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2010年2月

2010年2月26日 (金)

中央西線の70系電車

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何れの写真も30年以上前に、ハーフサイズカメラのPEN-EEで撮影したものから掘り起こしたので、画像の悪い点はお見逃し頂くとして。

中学生になり、ある程度の遠出などが自由に出来るようになってからは、自宅の最寄の国鉄駅・千種(ちくさ)から行動を始めるケースが多かった。千種から名古屋までは中央西線に乗るのだが、その際よくお世話になったのが、この70系電車である。
直流専用の所謂「旧型国電」なので、交流電化区間にお住まいの方には馴染みの薄い車両だと思うけれど、まあ、そこは適当にスルーしてやってくださいな。

私が中学生の当時(1976年~78年辺り)は、中央西線の普通電車に乗ると、大抵はこの70系か、73系と呼ばれる通勤型の旧型国電だった。113系も当時既に走っていたが、大抵は快速列車に充当されていて、滅多に乗ることは出来ない車両だった記憶がある。30年ちょっと前だと、113系でさえ高嶺の花的な存在だったのだ。

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70系の先頭車・クハ76型。名古屋地区では、先頭車はこのクハ76型しか配置はなかった(他地区ではクハ75、クハ77という形式も存在した)。大方の車両は、正面窓がHゴム化されていたけれど、この車両は珍しくそれが為されていない。今となっては貴重な写真だなあと、撮影した本人でも思っている。

俗に言われる“湘南型”と、ほぼ同じ型だ。塗り分けラインも全く一緒。製造当初は横須賀線で使用されており、その色のまま名古屋地区でも使用されていた。「スカ色、スカ型」の元祖である。

前述した113系などは名古屋地区では原則として湘南色だったから、中央西線や名古屋駅でやって来る車両を眺めていると、スカ色だったり湘南色だったりと統一が取れていない時代だった。当時の名古屋地区は、殆ど「東京のお古」の車両しか配属されていなかったから、その影響だろう。

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先頭車・クハ76のサイド。運転席後ろの窓に、タブレット受け損じ用の格子が付けられている。70系が中央西線に投入された1960年代後半頃は、高蔵寺か多治見より先が単線区間だった筈なので、その対策で、あとから付けられたものだと思う。

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当時の私にしては珍しく、車内の写真まで撮ってあるのでご紹介しよう。電動車・モハ70の車内で、何と言っても特徴的なのは扉前に設けられた「つかみ棒」だろう。今から思えば最も人が集まる部分に邪魔な物がついている気がするが、当時はこれでもお客が捌けたものらしい。ニス塗りの車内や灰皿にも時代を感じるなあ……。

因みにこの当時の中央西線は、昼間だと1時間に2本程度しか普通列車の設定がない。ラッシュ時でやっと4~6本と云う具合だ。もうこの頃には振り子式電車の特急「しなの」が1時間に1本は走っていたのに、普通列車は散々な有様だった。如何に当時の国鉄が、名古屋地区では利用されていなかったかを裏付けるような数字だと思う。

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最後に、お見苦しいついでにもう一枚。

70系電車の中に組み込まれてはいるが、車両形式・番号としては「サハ85 103」と記録してある。書籍等の資料を見ても間違いはないようなので、そのまま記しておこう。
ややこしい話だが、「湘南型電車のグリーン車・サロ85を格下げして普通車化し、尚且つ70系に合わせて3扉化して塗装も変更した車両」ということになる。ご覧になり辛いとは思うが、中央の扉だけ少し幅広なのがお判り頂けるだろうか。それが増設した扉である。

グリーン車の格下げ・普通車化は、気動車などでも例があるが、こんな旧型電車でも既にそういう改造はあったようだ。実際、この車両に乗ってみると、車内は「何でこんなに座席のシートがフカフカなの?」と思うような、豪華設備だった。座席だけは、グリーン車のものをほぼそのまま活用していた、と手元の資料にもある。今にして思えば、もっとこの車両を選んで乗っておくべきだったなあと、少々後悔が残る。他にも、70系サロの格下げ改造車で、サハ75(名古屋地区の車は100番代車・同じく3扉化改造)と云う形式もあった。

中央西線を走る70系は、私が物心ついた頃には神領電車区に配置された車ばかりで運用されていた。
ここに掲載した写真は全て1978年に撮影したものだが、1980年の車両配置表では、もう神領電車区の項から70系電車が消えてしまっている。1979年に私が高校へ入って、校則の厳しい学校で揉まれている間に、廃車の運命を辿ったらしい。サヨナラ運転などの記事も、新聞では気付かなかった。廃止記念乗車券の話も聞いていない。

私が「鉄」の写真を本格的に撮り始めた1980年には、中央線の普通列車も113系ばかりになっていた。意外にひっそりした最期だったな、と個人的には思っている。

尚、何分、昔の車両の話題なので、古い資料などを参考にしながらできるだけ正確を期すようには努めたつもりだが、記事中に誤りがあるかも知れない。
お気付きの方はどんどんご指摘頂ければ、執筆者としても幸甚に存じます。

