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2012年3月

2012年3月29日 (木)

IS時の音楽中止

私たちの職場のバスでは、エンジンがアイドリングストップ(IS)した時に、自動的に音楽が流れる設備が放送装置に取り付けられている。

音楽の内容は営業所によって多少異なるが、大まかにクラシック系の曲を軽く聞こえるようにアレンジした音楽が使われている。当たり障りのない音楽にしてある。

元々はといえばこの音楽は、お客様からの要望で平成12年式の車から取り付けられるようになったものだ。「アイドリング時に車内がし~んとして白けてしまう。浜松の遠鉄バス(確かそうだったと思う)では採用しているので、あなたたちの職場でも採用すべきだ」と指摘を受け、かなりの金額をかけてプログラム開発をして貰い取り付けたと聞いている。

音楽が流れるには幾つかの条件がある。

①エンジンがIS状態であること(エンジンキーでエンジンを切っても音楽は鳴らない)。

②案内放送装置が稼動状態であること(回送中も含める)。

③扉が全て閉められていること。

以上の条件を満たすと、私たちの確認用ディスプレイに

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右下、白丸で囲ったが「*」のマークが表示され、車内では音楽が流れるようになっている。

導入後、暫くは一部の方から「軽快な音楽でいいですね」と云った意見が寄せられたようだ。私も一度だけ、降りていくお客様からそう言われたことがある。

ところが2年もしない内に、多くのお客様から「静かな車内に耳障りな音楽が流れて迷惑だ」とのご意見が相次ぐようになった。正直言って、私も毎度毎度同じ音楽を聴かされて、ちょっとウンザリしていた。

する内、お客様から直接「あの音楽、切ってちょうだい。耳障りで苦手だわ」と言われた。上司に報告すると「そのお客様の氏名と連絡先を聞いて上司に連絡するように。音楽は切らないように」と指示を受けた。

しばらくの内は辛抱して音楽を鳴らしていたが、お客様から3回目の「音楽を切って」の意見を受けてから、もうバカバカしくなって自分から音楽を鳴らすのを止めた。

因みに音楽は

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案内放送を流す押しボタン(↓)と同じ機器に、ディップスイッチがついていて(白丸で囲ってある)、それを倒すことでオンオフが可能なのだ。

自分の職場のバスに客として乗る機会は度々あるが、今では全体の1割程度の乗務員しか音楽を鳴らしていないようだ。営業所によっては「ウチの営業所では、全路線で音楽を流さないこと」とするところも出てきた。

そして、装置が取り付けられてから12年目の今年4月1日より、「全ての営業所、全ての路線で音楽を流すのを中止しなさい」と指示が出た。

お客様からの偏った要望で、高価な金額を払ってプログラム開発をして音楽を流し始め、結局はお客様からの要望で音楽を流すことを中止すると云う、如何にもお役所にありがちな事態の流れである。初めから、音楽を流すことの是非をもっと慎重に検討していれば、この一連の流れは避けられたのではないか。

はっきり言うが、私は「下らない顛末だなぁ」と思っている。
辛口な意見であることは承知の上であるけれど。

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2012年3月23日 (金)

懐かしの10円フーセンガム

先日、同僚と職場近くの中華料理屋で食事をしたら、支払いの後でこんなものをくれた。

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何とも懐かしい、子供の頃、駄菓子屋で買った10円の風船ガムである。これにはオレンジのバージョンもあり、同僚はオレンジの方を手渡されていた。

中身はこんな

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直径が1センチ程度だろうか、いびつな円形のガムが4個入っているだけのものである。

子供の頃、駄菓子屋さんへ行ってはこんな安物のガムを買い食いしていたことを思い出す。特にこのガムは「10円」と云う安さが売りで、子供たちに非常な人気があった。当時は子供のバス運賃が15円だったから、それに準じる安易な菓子だったと記憶している。

