズボンのベルトが壊れてしまった。今日はこのまま名古屋へ戻った後、東海道線に乗り継いで豊橋まで行く予定にしてある。あべこべな方向への旅行だが、こっちも色々撮りたいものがあるのだ。然し、ズボンのベルトなしでは過ごされない。

応急処置をして豊橋へ至り、駅ビルの店では間に合うものがなかったため、ちょっと離れた場所まで行く羽目に陥る。然も、行き着いた店は高級ブランド品しか扱っておらず、普段買う物の3倍以上もするベルトを奮発して、やっと腰の辺りが落ち着いた。

この後、豊橋鉄道・渥美線を往復してみたが、まぁ機会があったら後日書く、との表現に留めさせて頂こう。ベルトのために、金もそうだが時間もかなり無駄遣いしてしまったのだ。

2日目(8月27日)

今日も省略形で書く。

降りた駅を順にご紹介すると

Dscn3313

と、

Dscn3314

そして

Dscn3319

ここから少し逆戻りして

Dscn3320

以上の4駅付近で行動していた。撮影したい列車との兼ね合いで、こうした行動軌跡となったのである。

相見駅(今年の3月に開業した新駅)付近では撮影したい列車が来なくて玉砕したり、昼食に入った店で頼んだサンドイッチが大き過ぎてバラバラになってまた玉砕したりと、どうも碌なことがなかった。

各撮影地点での詳細は、フィルムが上がったらそれぞれにご説明しようと思っている。

今日も昨日と同様、ハイなお日様がカンカンに照って、見事に日焼けした。過日の怪我で痛めた右腕は、まだ腫れが引かないため湿布をしているのだが、そのために

Dscn3327

ヘンテコリンな日焼けになってしまった。恥も外聞もないオッサンだから、まぁいいか。

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2012年8月20日 (月)

115系身延線色と711系現行色

先日の愚記事、「頂き物の下敷き」で、115系の身延線色と現行の711系は非常に色合いも塗り分けも似ているのではないかと云ったコメントを頂いた。論より証拠、との言い方も少し可笑しいが、ともあれ両者を比較させてみようと思う。

まずは115系の身延線色 ↓

Img819115

続いて、711系の現行色 ↓

Img823711

こうして並べると、結構色々と異なる点も多いと気付かれるのではないだろうか。

色合いに関しては711系の方が明るい赤色で、所謂「紅色」に近い色との印象がある。一方115系は、元々が身延線の終点・甲府付近で作られるワインをイメージした塗装なので、少し紫に近い色合いになっているのがお判り頂けると思う。

また、白帯であるが、正面は両者ともほぼ同じ位置だと思うけれど、側面は運転席扉を境に若干下へずれているのが115系、そのままの位置で側面まで帯が回っているのが711系となるようだ。
また、運転席扉も含めて扉にも帯があるのが711系、逆に扉部分には帯が捲かれていないのが115系となる。

更に写真では判らないけれど、この白帯には決定的な違いがある。
711系の白帯はれっきとした塗装なのだが、115系の白帯は塩化ビニールテープを貼り付けてあるだけなのだ。115系の身延線色が登場したのは1981年で、当時の国鉄は塗装費用を安くするため塗装の簡易化に苦慮していた。その際、塗装せずに白帯が捲けるとの理由から、115系には塩ビテープが用いられたと云う経緯がある。

少し話題がずれるけれども、身延線の115系には特筆すべき電動車があったので、そのことも蛇足として書き加えておきたい。

身延線は旧私鉄を買収した路線と云うこともあって、トンネル断面が異常に低くなっている。通常、低断面トンネルへの対応はパンタ部分を低屋根にした800番代で対応しており、115系のモハ114にも800番代は存在する。

Img822114831

モハ114-831、小山→沼津→岡山と渡った車両で、パンタ部分だけは180mm低く製造されている。

ところが身延線では、800番代のパンタの低さでもまだ支障があった。それで、モハだけは低屋根(20mm)プラス狭小トンネル用パンタで対応し、2600番代と云う全く新しい番代区分が設けられた。