***

※お詫びと訂正:Tの糞爺様から、「タブレット除けの保護棒は中央西線では使われなかった」ことと、「この車両の名古屋地区での廃止時期は1978年12月である」旨、ご指摘を頂きました。ここにお詫びして訂正致します。同様には厚くお礼申し上げます。

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2010年2月22日 (月)

ゾロ目の日に敬意を表して

野暮用だが、急な用事が出来て、仕事を休んでしまった。然も用件の先はJR千種駅のすぐ近く。

肝心な用件先へ着くと、1時間待ちだと言われてしまった。順番を行列して待つものでもない。こうなるとどうしても「鉄」の血が沸いて騒ぐ。今日の記事としては月並みだとは思うが、私の成果をご覧頂こうと思う。

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お出掛けはバスと地下鉄で。850円分も乗らないことは明確だが、損を承知で敢えて一日乗車券を使う。

地下鉄駅に着いたら

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やっぱり普通乗車券も欲しくなり、ついつい買ってしまう。券番号、あと71人早かったら、と少々残念だが、贅沢を言っている場合ではないだろう。

中々本題に入れなかったが、1時間以上の待ち時間の内に私が獲得した「私なりの」は、これ。

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何しろ、「22号」まで運転される列車でなければ意味がない。そして、2号車が指定席の列車でなければ、指定席特急券は発行してもらえない。その中で、尚且つ「2番」の列が空いている列車は、これしか見当たらなかった。「見当たらなかった」は言い過ぎかな。これ以上、他の列車は当たらなかったのだから。

これを入手する前に「はくたか」と「しおかぜ」をマルスで見てもらったが、「はくたか」は団体客で埋まっている、と言われ、「しおかぜ」は多分同業者ではないかと思うが、2号車では2番の列だけが綺麗に売り切れていた。

まあ、こんなもので良いかな、と思いながら本当の用件を済ませ、帰宅の途についた。

あ、別にこの切符が欲しいために仕事を休んだのではないから、それだけは誤解なきようにお願いします  (^ ^;;;   
(でも有難い「急用」だった)。

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2010年2月20日 (土)

『デンデラリュウ』

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『デンデラリュウ』って曲を覚えておいでの方はあるだろうか。あ、尤も元歌は長崎地方の童歌だそうで、そちらは今でもメディア等で流れる機会もあると思うが。

私が今日書こうとしているのは、1977年(昭和52年)2月に「屋台のおっちゃん」なる人物がレコードにした、その童歌をコミックソング風にアレンジしたものの方だ。1977年と云えば私が中学1~2年の頃だから、私より精々5~6才程度若い方ぐらいまでしか、記憶に残っていないとも思われる。

長崎の童歌の方は「でんでらりゅう」だが、そのコミックソングの方は「デンデラリュウ」とカタカナ書きにするのが正当らしい。

何しろ、歌詞の初めの方は以下の通りだった(聞き違いがあるかも知れません)。

♪でんでんらりゅうが でてくるばってん 
 でんでらりゅうが でてこんけん
 こんこられんけん こられられっけん
 こーんこん

 先生が勝手にしゃべっとる 生徒はみんな眠っとる
 みんなが勉強やる気になったら
 今度は先生が眠っとる

 ……

こんな歌詞だった。子供心にも大変ギャグ魂たくましい歌として、大いに記憶に残ったのである。当時のAMラジオでも、かなり流されていたと記憶している。

この曲を先日、何のきっかけか忘れたが、急に聞きたくなった。カセットテープに曲の一部だけ録音されたものは持っているが、フルコーラスを聞ける手段はないものか、と思ったのだ。

早速ネットで検索してみた。当初、「You Tube」で検索したものの出てこずに、Wikipediaで調べたり色々試してみた結果、「ニコニコ動画」というサイトで、とうとう発見することができた。上の写真は、どうもそのレコードのジャケットらしく、当の動画で音楽再生中はあの画像がずっと背景で映っている(写真は私が個人的に印刷したものを、デジカメで再撮影したもの)。永井豪さんという方が描かれたものだそうな。

30年以上ぶりにフルコーラスを聞いて、本当に「懐かしい~~っ」と思った。と共に、レコードがCDなるメディアに置き換えられて、もう聞くことは叶わないと思っていた曲が、インターネットと云う手段によって聞けることに改めてネットの偉大さを感じずにはいられなかった。

ネットも、こう云うことでなら、どんどん進歩して欲しいものである。

因みに、当の『デンデラリュウ』の曲であるが、「ニコニコ動画 デンデラリュウ」で検索すれば、簡単に見つけられると思う。また、「ニコニコ動画」のサイトは、無料だがメルアドでの登録が必要なので、フリーアドレスなどで登録されれば問題ないだろう。

それと、「ニコニコ動画」と何となく危なっかしいサイト名であるが、そちら方面の動画は殆ど登録されていないようだから、その点はご安心下され。

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2010年2月15日 (月)