今はどこでどんな値段で売っているのだろう? 10円の値段を貫き通しているのだろうか? 名古屋には「明道町(めいどうちょう)」と云う駄菓子の問屋街があり、そこでなら扱っているかも知れない。

思いがけない所で思いがけない菓子をもらったので、ちょっと記事にしてみた。

あ、因みに「駄菓子」と云うのは現在の世では『差別用語』として公務員などは使ってはいけない言葉なのだそうだ。「安価な菓子」などと呼ばなきゃいけないというのである。「菓子」の前に「駄」の字が付くから、それで差別用語扱いされるらしい。
そこまで細かいこと言わなくても……世知辛い世の中になったものだ。「駄菓子屋さん」の響き、今でも個人的には好きなのだが。

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2012年3月17日 (土)

飯田線北部での写真

先日の飯田線での写真が上がってきた。例によって見れそうなものだけ読み込んでみたので、宜しければお付き合い頂ければと思う。

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伊那松島駅で交代する乗務員さんたち。この線にとっては“新鋭”の213系であるが、交代する運転士さんらは結構年かさのようにも見える。と云うことは、嘗ては旧国ゲタ電の運転もされたことがあるのだろうか。

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目の前の電柱が邪魔だが、伊那松島運輸区構内に留置される119系を、置き換える313系と共に撮ろうとしたらこんな構図しか作れなかった。区間としては伊那松島~沢になる。余談だが、嘗ての伊那松島電車区はもっと構内の線路が沢山あって、ゲタ電がゴチャゴチャ置かれていたような覚えがある。これも合理化だろうか。

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スタンダードに撮った大田切川の橋梁。偶々だが「ギラリ」狙いにもなっている。バックに雲がなければ木曽駒ケ岳やそれに連なる連山が見えるはずだが、世の中そうそう上手いことはいかないものだ。大田切~宮田にて。

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同じ大田切川橋梁にて。旅行記で「同業者の方が集まってきたので暫く待つことにした」と書いたが、国鉄色119系が来ることになっていた訳だ。待っていた甲斐はあった。

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バックは高遠辺りの山になると思うが、正式には何山か判らない。全国的にステンレス・アルミボディが大繁殖で、飯田線にもいよいよその時がやって来たようだ。どう拝んでもこれからはこういう景色しか見られなくなる。宮田~赤木にて。

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大田切川で飯田方面を向けて行った国鉄色119系が、何らかのスジで戻ってくるだろうと思っていたら、この辺りに同業者の方がいて「14時過ぎに戻ってきますよ」とのこと。で、ありきたりの構図だが線路際から後追いで狙ってみた。「ありがとう119」のヘッドマークが寂しかった。これまた余談だが、119系に「団体」の方向幕は初めて見た。宮田~赤木にて。

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羽場駅で三脚を立て、辰野方面を向けて別の列車を待っていたら偶然この列車が来た。朝にだけ、まだ119系の定期仕業が残っていて、それを伊那松島へ返す回送なのかなと思う。3連なので嬉しかった。駅間としては羽場~伊那新町になる。

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下の流れは天竜川。川の遠景に電車が走る構図は、個人的には好きである。ただステンレスボディは背景に埋もれやすいので、撮り鉄派にとって歓迎しかねる車両だ。時代の流れだから仕方がないか。羽場~伊那新町にて。

風邪の余波もあって、撮影枚数が少なくなってしまったのは残念だ。それでも思いの外119系が多く撮れたので、まあまあこんなものかなと自画自賛である。
ご高覧、お疲れ様でした。

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2012年3月12日 (月)

飯田線北部撮影旅行(2・3日目)

2日目(3月11日)

