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2011年9月

2011年9月25日 (日)

大雄山線往復記

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先日の白糸川橋梁の旅、3日目は大雄山線に乗ろうと計画していた。そもそもが「大雄山線ってどこ?」と聞かれそうなので書いておくと、正式には「伊豆箱根鉄道・大雄山線」で、東海道線の小田原から大雄山までの9.6キロを結ぶ路線である。

東海道線で小田原まで戻り、列車を降りるともう対面のホームに

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大雄山線の乗り場がある。ただ、大雄山線はJRではないので、一旦階段を上って改札を出、大雄山線の乗り場へと移動せねばならない。

私が初めて小田原へ来たのは、小学5年の時(1974年)だった。その時に友達と見たローズピンクと薄いグレーの電車(確かそんな塗装だったと思う)が大雄山線で、何となく魅力を感じていた。以来ずっと乗ってみたかったのだが、35年以上の時間を経てやっと乗る機会を作ることができたのだ。

さて、大雄山線の改札へ行こう。ホームは

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大雄山線が1・2番ホームを使用している。このホームの番号は小田原駅全部に共通で、大雄山線の向こうにあるJR東海道線のホームは3番線から番号が始まっている。更に向こうにある小田急・箱根登山鉄道のホームは7番線から始まるという具合だ。
栄えある1・2番線を大雄山線が使うということになっている。

今度の列車は10時36分発で、もう既にホームに入っている。この線はローカル私鉄ながら昼間は12分ヘッドで運行しており、時刻表を見なくても乗れるのが嬉しい。

列車の行先表示を見ると

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こんな表示になっている。大雄山線は途中の駅で終点になる列車がないので、こういう表示方法で十分と云うことらしい。ただ、編成によってはLED方向幕の車両もあった。

車内はローカル私鉄によくある

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ロングシートの座席で、まあ、ありふれた車内といえよう。でもローカル私鉄にありがちな「都会の私鉄のお古」ではなく、元から大雄山線で使われている純正の車両だそうだ。

取り敢えず往路は終点の大雄山まで乗り通して、沿線の様子を見ようと思う。

定刻に発車して、30秒も経つともうブレーキがかかり、次の緑町駅に停車する。駅間距離は0.4キロ。市電並みである。それでもちゃんと車掌が乗っており、ホームで乗車券を集めている。

次からは普通の駅間隔になり、途中の五百羅漢・相模沼田・和田河原でそれぞれ反対列車と交換する。この頻繁な交換により、12分ヘッドでの運転を実現しているのだ。

21分かけて終点の大雄山へ到着。大雄山は簡単な車庫を兼ね備えた駅で

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研修庫や留置線なども見える。但し全検のできる設備はないそうで、その時だけは同じ伊豆箱根鉄道の駿豆線(三島から分岐している)にある工場まで回送させて検査するそうだ。

折角、終点まで来たので、ちょっと改札の外へ出て駅舎を眺めてみる。

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駅前からは道了尊へのバスが接続している。元々この鉄道は「大雄山鉄道」と称していて、道了尊への参詣鉄道として計画されたらしい。然しここから先の延伸計画は実現せず、会社も伊豆箱根鉄道の傘下に入り、今日に至っている。

さて、再び駅構内に戻ろう。発車案内に

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とあるが、「こんど」と「つぎ」がどう違うのか、今一つ釈然としない。言わんとすることは判るが、例えば後発の方を「そのつぎ」とした方が、更に判りやすいような気もする。まあ、素人の意見ではあるが。

今はホームに電車が入っていないので、ホームの小田原寄りの端まで行って、列車を待つ。する内、電車が見えてきた。

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写真では判らないが、電車は隣の「富士フィルム前」駅に停車中である。ここの駅間も0.5キロしかなく、隣の駅が見えるというのも楽しい私鉄だなぁと思う。

「こんど」の11時26分発に乗り、途中の塚原で降りてみる。こんな風に

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民家の裏庭にそのまま駅があるようで、ローカルっぽさを感じてしまう。往路で見た中では、この駅が一番「それっぽい」駅に見えた。