そのパンタ部分。

Img8201142600

20mmの違いなので800番代に比べると低屋根構造は判り難いが、パンタグラフはPS-23Aと呼ばれる低断面トンネル用のものが付けられている(のだそうだ)。

同車の車番表示。

Img8211142613

低断面トンネルに対応したモハであることを示した◆マークがモノを言っているように見えるが、これは私の僻目かも知れない。

正直、115系の番代区分などは非常に複雑多岐に亙って私もご説明しかねるので、あとは「Wikiって下さい」と言った方が手っ取り早いのだが、何しろ身延線にはこんな色と区分の115系が走っていたと、頭の片隅にでも置いて頂ければ幸甚である。

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2012年8月14日 (火)

昭和50年代前半の中央西線

以前にも少しご紹介したことがあったが、昭和50年代前半に撮った中央西線の写真がもう少しあるので、ご紹介しようと思う。何れもハーフサイズで写るPEN-EEでの撮影なので、画像が粗い点はご容赦を。

Img449

165系急行の「きそ2号」。先頭方は4両で組成されているから、この列車を受け持つ神領区の名物車両・モハ165が連結されていると思う。矢田川橋梁(大曽根~新守山)にて。

Img454812

夕方に庄内川近くで写真を撮っていたら、偶然通りかかったお座敷列車・スロ81系。何の団体だったかは全く不明だが、お座敷列車を間近で見れたのは初めてだったので、大変嬉しかった記憶がある。新守山~勝川にて。

Img45564

上の写真と同じ場所で撮った、名古屋方面行の貨物列車。先頭は勿論EF64(当時はまだ1000番代は存在しなかった)、その後はヨ5000、更にワキ5000と続いている。車扱い時代の古きよき編成だ(後日追記・vanagon714さんのご指摘により、機関車次位はヨではなくワフであったことが判明しました。お詫びいたします)。

Img446103

縦撮りの上に少し斜めになっていて、お見苦しいが、名古屋地区へ移籍した直後の103系。通勤型の103系は、名古屋地区では中央西線限定運用だった。京浜東北線のお古が殆どだったので、同線と同じスカイブルーで活躍していた。原型ヘッドライトは、103系が今でも活躍する阪和線でも見られないのではなかろうか。名古屋駅にて。

Img44579904

上の103系によって駆逐された、73系旧国。その中でも、このクハ79 904は正面窓がひときわ大きく、後の101系の試作的意味合いがあったと言われている。タネ車は桜木町事故で破損したサハ78で、それをクハ化し、さらに全金属車として試作改造した珍しい車両だ。名古屋駅にて。

ワンパターン化してしまった今時の車両に比べ、色々な種類の車両が走っていたなと今更ながらに思わされる、昔の中央西線である。

***

追記:お蔭様で当ブログも開始から4周年を迎えておりました。日頃の皆様からのご厚情に励まされて、今日まで来られたと思っております。
厚く御礼申し上げますと共に、今後ともよろしくお願い申し上げる次第であります。

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2012年8月 8日 (水)

頂き物の下敷き

Img702いつ頃頂いたのか忘れてしまったのだが、我が部屋に君臨するこの下敷き。

写っている電車たちが「最新鋭」と言われていた時代だから、多分昭和57~8年に頂いたものなのだろう。ってことは30年ぐらい昔か。うん、そんなもんになるかも知れないな。

母の旧友のご主人が日本車両にお勤めで、定年間近の時にはかなりのお偉さんまで行かれたとのこと。私が鉄道好きだからとて、時々思い出したようにこうした「日車グッズ」を下さった。その中の一つだ。

東海道にしても東北にしても、新幹線がまだ「ユデタマゴ型」の頃。30年前って云うとそうなるか……。

201系電車、登場時はチョッパ制御の省エネ電車って騒がれたっけ。

113系の湘南色、今ではあるのかどうか。JR西日本に113系自体は存在するけど、湘南カラーで残っていた編成はあったかな?