職場の組旅行/伊勢・鳥羽へ

昨日・今日(2月14・15日)と職員旅行で伊勢・鳥羽方面へ行ってきた。概要を日記代わりに記しておこうと思う。

普通、こういった旅行ならカテゴリーを「バス・仕事」にするべきだろうが、私の所属する班(組)は私みたいに「鉄」分の濃いのがかなりいる。で、「是非、近鉄電車で行きたい」との声が上がり、実際に旅行を振り返ってみると「鉄」関係の話題がかなり多くなりそうである。それで別カテゴリーに入れることにした。

1日目(2月14日)

近鉄・名古屋駅付近に10時に集合。幸い遅刻者はおらず、すんなりと特急電車の客になる。

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一般の特急ではなく、「伊勢志摩ライナー」と呼ばれる車両で、然も席はサロン席だった。2+1の座席配置(向かい合わせ座席)でシートピッチも広い。副組長も「鉄」なので、かなり気を使ってくれたらしい。普段、近鉄に乗る機会はまずないから有難い。

いつもは真面目にハンドルを握っている仲間も、今日は手に手にビールである。車内で既に宴会状態に近くなる。

今回の旅行では、「鳥羽水族館見学組」「伊勢・鳥羽自由周遊組」「近鉄乗り放題組」に分かれるように、事前に組長らがアンケートを取って、それぞれに合う切符を渡してもらってある。私は「伊勢・鳥羽自由周遊組」だが、別に団体で行動するという訳ではなく、車内で「鳥羽の宿泊ホテルで18時半から宴会をするので、それに間に合うように皆さん行動してください。あとは皆さんの良識に任せます」と組長からのお言葉があるだけだ。かなり自由度は広い。

伊勢神宮に近い宇治山田駅で、既に何人かが下車する。伊勢参拝したい仲間と、「近鉄乗り放題なので、今から大阪に行って鳥羽へ戻る」という『豪傑・鉄組』だ。私は取り敢えず身軽になりたいから、主メンバーと一緒に鳥羽まで乗る。

昼食まではご一緒し、ここからは一匹狼に変身。まずは手荷物だけを駅に近いホテルに預け、手ブラになる。

ホテルに行く途中

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これが見えてしまって、JRマニアとしては気が動くが、今回の切符ではこの周辺の近鉄電車と三重交通系列のバスにしか乗れない。涙を呑んで我慢し、駅横の鳥羽バスセンターに赴く。

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各方面へのバスがあるけれど、折角なので出来るだけローカル路線に乗ってみたい。三重交通が鳥羽市に委託され、「鳥羽市営」として運行している路線があるようだ。ちょうど時間も合うし「小浜」ゆきというバスに乗ってみよう。

……と勇んで乗ったのだが、ほんの6~7分で終点の小浜へ着いてしまった。あまりに呆気ない。因みに停留所の名前通りに、

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こんな風に海が見える、長閑な終点であった。

折り返しまで少し時間があるので、近くの漁港などを散策して時間を潰す。普段は時間に追われているから、「時間を潰す」とは実に贅沢なことなのだ。

発車時間少し前にバス停へ戻ると、別の中型バスがやってきて、それが次に私の行こうとする「安楽島」の方向幕を出した。上の写真でも既にそうなっているが、私がここまで乗ってきたバスは「回送」の表示のまま転回場脇に停まっている。他所様の運用のことはよく判らないが、私から見ると贅沢な車両の使い方、との気もする。

「安楽島」なので、当然「あんらくじま」と読むと思っていたら、運転手氏が「『あらしま』ゆきのバス、発車しまーす」と言った。客は他に、地元のお婆ちゃんらしきが、お二人。

さっき来たコースをそのまま引き返し、鳥羽のバスセンターを通り越して、更に「あらしま」へ向かって走る。これも委託市営バスなので、鳥羽市内の狭い路地をすり抜けるように銀行前や市役所などを通る。主メンバーがいる筈の「鳥羽水族館前」のバス停も通り過ぎた。

今度は欲求不満にならないように、ちゃんと30分くらい走って、もう細い路地へ入り込めないような所まで行き着いたら、そこが終点の「あらしま」だった。

またまた折り返しまで時間がある。私は今日も明日も、伊勢神宮へ行くつもりはない。お伊勢さんには何度か来ているし、それ程、神社仏閣にも興味は湧かない。だが、この終点は目の前に

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急坂を登る鳥居が、バスの客を待ち構えるように立っている。地元の氏神様か、よく判らないが、これはお参りせぬ訳には行かぬ。急な階段を登って、運動不足の体に少しばかり渇を入れさせる。

お参り以外には、特にすることも無くなってしまい、バスの転回場辺りでバスの写真を撮ったりして、少々「オタク」をする。

今度は、さっき乗ってきたバスで、また鳥羽のバスセンターへ戻る。

まだ、宴会までには大分時間がある。バスターミナルの時刻表を見てみると、お伊勢さんの内宮・外宮経由で近鉄の宇治山田駅へ行く「CANバス」に乗れそうだ。私の切符でこのバスにも乗れると書いてある。宇治山田からは近鉄の普通電車で戻れば程々の時間になりそうなので、