次の上り電車で、更に戻りにかかる。今度は珍しく

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簡易転換クロスシートの車両であった。この電車で

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ここまで来る。先程も駅名は挙げたが「ごひゃくらかん」と物々しい駅名である。付近にあるお寺が駅名の由来なのだそうだ。ここでは列車の交換が見られる。

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左が小田原行き、右が大雄山行きだ。偶々この写真の右側の列車は、線内唯一の鋼製車両であった。Wikiによるとこの線には7編成の電車(全て3両編成)が所属するそうだが、その内の第1編成だけが鋼製で、車体全部が塗装されている。

また、五百羅漢駅のすぐ北寄りでは小田急線と交差しており、

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こんなコラボ写真も撮れる。

ここからは6分程度で小田原へ戻れる。長々とした旅行記もこのくらいにしたいが最後に一つだけ。

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五百羅漢駅のホーム支柱に使われていたレール。1922の数字が見える。前身の大雄山鉄道が開業したのは1925年との事だが、何故に3年だけ古いレールが支柱となり得たのか、ちょっと疑問を残したまま大雄山線の往復旅行を終えた。

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2011年9月19日 (月)

白糸川橋梁アゲイン

1日目(9月18日)Dscn1920

昨年の3月、愚プログにここの写真を載せたと思う。ただその時は、天候が良くなかった。今にも降り出しそうな画像を貼った筈だ。

東海道線の超有名撮影地を曇天で終わらせたくなかったので、リベンジにノコノコとやって来た。幸い今日は好天である。

前回と同じく熱海まで新幹線・そこから在来線に乗り換えて、昼過ぎに再びこの地へやって来た。世間様と連休がダブっているので、同業者の方の姿も見える。私はリベンジの「アゲイン」なので、1時間少々でこの地を退散する。

山登りでかいた汗を拭って、14時過ぎの列車で次の早川まで赴く。前回見過ごした撮影地が、駅から徒歩30分ほどの所にある。

鈍足の私の足では40分ほどかかり、ここでも山登りをして大汗をかく。こんな風に

Dscn1924新幹線も俯瞰できる場所から、在来線を撮る。もっとも新幹線は私の撮影対象ではないので、この際どうでもいいのだ。

ここにも同業者の先客がおられた。ただ撮影地は農道で、撮影地ガイドに「駐車は避けたい」とあるのだが、その方のジープが農道にどっしり止まっている。うーん、いいのかナ……?。

ここはかなり厳しい上り坂を登ったところなので、下りるのが勿体なくて暫く居ついていた。日が西に傾きだした頃に、やっと山を下りた。駅まで再び40分かけて歩いたら、もう足が痛くてガクガクになった。日頃の運動不足と老化の進行を痛感する。

早川駅で少し駅撮りして、17時半頃の電車で藤沢へ向かった。今日と明日は藤沢で泊まる。

彼岸も近付き、日が短くなってきた。藤沢に着いた頃にはもう暗くなっていた。

2日目(9月19日)

ホテルを出て、駅とは反対方向に歩く。この先に関東地方では有名な撮影地があると、撮影地ガイドで読んだからである。20分余で到着したのは

Dscn1926こう云う名前の踏切。「くげぬま」と読むそうだ。

撮影地ガイドには「狭い踏み切りなので、三脚の使用は控えたい」とある。確かに

Dscn1927こんな踏切で、三脚は立てかねる。200mmのレンズを使わないと苦しい撮影場所だが、手持ちではどんな映像になっているか判らない。

藤沢駅への戻りは神奈中バスを使う。

この後、一旦茅ヶ崎へ戻って、また20分ほど歩く。富士山が見えればいい撮影地らしいが、今日は富士山は見えず、「ただ電車が走っているだけ」の写真に終始する。

今日も晴天で暑い。昨日の疲れも取れていないので、段々バテテ来た。以後、デジカメでの撮影を忘れているが、戸塚駅付近と横浜駅でも撮影してきた。

あれこれ撮影している内に、早くも日が西に傾く時間となる。疲れてもいるし、ビルの陰などで撮影条件も悪くなってきたから早々にホテルへ帰ることとする。★が待ち遠しい。

旅行は明日も続くが、明日はローカル私鉄を乗る予定なので、一旦この旅行記は終了としておく。 

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2011年9月13日 (火)