朝は人並みの時間に起き、8時26分の辰野方面岡谷行で次の大田切へ向かう。

Dscn2563こんな感じで雪山も見える辺り、駅至近に橋梁がある。橋梁での写真を撮ろうと三脚を立てて構える。

予定の列車を撮り終わったので、機材を片付けかけたのだが、何故か同業者と思しき方が三々五々集まってくる。今日は日曜日だし、何か臨時の列車が走るに違いない。ダイヤ改正も目前だ。片付けかけた機材を再び取り出し、そのままそこに居つく。

予想は当たったが、事実は上手く撮れていたら撮影結果ご報告でお知らせしようと思う。

そんな次第で大田切に少し長居した。次は10時56分の下りで宮田へ赴く。

宮田駅から少し歩き、予定していた撮影地に腰を下ろす。足元には早くも

Dscn2568オオイヌノフグリが咲いている。梅一輪ではなく、オオイヌノフグリ三輪ほどの暖かさである。

付近の踏切近くにて。

Dscn2569かなり草臥れた標識だなぁ。疲れ切ったようにも見える。

のんびり撮り歩いて、次の赤木までやって来た。15時前の列車で、更に下島まで下る。駅付近に

Dscn2576絵になるカーブを見つけてある。結局この辺りで夕方まで過ごす。

駅へ戻って、駅前にバス停があるのに気が付いた。宿泊地の駒ヶ根方面へのバスでもないかと思ったら

Dscn2579この有様で、廃バス停らしい。

諦めて、昨日と同じスジの上り列車で駒ヶ根へ戻った。雪が降り出して、結構寒い夕刻であった。

3日目(3月12日)

昨日と同じ、8時26分の岡谷行で

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まで来る。飯田線の終点・辰野まであと僅かな位置だ。ここでは駅撮りを決め込む。

10時半過ぎの列車で更に辰野方の、伊那新町まで乗る。駅から程近い場所に

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天竜川の流れがあり、一部で線路に沿っている。この辺りを昼過ぎまでブラブラ撮る。

13時34分に下り列車があるので、駅近くの踏切まで戻って三脚を構える。ところが時間になっても踏切の鳴る気配がない。暫く待っていたら近所の爺さんが出てきて「おい、(伊那)松島で何か事故があったらしいから、ちょっと遅れるらしいぞ」と教えてくれる。

結局、13時49分の上り列車の方が先に来てしまったので、それを後追い撮影して、ここは退去する。伊那新町の駅までは徒歩2分ほどの場所だから、駅へ戻る。

今日は昨日までに況して寒い。付近の民家も

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こんな感じで、うっすら雪化粧している。

それはそうと、13時34分の下りがちっとも来ない。私は、そのもう一本後の列車で辰野へ戻り、帰途に就く予定だが、この遅れを抱えていては予定通りに帰れないかも知れない。

おっかないので、30分近く遅れてきた「13時34分」の下りで辰野へ帰ることにした。来る時とまったく逆のルートで帰るように予定を組んである。

結局14時10分くらいに、辰野へ戻ってきた。次に乗るのは塩尻へ出る「エコー電車」だが、入線は14時40分だ。時間があるので駅構内をゆっくり見ている内に、跨線橋の支柱で古いレールを見つけた。

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今年が2012年だから、110年前の代物である。何とまあ、気丈に使われていることか、と感心する。

さて、時間になって入ってきたのは、一昨日の「エコー電車」ではなく、長野色の115系3連だった。

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「エコー電車」こと、クモハ123-1(松本区所属)が検査などで入場すると、長野区の115系が代走を務めると鉄道ニュースで見たことがある。きょうはどうやら、「その日」に当たったらしい。

エコーはロングシートの車内だが、115系だからセミクロスである。おまけに普段は単行でやっている仕業を3両編成で代行するから、車内はガラガラだ。得した気分になった。

寒いながらも、幸運なことも色々あって思い出が増えた。皆様にご心配をお掛けした風邪も収まったようだし、安心して名古屋へ戻れるようである。

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2012年3月11日 (日)