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少々派手な、いで立ちのバスに乗ることにする。 いすゞエルガのノンステップバスで、塗装を除けば自分が普段乗務しているバスと殆ど変わりはないけれど、他府県で、然も「客」として乗るのなら、気分は全然別のものとなるのである。

先頭に並んで乗ったら

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オタ席がなくて、パンフレット置き場になっていたのは計算外だったなぁ。
それと、日曜日なので、伊勢神宮が近付くと道路が渋滞し始めた。幸い、私の向かう方向は渋滞とは逆で、初めの案内放送どおりほぼ1時間で、宇治山田駅へ着いた。

おまけ①。宇治山田で鳥羽方面行きの普通を待っていたら、「次の電車は団体専用」と表示が出て、反対ホームに

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団体専用の「楽」って電車が入ってきた。普段見慣れぬ列車で、ちょっと眼福。

おまけ②。更に待っていると、たまたま目の前に停まった特急電車の車両番号が

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だった。これも、そうそう見られるものではないと思うが。

誠に良い時間にホテルに戻れて、風呂にゆっくり浸かってから宴会。大阪へ行った豪傑組もちゃんと間に合い、1次会、2次会、2.5次会(?)と久し振りに浴びるほど酒を飲んだ。ただ、酔って乱暴したり説教を始める者はなく、平和な宴であった。

2日目(2月15日)

「朝食は7時半からですよ」。
昨日の内に言われていたが、程よい6時半過ぎに目が覚める。一風呂浴びて、呼吸を整えてから、朝食に出向く。

今日も、朝食を済ませば、「あとはお好きにどうぞ」になっている。主メンバーは10時発の特急で、一路名古屋へとしてあるそうだが、それではちょっと物足りない。取り敢えずは、昨日乗った「CANバス」にもう一度乗って、宇治山田まで出ようと思う。あとは到着時間と気分次第で行動を決めよう。

皆さんに「お先に」と言ってホテルを出ようとすると、昨日の「大阪豪傑組」の“キャプテン”と一緒になる。「今日は、どこまで乗りますか?」と尋ねると、苦笑しながら「流石にちょっと疲れたからな……どうするかな」とだけ言う。キャプテンは近鉄電車の駅へ、私はバスセンターへと、途中の信号で別れる。

昨日乗ったのと、同じCANバスだが、時間帯によって若干ルートに違いがあるようだ。また昨日は外の景色ばかり気にしていて気付かなかったが、バスのシートは

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こんな風に伊勢志摩の名所や人気者が描かれていて、微笑ましい。また、オタ席がないのは同じだが、昨日乗ったバスとは少し座席配置も違っていた。私は「記録能力」があまりないので、どちらのバスも車内の写真を撮り忘れていたが、何しろ昨日とは細部が違ったのだ。

ほぼ時間通りに走れたのだろう、昨日同様、1時間くらいで近鉄の宇治山田駅に着いた。

隣の伊勢市まで乗ると、JRに乗って名古屋へ帰ることも出来るが、JR代は自腹を切ることになる。近鉄に乗って名古屋へ戻るなら、この切符のままでよい。特急料金は、鳥羽からの金額を事前に受け取っている。考えがまとまらないが、まずは途中の伊勢中川まで、普通電車に揺られようかと決める。

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天下のお伊勢さん付近でも、普通電車は2両きりで、然もワンマン運転だった。

近鉄は、特急列車の本数が多く、あちこちの駅で「追い抜かれ」のための待ち合わせがある。特別料金の要らない急行列車にも追い抜かれる。1時間弱で終点に着いたが、流石にちょっと、まどろっこしい。外は雨だから、窓外の景色もそれ程興味を駆り立てぬ。

ここから県庁所在地の津までは、急行に乗ることにして、津からは特急に乗れぱ、名古屋へは割と早く戻れるだろう。名古屋駅から我が家への途中にある繁華街・栄にも少し用事があるから、立ち寄りたい。

予定通りの行動を取って、自宅へは15時前に帰ってきた。

携帯パソコンを立ち上げたら、組長から「100%満足な旅行にはならなかったと思いますが、至らぬ点はお許し下さい」と皆に宛てたメールが入っていた。

私は直ぐに「十分満足して帰って参りました」と書いて、返信を送った。

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2010年2月11日 (木)

お知らせ

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ご紹介だけの短い記事だけど。

先日、サイト「松前線」の管理人・denki.777様から、愚ブログ2009年9月24日付の記事「思い出の松前線旅行」にリンクを張ってくださった旨、ご連絡を頂いた。

それで、私の方からもお願いして、相互リンクと云う形にさせて頂くこととした。

「松前線」のサイトは、松前線やその周辺の事柄を詳しく楽しく紹介されているホームページである。松前に行かれたことがない方でも十分に楽しめるサイトだと思う。

愚ブログへお越しの皆様もご覧になると、色々お楽しみ頂けると思う。

「どうぞ『松前線』へ行ってりゃー(名古屋弁です)!!」

以上、おさかなからの、お知らせでありました。

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2010年2月 9日 (火)