愛称・種別サボの形状いろいろ

ちょっと前に、いつもお邪魔しているvanagon714さんのブログで、「鉄子さんから愛称サボを譲り受けた」との記事があった。

その際に出されていた愛称サボは何れも北海道内のもので、サボの形が「北海道限定バージョン」になっていた。愚兄が「サボの形が北海道型になっていて、いかにもそれっぽいですね」と云ったことを書くと、vanagon714さんから「サボの形はこれが標準だと思っていました」とコメント頂いた。

それで、愚兄の蒐集品から愛称・種別サボの形を地域ごとにご紹介しようかと思う。

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北海道内サボの代表的な形。上の部分に取っ手がついている。道内の過酷な寒冷地を走ってサボが凍り付いてしまった後でも、取り出しやすいように取っ手がついていると聞かされている。
因みにこの種別サボは○帯、つまり帯広の所属になっている。国鉄時代には帯広界隈で快速が走っていなかったようなので、民営化後に快速の「狩勝」か「ぬさまい」で使用されていたものではないかと想像している。

ただ、道内でも例外はある。

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ワンマン列車の「前乗前降」の方式は北海道内でしか採用されていないそうなので、このサボも道内のものの筈だ。購入店に拠れば函館地区で使われていたものとのこと。ご覧の通り、上に取っ手がない。道南地区では例外的にこうした形のサボも存在していたようで、急行の「ニセコ」や「すずらん」の愛称サボなどでもこのタイプのものが実在する。

内地になると、上に取っ手のついたタイプは見かけない。

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1枚目の写真と同じ「快速」の種別サボ。卑近な例で恐縮だが、所属は大垣電車区のものである。上に取っ手がついていないのはもちろんのこと、板の素材も鉄やホーローではなくプラスチックである。冬季でも雪が少ない地方では、経費のかからないプラスチックのサボが国鉄終期時代には大手を振ってまかり通っていた。

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これは九州地区で485系に入れられていた種別サボ。民営化後に九州ではこうした黒を基調とした種別サボが採用されていて、同系の廃止と共にサボも市場に出回ったようだ。所属は書かれていないが、485系を早くに駆逐した博多や長崎地区で使われていたものではないかなと思う。

今までご紹介した4枚は、何れもサボ上部に穴があいている。サボを纏めてしまって置いたりする時に、穴に紐や針金を通して束ねておくための穴である。また、サボを抜き取る際に穴に指を引っかけて取り出しやすくしたとの経緯もあるようだ。
ところが、国鉄の古い時代、昭和の30年代辺りの代物になると、穴が上部にないものもある。

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これも快速の種別板で、今の「南福岡」が「雑餉隈(ざっしょのくま)」と呼ばれていた時代に、その雑餉隈に所属していたもの(因みに雑餉隈が南福岡に改称されたのは昭和41年-1966年とのこと)。よ~く見てみると左端の中央辺りに小さい穴が開いていることは開いているが、今までご紹介したものよりずっと穴が小さい。
私の想像ではあるが、このような形だと紐などを通す時に穴が小さくて通し難く、またサボ受けからも取り出し難いので、穴の大きなタイプに代わっていったのだと思う。

私の知っている範囲でのサボの薀蓄を、チョット語らせて頂いた。ただ、私もあまり詳しいことを知っている訳ではない。余り深く突っ込んでご質問を受けると回答できないと思うので、その辺りはよろしくお願い致しますです (^ ^;;;

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2011年9月 8日 (木)

タオル掛け

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我が家の脱衣所に置いてあるタオル掛け。何の変哲もないタオル掛けに思われるだろうと思う。私もそのつもりだ。

だが、実はそうではないのである。このタオル掛けはただ者じゃないのだ。いや、そもそも「タオル掛け」と呼んではいけないらしい。「タオル干し」が正式名称らしいのだ。

これを購入したのはこの家に移り住んだ時だから、7年半ぐらい前のことになる。近所のホームセンターで購入してきた。
その時、外装の注意書きに「通常のタオル掛けとしてはご使用になれません」と書いてあった。それだけならまだいいのだが、脚のパイプ部分にも別の紙に「通常のタオル掛けとしてはご使用にならないで下さい」と二度手間のような注意書きが印刷して巻かれていた。