117系、関西でデビューした後、名古屋地区にも昭和57年にやって来た。名古屋地区に新製電車が配属されることは珍しくて、ニュースになったなぁ。

119系は、先日来度々このブログで話題にしたけれど、何しろ先日、全車が引退した。6月に東北からの帰り道で、西浜松に大量留置されている姿を見たなぁ。解体を待つ姿は気の毒だった。

名古屋の地下鉄5000系、今でも走っているけど、初期ナンバーの編成は廃車になり始めている。今では東山線で最古参の形式だ。

時代を感じる。30年って、そういう歳月なんだと。だが、これらの車両は今でも遜色なく自分の頭の中に収まっている。幸いモノが下敷きなので、これ自体の写真が色褪せていないのは有難い。

大切にしまっておきたいアイテムの一つである。

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2012年8月 3日 (金)

昔の記憶を呼び起こし~長良川鉄道の旅

(※お蔭様で怪我の具合は、大分良くなってきました。あと1週間程度で職場復帰できるかと思います。ブログも本日から再開致します。
尚、この記事は7月14日にアップする予定で、怪我をする前に書いておいた記事に、後日加筆訂正をしたものです。)

過日の公休日(7月10日)、9時頃に目を覚ましたら何処かへ鉄分補給に出掛けたい気分になった。

急いで時刻表を繰ると、長良川鉄道(元・国鉄越美南線/1986年に第3セクター化)の往復が出来そうなことが判った。同線は学生時代にはよく写真を撮りに行った。然し第3セク化される直前に乗って以来、25年以上乗ったことがない。時刻表の長良川鉄道のページだけコピーして、急遽、乗り鉄に出ることにした。

Dscn3148

長良川鉄道は上の写真のように、美濃太田を基点として北濃との間・72.2キロを走っている。元々は「美濃」と「越前」を結ぶ目的で建設されたが、山間部で頓挫してしまい、相棒の越美北線だけがJR西の路線としてその名を残している。

千種から中央本線の快速で多治見まで行き、太多線に乗り換えて11時22分に美濃太田へ辿り着く。今度の長良川鉄道は11時35分発だから、接続は良い。

美濃太田では一旦JRの改札を出る。案内標識に従っていくと、長良川鉄道専用のホームに行き当たる。

Dscn3142

美濃太田は国鉄時代は4番線までしかなく、越美南線は3・4番線から発車していた。現在の専用ホームは、4番線の外側、以前は駅の側線だった部分に新設された。
基本的には独立した路線扱いなので、駅の東側はJR線と連絡せず行き止まりとなっている。

11時35分、定刻に発車すると「次は前平公園」と案内放送が流れる。おっと、いきなり聞いたことのない駅名だ。それもその筈、国鉄時代と比べると駅数はおよそ1.5倍に増えている。特に美濃市までの間は、約2倍の駅数になっている。また、駅名改称も多く行われ、起終点を含めて42駅の内、国鉄時代と同じ駅名は10駅しかない。

こちとら、国鉄時代の駅名が辛うじて頭に残っている程度なので、以下、〈 〉内でくくったのは国鉄時代の駅名として書いていく。

Dscn3149

20分ほど走った関〈美濃関〉は、同鉄道の本社が置かれている。車庫などの諸設備もある。乗務員もここで交代した。

Dscn3152

更に20分ほど走った洲原〈美濃洲原〉に近付くと、いよいよ会社名の由来となった長良川を渡る。これからは川と絡みながら、終点まで走っていく。

Dscn3155

沿線の景色も殆ど覚えていないが、この赤池〈郡上赤池〉付近の橋梁は走行写真にも撮ったし、見覚えがある。川には鮎釣りの人の姿も多く見える。これは昔と変わらない。

Dscn3165

起点の美濃太田から1時間半ほど走ると、奥美濃で最も大きな街・郡上八幡へ着く。盆の徹夜踊りで有名なところだ。以前は「郡上郡八幡町」だったが、平成の大合併で「郡上市」になった。
この駅では途中下車したことはなく、街の様子も余り知らない。だが昔からここでは列車の交換が行われ、人の乗り降りも多い。その点は今も昔も変わらない。