ナンバープレート照射灯

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バスでなくとも軽車両を除く「くるま」には、暗い時には後部のナンバープレートを照射して、ナンバープレートを読めるようにしておかなければいけない、との規則がある。だから、このプレート照射灯が球切れを起こしていると、「整備不良車両」となって、運転している者が処罰の対象になってしまう。

実際には意図的にナンバー照射をしていない場合以外は、そう簡単にその場で「罰金」とまではならないと思うが、規則の上ではそういうことになっている。

そこで、今日はバスの年式やメーカーによる照射灯の違いを、少しだけだがご紹介しようと思う。

上の写真は2灯式の例。写真の元は日野車のツーステップ車で、両方向から照らす形式になっている。
2灯式は他に、上部の二箇所から照射する形式もある。私たちの職場で現在最も両数が多い「Jバス仕様のノンステップ」の車は、そのタイプで、私の車庫には30両程度が存在している。

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ケチっている訳でもないだろうが、この様な1灯式のタイプも多い。私たちの車庫にいるふそうの車は全部1灯式だ。

その他に、日野の初期のノンステップ車も同じような1灯式になっている。

灯火類の異常は、朝の運行前点検の必須項目になっている。2灯式なら、2つの内1つが球切れしていても夜間にナンバーが読めない訳ではないから、即刻電球の取替え、とならない場合もある。ただ、これはあくまで急を要している場合の話であって、原則は見つけ次第取り替えなければならない。
私たちの職場では、こうした簡単な球切れ程度だと、早朝や深夜で工場の係員がいなければ、点呼等の係が修理をすることになっている。

その意味では、この1灯式はシビアになってしまう。球切れ=即刻電球の取替え、を要請しなければ、道交法違反となってしまう訳だ。

ここまでは、まあ当たり前の仕様かなと思うのだが。

UDのノンステップ尿素仕様車(西工)だけが

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かように何と、豪華(?)4灯式になっているのである。

ナンバーの照射灯って、存外球切れが多い。従って、4灯の内どれか一つでも球切れしていれば、修理の対象になってしまう。このタイプは私の車庫では3台しかなく、それ程“被害”を被る確率は高くないが、何しろ球切れに気付き次第、修理を頼むことになる。

また、このタイプは簡単に球の取替えが出来ないらしく、一々上についている電球BOXごと取り外して修理しなければならないそうな。だから、修理の時間が足りなく、且つ昼間にしか走らないと判っている場合は、「運行後に工場へ持って行って下さい」となってしまうことも稀にある。

修理屋泣かせの仕様ではないかなと思う。

皆様方もどうぞ車に乗られる際には、お気を付けくださいね。

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2010年2月 7日 (日)

私が言うところの「おさかな」

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「何ですか、この小学生の落書きみたいなのは?」と言わないで頂きたい。齢46の私が、さっき書いたものだ。

以前からこの記事は書こうと思っていたのだが、先日の札幌旅行で宴席をご一緒頂いたNさんやWさんからもご質問頂いたので、なるべく早めに書こうと決めていたのだ。

で、上の落書きのご解説に移る訳だが。

誠に変な形をしているが、泳いでいるのはどちらも魚のつもりで書いている。右側で「♪」しているのが私の分身たる「おさかな」で、想像上の生き物にしても長閑にして平和な性格と云うことになっている。左を泳いでいるのはそのお友達で、特に名前はつけていないが、心密かには「でっかいおさかな」と呼んでいる。下で「Zzz」しているのはカメさんだ。

この「おさかな」が誕生したのは、中学2年生の時である。確か理科のノートだったと思うのだが、とある女子が私のノートに落書きをした。それは紛れもなく魚の漫画だったのだけれど、可愛らしかったのでそれを私なりにアレンジさせたら、あんなまん丸いヘンな「おさかな」が出来上がってしまった。以来、今日まで私の分身として君臨してもらっている。
思えば、長い付き合いになるなあ。

尚、上の落書きには書いていないが、お友達としてカジキらしき形をしたもの、マンボウらしき形をしたもの、エンゼルフィッシュらしき形をしたものも存在する。

自分で勝手に書いて自分で勝手に気に入ってしまったので、高校へ入っても私のトレードマーク代わりだった。高校1年の終わり頃から、仲の良い男友達一人と女友達二人の計4人でグループ日記を始めたのだが、文章は別として私はあの「おさかな」しかロクロク書かなかったから、日記の仲間内では私は「おさかなさん」としか呼ばれなかった。

大学へ入ると「おさかな」は益々増長し、私は自らを「㈱おさかなカンパニー」の社長である、などと豪語する有様だった。因みに「㈱おさかなカンパニー」は、社長から平社員まで全社員を私一人で賄っている。『社長・島耕作』など、私の目ではない。また、私が広島へ旅行すれば広島支社が急遽出来上がるし、札幌へ旅行すれば札幌支社が唐突に出没する。全国ネットの巨大会社なのだ。