鎮魂の思いと私の現実と

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旅行記はちょっと一日お休みとして。

あの「3.11」から一年が経った。

被災された皆様、亡くなられた皆様には、心よりお見舞い並びに追悼の意を表する次第である。

現在、旅先での私だが、自分のいる場所でもあの忌まわしい出来事から一年経った時刻に、町内無線で「黙祷をお願いします」とアナウンスされサイレンが鳴った。勿論私も1分間の黙祷を捧げ申し上げた。

然し、1年経ったから白状申し上げるけれど、あの震災を私はリアルオンタイムで知らずにいた。

私は相変わらず仕事で、あの揺れの時にはバスを運転していた。信号停車でもバス停での停車でもなかった。名古屋でも震度3で2~30秒ほど揺れたそうだが、私は全く知らずにいた。私のバスに乗っていたお客様も多分気付かれずにいたと思う。ハンドルも取られなかったから。

私は偶々、停車の殆どないダイヤを担当していて、事実を知ったのは何と3時間余り経った18時少し前だったのだ。休憩のためにやっと休憩室へ入ったら、テレビが異常な画面で津波警報を報せている。「かなり大きな地震があったのだな」とは直感的に判ったが、まだ現実は知らないでいた。

居合わせた同僚に「どこでどう揺れたのか?」と尋ねて、初めて事の重大さを知った。

誠に申し訳ない次第だが、一年前の私はこれが現実だったのである。

運転中で、何も揺れを感じなかったとは、ある意味卑怯だと思っている。改めて、黙祷。

(尚、当記事にはコメントは必要ありません)。

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2012年3月10日 (土)

飯田線北部撮影旅行(1日目)

1日目(3月10日)

2泊3日で飯田線の北部を撮ろうと思う。
のはいいが、出発前日に喉痛の風邪が悪化した。咳や痰が出る。医者へかかる必要が出てきた。

今回は飯田線でも北部を撮るので、中央線の特急「しなの」で塩尻・辰野回りで飯田線入りする予定にしてある。「しなの」は指定券も取ってあったので、やむを得ず

Dscn2545することにした。名古屋、と言うか千種を昼過ぎに出発する「しなの」に変更だ。

幸い、風邪は一晩寝たら、ある程度収まっている。医者で風邪薬を調合してもらい、指変の「しなの」には間に合った。これで塩尻着・13時52分。

次に乗るのは中央東線の旧線を走る普通列車「あずみのエコー」。一昨年10月の飯田線撮影行でもお世話になった車両だ。塩尻で少し接続時間があるので、電車をよく眺めていたら

Dscn2546123この電車、ツーパンタなんですな。寒い地域を走るから、霜取りパンタも必要なのだ。何度か乗ったことのある電車だが、今更ながらに気付いた。これで飯田線の入口・辰野へ赴く。

出発を遅らせたので、辰野には14時40分にやっと着く。  次の飯田線は15時03分だから接続は悪くない。ただ、撮影は殆ど出来そうにない。考えて伊那松島で降りることにした。

伊那松島とは聞き慣れない中途半端な駅と思われようが、飯田線が旧国ゲタ電の頃はここに車庫があって、ゲタ電も所属していた。今でも運輸区として乗務員の基地や車両置き場として名残が残っている。

今から乗る飯田線の運転士さんの鞄にも

Dscn2552こうある。乗務員の基地としてちゃんと機能しているのだ。

飯田線は長らく119系電車が運行されてきた。然しいよいよ119系も引退と相成り、殆どの列車は313系や213系で運転されている。ただ、伊那松島には留置線があるから、上手くいけば119系が疎開留置されている可能性もある。

私にしては珍しく予想が当たり

Dscn25561193両だけだが119系が留置されていた。これを絡めた写真を少し撮る。

本数の少ない飯田線なので、2本の列車を撮ったらもう薄暗くなってきた。17時過ぎの列車で宿泊地の駒ヶ根へ向かうこととする。

山間の駒ヶ根辺りは名古屋と違ってまだ寒い。17時39分に駒ヶ根へ着いたら、宿へ直行する。風邪をこじらせたら困るし。

何とか無事に投宿し、あとはホテルでゴロゴロするだけである。あ、★にはちゃんと出掛けましたよ。 

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2012年3月 5日 (月)