これを「通常のタオル掛け」として使用するとどうなるのだろう? いきなりバクハツしたり、或いは溶解を始めたりするのだろうか。私の好奇心にメラメラと火が点き、他に金属製のタオル掛けもあったけれど、安価で興味のあるこちらを購入に及んだ。

以来7年半、我が家ではずっとこの製品を「通常のタオル掛け」として使用しているが、別に異変は起きていない。バクハツも溶解も、する気配はない。あの注意書きは一体何だったのだろう。

ひょっとすると節目の10年目くらいに、いきなり火を噴いたりするのかも知れない。何か起きてくれると面白いとワクワクしているのだが。

異変があったら、又このブログにてお知らせするつもりである。取り敢えず、今日まで「タオル掛け」として通常に使用されていることだけは、ご報告申し上げておく次第である。

我乍ら、下らない記事だなぁ。

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2011年9月 1日 (木)

初狩駅・スイッチバックの遺構

Dscn1901蒸気機関車時代は掃いて捨てるほどあったスイッチバック駅であるが、電化・ディーゼル化によってその駅数は激減している。自分が思い浮かぶ現行のスイッチバック駅は、JRでは8駅だけじゃないかと思う(十和田南と遠軽はこの際、無関係)。

スイッチバック駅が普通の駅に変えられると、その遺構は大方が撤去されてしまうものだが、先日訪れた中央本線の初狩駅はその設備が残ったままになっている。貨物の車扱い時代は設備を使っていたらしいし、現在でも工事車両や臨時列車の乗り入れのために、設備を残している。因みに旅客列車は1968年(昭和43年)までスイッチバック設備を使っていたらしい。

そんな数少ない初狩駅のスイッチバックの遺構を、少しカメラスケッチしてきた。

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現行の駅舎と駅前広場。駅舎の建物は比較的新しく見えて、スイッチバック時代のままのものなのかは不明だが、位置はスイッチバック時代のままである。そんな都合から、駅舎からホーム方面を眺めると

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かなりの「隙間」がある。スイッチバック時代の線路がそのまま残されているからだ。因みに現行のホームを走っているのは上りの特急・スーパーあずさ。

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現行の初狩駅から、上り方面を望む。中央本線が複線化されているから配線が複雑だが、一番右から奥へ続く線路が嘗ての引き上げ線になる。

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上の写真とほぼ同じ位置から、180度向きを変えるとこんな景色が見える。電車が停まっているのは上りホーム。その右側に広がっているのが、嘗てのホーム跡地や線路群である。

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現在のホームと駅舎とは地下道を通して繋がっており、その地下道を出ようとするとこんな注意書きがある。そんなに古めかしい看板でもないから、現在でも列車の行き来が稀にあると云うことだろう。実際に私が覚えている範囲では、1年程度前だったかに201系電車のサヨナラ運転がされた時、ここのスイッチバックを使ったとの記事をネットで読んだ。

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駅舎から現行ホームへの通路上に立ってみる。線路が何本か敷かれているが、私の立っている場所だけ線路同士の間隔が広いから、この位置がスイッチバック時代のホーム跡になるのだろう。ホームらしい跡形は、目を凝らしてみたが見当たらなかった。

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駅舎を出て少し駅跡の奥の方へ入ると、車も通れる踏切がある。そこから写した映像。緑のフェンスのあるところが現行の駅になる。踏切には警報機もついているが、眺めている間に通り過ぎた車は一台として一旦停止をせずに通過して行った。それだけ「列車が来ない場所」と地元の方にも認識されているのだろう。

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スイッチバック駅跡の末端まで行ってみた。構内には黄色い工事用車両が停まっているから、線路の保守などの際にはこの列車が動くこともあるのだろう。ただ、旅客に危ない目に遭わせることもなかろうから、恐らく工事用車両は夜にしか稼動しないのだろうと思う。
今やスイッチバック線は事実上、保守車両の留置場なのだ。

函館本線の仁山などでもスイッチバックの跡は残っているけれども、この駅が一番残っている状態がいいように思う。雑草などもある程度は刈られているから、さいぜんも書いたような臨時列車の乗り入れなどに使用できるのだ。

貴重な遺構のように思うから、末永くこの状態を保って欲しいものである。

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