このブログのタイトルとなっている「魚澄庵」は、私の家のニックネームだ。さかなの住む庵だから「魚住庵」とすべきだろうが、それではあまりにストレート過ぎて能がない。それで「住」の字だけを字面のいい「澄」に変えて、こうなっている。
我が家は実家の隣で、住所も実家と同じである。同じ住所で苗字も同じ家が2軒あると紛らわしい。それで、郵便屋さんだの宅配便屋さんだのが迷わないようにと思って、私だけがこちらの家に引っ越した時に、この家に勝手にニックネームを付けてしまった。郵便受けにも「魚澄庵」と小さな文字で記してある。

……と色々講釈を垂れてみたが、つまるところは14歳の時の落書きが、その後何の進歩もなく46歳の現在まで続いていると、それだけの話である。
これでは、ブログの記事にもならぬ   (^ ^;;;;;

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2010年2月 5日 (金)

懐かしのバス塗装・我が職場編

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N市のTさんが記事にされていたので、懐かしさのあまり緊急コラボと云うことで……。

私の職場のバス、N市のTさんが記事にされていた塗装が実際に走っていた頃の写真は、この一枚しかない。

この写真は昭和51年の11月1日、我が家から徒歩で2~3分の所にバス停が新設され、新規の路線が走ることになったので、その一番バスを撮影したもの。時刻は現在のこの路線の一番バスとほぼ同じ、6時20分頃だった覚えだ。

物珍しいので、当時から遅刻ギリギリにしか起きなかった私が珍しく早起きをして、オリンパスのPEN-EEを携えて、バス停で待ち構えて撮った。新規路線の一番バスだから、何かデコレーションでもしてあるかと期待していたら、ご覧の通り、何もない普通のバスがやって来てガックリしたのを鮮明に覚えている。

昭和51年=1976年で、もうこの当時から写真を撮るようなバスマニアだったんだなあと、我乍ら苦笑してしまう。

因みに、赤色の帯が巻いてあるが、これは「ワンマン専用車」を意味している。ツーマン専用車やワン・ツーマン兼用車には、この赤色の帯は巻かれていなかった。ワンマン専用車は私が幼稚園に入る頃……昭和42年頃から一般的に走り始めたと記憶している。だから、私がより一層懐かしく思う塗装は、赤帯を巻かないでこの塗装、という奴になる。
「N市のTさんのブログ」にあるように、せめてもう一台、赤帯なしで塗り替えてくれたら、より市民にも喜ばれるのではと思う。

ただ、ご覧のように5色の色を用いていて複雑な塗装なので、塗装費用を浮かすために昭和54年頃から簡略されたグリーンとイエローの2色の塗装に順次、変更されていった。この「グリーンとイエロー」の塗装は、拙ブログ2008年12月の「名古屋市交・天白営業所」をご覧頂ければと思う。

私がバス好きとなった原点の色を復活させたバス、我が職場80周年記念事業の一環として走り始めた訳だが、バスマニア暦40年以上の私としても、長く走って欲しいものだと思っている。

尚、プリントからのスキャンで、然も当時に流行った「絹目調仕上げ」のプリントが元なので、画像が著しく荒れていることはお許し下され。

***

※後日追記:ワンマンカーの赤帯、記事では「昭和42年頃から」と記したが、資料を詳しく調べたところ、昭和44年からの導入とあった。また、イエローとグリーンのツートン化に関しては、昭和50年から開始とあった。お詫びして、訂正致します。

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2010年2月 3日 (水)

札幌近辺撮影結果ご報告

本文に入る前に。

2010年も明けたばかりと思っていたら、もう今日は節分でありまして。
節分の日には「丸かじり寿司」を食べるとは、いつ頃から出来た風習かはっきり覚えていないけれど、私がトラックの運ちゃんをやめた20年位前からかなぁ。トラック運転手当時、コンビニへも配達に行っていたのだが、まだ「丸かじり寿司」の宣伝はしていなかった覚えだ。

今日は仕事が休みなので、先程近所のスーパーへ昼食を買いに出たら、出来合いの惣菜コーナーは丸かじり寿司で埋め尽くされていた。まあ、別に「開運・極太巻き」をかじろうという気にもならないので、普通の鉄火巻きをと思ったら、こちらも細巻きながら切れ目が入れてなかった。

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あくまで今日は「巻き寿司は丸かじりしなさい」ということらしい。
ささやかな細い幸せでいいから、後でかじることにしようと思う。

さて、やっと本文に入る。と前置きが長かったですね。

先月も書いたようにスキャナーの調子が悪く、一部画像でお見苦しい部分があることはお許し下され。また画像の読み込みにもたいそうな時間がかかってしまい、昨日は半日が潰されてしまった(昨日もお休みだった)。スキャン用のソフトをインストールし直したら、状況は劇的に改善された。もっと早く、再インストールに気付くべきだった。