あれから30年……胆振線往復の思い出

私の初渡道が、今からちょうど30年前の1982年(昭和57年)3月であることは、このブログなどで度々触れてきた。高校卒業直後で進路も決まっており、最も「お気楽な」身分の時だった。

その際は岩内を中心に行動したことを、昨年6月の記事で書いた。ニセコや岩内のスキー場へ行ってスキーをしたり、札幌まで出て観光したことは今でもはっきり覚えている。

そんな中で、1日ぽっかりと「特に行動予定のない日」が出来てしまった。この旅行は当時の同級生と3人での旅行で、個人行動は出来るだけ慎みたい。然し、他の2人は「今日はやることないね。パチンコ屋でも行こうか」などと言っている。折角北海道まで来てパチンコ屋に行くのはあまりに時間の無駄遣いだ。

急いで時刻表を調べたところ、胆振線を往復することなら出来ると判った。それで同行の2人に「頼むから今日だけ別行動させてくれ」とお願いし、「お前って、本当に電車好きなんだな」との言葉に見送られながら、胆振線往復のトリップに出掛けられることと相成った。

当時の記録を調べてみると、私は以下の列車で行動していたようだ(乗車日は3月16日)。

倶知安                  伊達紋別 
13時18分----(828D)---→15時46分
19時03分←---(831D)----16時23分

この往復を、当時の写真と共に振り返ってみたい。

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倶知安の1番線に入線する828D。胆振線の線路を伝ってやってきた記憶があるのと、入線時刻が13時ちょうどくらいだったことから、この列車は御園始発の827Dの折り返しだったらしい。

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「新」大滝というくらいだから新しい駅かと想像していたら、雪に埋もれた古い駅で拍子抜けした覚えがある。828Dはここで交換のために7分停車となっている。

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新大滝に停車中の828D、キハ22 92。倶知安に所属していた気動車。

Img750828829

これも新大滝にて。交換相手の829Dが入ってきたところ。

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これは、828Dが終点の伊達紋別に着いてからの映像。当時、伊達紋別には胆振線専用の0番線ホームがあった。現在、0番線のあった場所は砂利で埋められている。

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帰路の831Dも、新大滝での交換があった。これは交換列車の830Dで、先頭車両はキハ22 284。私が撮影したキハ22の写真の中で、唯一のツートン塗装のものである。

Img753

交換の831Dを撮り終えて車内へ入ったら、車掌氏が来てポツリとこう言った。「お客、アンタ一人だけだ」。国鉄の列車に乗って客が自分一人になったというのは、これが最初で最後の体験だった。あまりに感動して撮った一枚。

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「客が自分一人状態」は、確かこの京極まで続いたように記憶している。因みにこの京極から脇方まで、胆振線の支線が分岐していたことを知ったのは、このずっとあと、15年ぐらい後のことであった。

おまけ画像。

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この旅行の時に使った「道南ワイド周遊券」。新大滝や京極駅の下車印も捺されている、私の宝物だ。因みに「割引」の印は学割ではなく、「冬季割引」の意味。当時、冬季の道内周遊券にはこういう制度もあったのだ。鷹揚な、いい時代だった。

往復に所用した時間は6時間程度。それでも30年経った今でも、自分にとっては忘れ得ぬ、貴重で且つ有意義な時間だった。

胆振線はご存知のように、国鉄再建法により1986年10月いっぱいで廃線となっている。私の2度目の渡道が1987年3月だから、この時が唯一無二の乗車機会だった訳だ。
私の我儘を許してくれた同行の友人2人には、今更ながらに感謝の気持ちで一杯である。

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