自分の乗った列車も対向列車待ちのため、6分ほど停まる。私もホームへ降りて、少し背伸びをしたりする。

Dscn3171

交換を待って発車し、郡上八幡の僅かな平地を過ぎると再び長良川に沿う。青空に入道雲が湧き、爽快な気分になる。

時折「あ、ここは撮影したことがあるな」と思う橋梁や川沿いを走る。四半世紀乗っていないのだから景色は変わっているけれど、僅かに記憶が残っているのは、それでも嬉しいものだ。

Dscn3198

景色が変わっている一番大きな要因は、この東海北陸自動車道の所為だろう。自分が盛んにこの線を撮影していた時代、東海北陸道は工事もしていなかった。計画はあったのだろうが、こんな高架橋があちこちに出没するなど、当時は思いも寄らなかった。

Dscn3173

こんな駅がある。この駅をモデルにして、ローカルバスのターミナルを想像上で作ったことがある。実際にはもとより駅前バスターミナルなど存在しない。小学生時代の話だが、何か今見ても、駅名だけは懐かしい。

Dscn3175

終点に程近いところに、美濃白鳥駅がある。ここは国鉄時代から乗務員の宿泊施設などがある。宿泊施設は今も存在し、朝晩の列車はここを起終点にする列車もある。列車の格納線もちゃんと存在していて、これまた懐かしい。但し車庫の建物は、第3セク化後に作られたものだ。

かくして、美濃太田から2時間05分をかけて終点・北濃へ到着した。折り返し時間が30分あるので、急いで昔の記憶を頼りに駅近辺を走り回る。

Dscn3179

越美南線に乗るよりももっと前、確か1974年の冬だったと思うが、父にスキーに連れてきて貰い、北濃駅前の民宿に泊まった。スキー場へは駅からさほど離れていないこの橋を渡って行った覚えだ。スキー場は「平家平(へいけだいら)」との名前で、当時は橋を渡った直ぐのところにスキー場入口の看板も立っていた覚えだ。
今は全くそれも見当たらないとは、スキー場自体が廃止になっているのだろうか。

Dscn3180

国道から見た、北濃駅前の辺り。この写真の何処かが民宿になっており、それに泊まった覚えだ。辺りに「民宿」の看板は見当たらなかったから、廃業してしまったのだろう。

Dscn3181

この景色は、自分の中ではしっかり記憶に残っている。冬の景色ではあったが、泊まった民宿の裏手へ回ると、北濃駅が向こうに見えていた。ちょうど線路のポイント部分にかかっていたと思うから、場所も間違いない。

少し見ただけだが、10分くらいを使ってしまった。北濃駅には国鉄時代のように駅員はいないが、代わりに国鉄時代になかった駅そば屋がある。ここで、昼食を食べて折り返そうと思う。

帰り道は宮脇俊三さんのお言葉を借りれば「今見た絵巻を巻き戻すような」行程だから、それ程書くこともない。

ただ一つだけしっかり覚えている場所があったので、そこのことだけ記させて頂こうと思う。駅間としては深戸~相生〈美濃相生〉になる。

Dscn3203

画面左に、赤い屋根の民家が見えるが、その前辺りから「春・夏・秋・冬」同じ景色の走行写真を撮った。学生時代に纏めていたアルバムにも、貼ってある。

Dscn3209

これだと、かなりお判りづらいと思うので、夏の写真だけスキャンしてみた。

Img818

あの民家の前から撮ると、こんな景色が撮れたのだ。四季、つまりは4回、同じ場所に足を運んだのだから流石にここはよく覚えている。

四半世紀経てば、景色が変わってしまうのも致し方ない。国鉄の手を離れたからとて、足を向けなかった自分の方が悪いのだろう。

一日使えばこうした懐かしさに逢えるのだから、これから記憶が消え去らない程度に、長良川鉄道にも乗ってみようと思う。同鉄道の往復運賃は3300円で少し懐に響くが、それよりも思い出は大切なものだから。

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