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2010年8月30日 (月)

“山線華やかなりし頃”~僅かな記録と遺物から

札幌から小樽・倶知安経由で長万部へと結ぶ通称「山線」。

この線の話が、vanagon714さんとN市のTさんのブログで紹介されていたので、年代はぐっと遅れるが、私が1982年3月の初渡道時に記録した、僅かな山線の写真などをご紹介しようと思う。ご両者へのチョイコラボと云うことで。

大体この旅行は、高校卒業を祝して、岩内に実家のある同級生らと3人の旅行だった。同級生の岩内の実家をベースキャンプにしようとの魂胆である。スキーも出来るし、連絡船や道内の列車にも乗れるからと、進んでついていくことにした。
然し、私が出発前日に39度の熱を出す風邪を引いてしまい、往路は友人らと別行動になった。旅程に関しては、時刻表マニアの私に任せておけばいいと思っていた友人2人は、大混乱に陥ってしまったそうである。

本来なら函館から「急行・せたな」に乗り、長万部から普通列車を乗り継いで岩内へ至る予定だったが、私だけは2日遅れで函館から「急行・ニセコ」で、小沢まで向かった。小沢には件の友人に迎えに来てもらい、ニセコバスで岩内入りしている。

その際に小沢駅で買った入場券が、今も手元に残っている。

Dscn0566

あの当時は、小沢駅も有人駅だったのだなあと今更ながらに思う。

9泊10日の旅行中、友人らとの団体行動が主体だったので殆ど「鉄活動」はできなかったが、ある日「今日は何をしようか……」と友人の口から言葉が漏れた時に、すかさず「1日だけ、一人で胆振線に乗りに行かせて欲しい」と頼んで、呆気なく承諾された。

岩内線から小沢で“山線”に乗換え、胆振線起点の倶知安へと向かう。乗車したのは僅か1駅だが、この時乗った122列車は、旭川発函館行きの長距離鈍行だったのだ。幸い、倶知安でスハフ32目当てに撮った写真が、1枚だけ残っている。

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DD51を先頭に、荷物車2両・旅客車3両と云う編成のようだ。この頃は山線にも、荷物車を連結する需要があったのだろう。

旅行からの帰り道、小沢から函館は、また「急行・ニセコ」で戻ることになっていた。そのニセコ号の入線を、小沢で写したものがある。

Img564
DD51の重連、後に郵便車を一両挟んで、客車は14系である。当時の時刻表を見てみると(交通公社の時刻表・1982年3月号より)

Img567823

こんな編成だったようだ。写真は上り列車になるので、△印の荷物車は残念ながら連結されていない。それでも機関車を含めると、10両の長大編成である。

私の好きな「方向幕だけの写真」。

Img565

「急行」「小樽経由/函館」。こんな写真でも、撮っておいて良かったと思う。

14系は元々特急仕様車であるが、もう、当時はあちこちで急行列車にも使われていたようだ。特に、道内用は折戸を引戸に改造してあることから、500番台を名乗っていた。引戸の14系が珍しいからと、長万部でニセコが長時間停車の間に、客車の側面を撮ったものもあった。

Img56614

まだ当時は、私の背後には長万部の機関区が堂々と広がっていた。残念だが、それは写していない(悔涙)。

当時、山線を通して走る急行は「ニセコ」が1往復、特急は「北海」が2往復で、うち1往復は当時新鋭の183系気動車によるものだった。まだまだ山線にも、力が注がれていた時代だったと思う。

N市のTさんのブログコメントでは、『「行商指定車」なんてサボの車両も連結されていた』旨が書かれている。1982年が初渡道では、行商指定車の実物は見ていないが、サボだけは魚澄庵コレクションに存在する。

Dscn0567

いつもの某マツトレインで仕入れたものだ。使用痕や錆などから、レプリカではないだろう。

持ちは○小、つまり小樽となっている。これを譲って頂く時に聞いた話では、昭和40年代に、131レ(仁木4時55分発、滝川8時35分着/時刻は1974年1月時)に増結された車両のサボとのこと。山線全盛時代の、生き証人である。