では、今度こそ本当に画像のアップに移ろう。

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これはvanagon714さんにお連れ頂いた有名撮影地・「厚別のカーブ」での1コマ。200mmのレンズを付けて手持ちで撮影しているが、少し無理をしてでも三脚を立て、300mmで撮影すべきだったなと思っている。画面右下の鉄骨か何かが、ちょっとざわざわしてしまって目障りなのが残念だ。スラントノーズが残っている内で尚且つ雪のない時期に、再チャレンジしたい場所だ。

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これもvanagon714さんにお連れ頂いた場所。江別駅直ぐ北側の、千歳川橋梁である。橋のガードが高いので、こうしたタテ撮りでも結構面白いアングルになるのではないかと思っている。列車は時刻から、1085レだと思う。区間としては江別~豊幌になる(とvanagonさんに教えて頂いた)。

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ここもvanagon714さんにお世話になった場所。時刻的にもうすぐDD51重連の貨物(1080レ)が来る筈だからと、ここではちょっと我儘を言って粘らせて頂いた。vanagonさんには「厚別のカーブより、ここの方がいいですね」とお話していたが、1枚目の写真(註:鉄火巻きの写真のことではない)と比較してお判り頂けたでしょうか? 尚、重連であることを明確にしたいため、セオリー通りの撮り方よりほんの一瞬だが早めにシャッターを切っている。これも区間は江別~豊幌。

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ここからは単独行動で撮影した、札沼線の映像。「旅日記」で書いたように、札幌から最初に乗車したのはあいの里公園行きの201系だったのだが、終点の一つ手前・あいの里教育大で私の車両の客は全て降りてしまい、私一人がポツンと残された。折角のロングシート201系も、これでは真価が発揮できないなと思いつつ撮った。と同時にあいの里公園止まりの列車が多いことも、納得できた。1555D車内にて。

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あいの里公園で列車を降り、振り向いたら高圧鉄塔が目に付いた。見ようによっては邪魔者だけど、これも一つの撮影アイテムにしてしまえば面白いかと思って、こんな構図にしてみた。タテ撮り写真は、私は気分が乗っている時は結構多用する。先程もタテ写真をお見せしたが、多分件のheart01♪効果がここでも発揮されているのだろう(←まだ言ってるよ、このオヤジ)。区間はあいの里教育大~あいの里公園。

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今回の玉砕モノを。一番の撮影地と思って勇んで出掛けた石狩川橋梁。ご覧のようにトラス部分が延長されて、全く使い物にならなかった。またトラス部分には防風シェイドも併設されて、益々玉砕の度合いが高まっている。まさしく「天皇陛下万歳」である。あいの里公園~石狩太美にて。

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この日はまだ吹雪いていなかったけれど、撮影から数日前に札幌はドカ雪だったそうで。その後始末のような感じで、石狩当別駅では除雪作業が行われていた。ここは旅客列車が走る本線ではなく、保線作業車などが出入りする側線部分である。

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ここも旅行記の方で書いた、「吹雪かれつつパトカーに監視されつつ」、撮ったという奴である。このアングルの時は吹雪はほぼ止んでいたが、私の後方に、パトカーは後ろを向けて停まっていた。拡大してご覧頂くと、多少ピントが甘いのにお気付きの方もあるかと思う。シャッターを切るのが一瞬早かったようだ。それにしてもPDCが撮りたいのに、201系ばかり来るのはどうしたことか。石狩太美~石狩当別にて。

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夕方、薄暗くなってきたので敢えて露出アンダー気味で撮った写真。これぐらいの暗さの時に、去り行くテールライトと云うのは何かとても情緒があるように私は感じる。色温度の加減で画面がどうしても青っぽくなる訳だが、その中に赤い点が2つだけチョンとあると、切なささえ感じてしまう。拓北~あいの里教育大にて。

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3両が基本の札沼線だが、朝夕のラッシュ時にはそれを2つ繋げて6両での運転などもある。もうラッシュ時間は過ぎていたが、ラッシュの返しの列車なので6両での運転となっているらしい。札幌自動車道を跨ぐために高架の線路が更に一段盛り上がっている。長い編成だと芋虫みたいに車体を盛り上げられるので、面白い場所だ。新川~新琴似にて。

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この辺りからいよいよ「吹雪に凍える」シリーズが始まる。この列車も定刻より5分ほど遅れていて、私はホームの端から寒い手を擦り合わせて列車を待っていた。列車を待つ人は他にもいたのだが、皆、右手の防風ドアの中で待っておられる。根性よく外で列車を待っていたのは、この男性一人であった。新川にて。

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ここではもう既に、かなり凍えている。こんな吹雪なのに、小さい子供を連れて出かけなければならない用事があるとは、大変なことだと思う。子供も特に嫌がる風はなかった。北国の方の根性を見せ付けられた思いがする。と言うより、これが北国の日常なのだろう。太平にて。