名古屋生まれで名古屋育ちの私だが、自宅を漁ると、この程度のものなら出てくるようである。

***

追記:話の行きがかりを考えると、元々はvanagon714さんの記事に端を発するようです。加筆訂正しますと共に、vanagon714さんには失礼がありましたことを心よりお詫び申し上げます。

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コメント

行商のおばさんがたくさん乗った「行商指定車」は魚と珍味の腐ったような独特の臭いを放っていました。

おさかなさんの乗った「ニセコ」はすでに14系に置き換えた後だったのですね。
私の修学旅行は旧客の「ニセコ」でした。

荷物のメインは山線廻りになっていました。荷物列車が山線に2往復設定されていましたね。昼便1本と夜行1本でしたね。
当ブログの画像の42レがそうです。

投稿: N市のT | 2010年8月31日 (火) 21時07分

>N市のTさんへ
行商指定車は、海産物を運ぶ際の臭気を一般客に差障らせないために連結されたと聞いています。山陰本線にも存在したようですが、運搬物の特性上、止むを得ない臭いだったのでしょうね。

私も函館駅で実際の「ニセコ号」を見るまでは、旧客の編成を連想していました。14系500番台を見た時に「ああ、そう云えば雑誌に書いてあったなぁ」とそんな程度の知識でした。

客車列車が多かったので、荷物列車は山線を使っていたようですね。41~44列車は、小学3年当時の私には不思議な列車でした。時刻表の「荷物列車」の項にも「客車列車」の項にも載っていたので、意味がよく判りませんでした。
新聞輸送の目的があったのか、74年1月当時の時刻表では、海線回りの夜行「すずらん4号」にも上りのみ荷物車の連結が記されています。
時代をよく映しているなと思います。

投稿: N市のTさんへ | 2010年8月31日 (火) 22時18分

こんばんは。
私の場合、山線経由の優等列車は「北海」に一度だけ乗車しただけでした。
しかも連絡船の深夜便に接続する列車でしたから、ただ闇の中を
エンジンの唸り声だけ聞いた記憶があります。
当時は小樽経由の優等列車が無くなるとは思いもよりませんでした。
おさかなさんのようにちゃんと記録しておけばよかったです。
急行「ニセコ」の方向幕は涙ものですね~

投稿: vanagon714 | 2010年8月31日 (火) 22時20分

>vanagon714さんへ
こんばんは。
当初の記事の書き方に不適切な部分がありまして、失礼致しました。改めてお詫び申し上げます。

同行の友人の実家が、たまたま山線近くの岩内だったことから、私も僅かながら「活きた山線」にご縁を持つことが出来ました。いいタイミングだったと思います。
あの当時の旺盛を考えると、仰せのように山線から優等列車が消えるとは、夢にも思いませんでした。新鋭の183系とすれ違った時は、胸が高まりました。
サボや方向幕が好きなので、昔からこう云う写真が多いのです。それが存外、後年になって貴重な記録になってくれるので、有難く思っています。

投稿: vanagon714さんへ | 2010年8月31日 (火) 22時55分

私の「東北周遊」の最後の列車は、山線の荷物列車+客車でした。
荷物車が現役の頃は、逆に千歳線の列車にはほとんど荷物車がありませんでした。
北海道での14系客車、実は見たことがありません。私と入れ替わりに渡道したのでした‥

投稿: suzuran6 | 2010年9月 2日 (木) 08時19分

>suzuran6さんへ
荷物列車のメインルートは山線だったようですね。客車列車が多いのと、距離が短くなるために、山線を経由するのが当時の常識だったようですね。時間をかけてまで千歳線経由で荷物を送る必要が無かったからでしょうか。
14系客車の500番代は確か1980~81年頃に改造されて誕生したように記憶しています。奇しくもsuzuran6さんと入れ替わりになってしまったのですね。
今ならまだ「はまなす」に連結されていますから、見るのは間に合います!!

投稿: suzuran6さんへ | 2010年9月 2日 (木) 23時28分

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