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この写真に至っては、一体何を撮ろうとしたのか自分でもはっきり覚えていない。何しろ列車に雪がこびりついて、あまりに凄い形相になっていたので、冷たさで痺れかけた指でシャッターを押したように思う。流石にこの時は手袋をはめているが、手袋一枚ではもはや乗り切れる冷たさではなかった。百合が原にて。

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有人駅の篠路に着いて、ヤレヤレと一段落つけてから撮影したレチさんとお客の1カット。ただ、まだ体も精神力も完全には復帰していない。私の悪い癖、「シャッターのある右側が下に傾いている」写真になっている。まあ、これも自身の記録かと思い、載せておくことにする。

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反対ホームに移って、もう少しだけ駅の風景を。ご覧のように真っタテの駅名標にも吹雪によって雪がこびりついている。ここへ着いてから雪は徐々に収まってきたが、まだ風はかなり強く冷たく、「この列車は10分遅れ」とメモ帳に書いてとある。また、寒さが原因かどうか、この日比較的多用した広角の24mmレンズは、この写真を以ってピントが動かないようになってしまった。現在、修理のためカメラ屋さんに出張中……。

最後にタイが泳いだ嫌いはあるが(済みません、この部分、地域ネタです)、寒い中でもシャッターを切るだけは切ったから、その甲斐はあったかなと思っている。

また、初め3枚の写真に関しては既に記したようにvanagon714さんに大変お世話になった。改めて御礼申し上げる次第である。

こんな、札幌近辺の冬景色でありました。

(尚、冒頭の鉄火巻きは、これを書いている間に「まるかじり」しました・笑)。

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2010年2月 1日 (月)

清水沢再々訪記

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今日は、珍しく画像主体の記事になるかな。

先日の札幌方面の旅行記で「後日別掲としたい」と書いた清水沢のことについて、詳細を綴ろうと思う。

清水沢とはご存知の方も多いと思うけれど、現在の石勝線(昔は夕張線といった)の支線にある、途中駅である。昔はここの駅から三菱石炭鉱業線が伸びていたが、1987年7月に廃止されている。

この石炭線があった頃は運炭列車で活気のあった駅だそうで、少し前にsuzuran6さんがその活気のあった時代をモノクロ画像で紹介されていた。それを拝読したのと、N市のTさんから「清水沢には、まだ硬券の入場券がある。手書きの切符も残っている」と教えて頂いたので、今一度この駅へ訪れようと思ったのだ。情報をご提供下さったsuzuran6さんとN市のTさんには、厚く御礼申し上げる次第である。
2年前の1月と5月に石勝線のこの支線の撮影に訪れ、2度とも清水沢駅で降りている。でも、清水沢の活況は殆ど知らずに降り立ったから、駅構内の広さに唖然とするだけで終わってしまった。今回も余り時間に余裕はないが、記録できるだけ記録しておこうと、旅行の最終日を空けておいたのだ。

さて、前置きは程々としておいて。

兎に角、清水沢駅に着いたところから話を始めよう。

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自分の乗ってきた列車を見送ったら、もう小さなホームに残っているのは私一人だった。私と共に私とほぼ同年代の男性客が降り立ったが、この方はどう見ても地元の方のようで、私みたいにカメラを構えることなくさっさと駅舎へと続く通路を歩いて行った。服装も旅行者のそれではない。

その「駅舎へと続く通路」。

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ホームからかなりの距離がある。20m……いや30mくらいあるだろう。嘗てはこの間にびっしり線路が張り巡らされ、石炭を運ぶ貨車や機関車が所狭しと待機していたそうだ。然し、その面影はこれでは全く感じられない。

ともあれ私も駅舎へ行き、先ずは「切符収集」に精を出す。N市のTさんから「駅の営業時間は14時まで」と教えられていた。2年前、私が訪れたのも14時前だったことは確かだが、私の日頃の行いが悪かったのか委託駅員さんの都合か、何しろ駅員さんはいなかった。

駅舎に入って

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この看板をちゃんと確かめ、左手にある窓口でお目当ての入場券と、行先の異なる乗車券を2枚買う。折角買ったのだから、お披露目しておこう。

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言わずもがなの硬券入場券。

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大して売り上げに貢献できた訳ではないが、何も買わないよりはいいだろう。それと偶然だが、今一度、2枚の乗車券の券番号を見て頂きたい。
ちょうど私の購入1枚目で、一つの補充券册が使い切りとなり、2枚目では新しい册の「01」枚目となっている。册のラスト番号とトップ番号を手に入れられた訳だ。珍しいケースだと自画自賛みたいな気持ちでいる。

その、券を発行してくれた駅員さんに一声かけて、再び改札の中に入ってみる。

今は何もない駅舎とホームの間のスペースに、積雪計が建ててある。

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現在の積雪、ちょうど1メートル。前日の吹雪の影響で、この辺りでも多少積雪が増えていたのかも知れぬ。

駅舎側に戻って、もう一枚。

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嘗ての炭鉱線・三菱石炭鉱業線は、私が立っている一番駅舎寄りのホームから発車していたという。但し、宮脇俊三さんの手記によると、ホームは板張りだったとのこと。何れにしても、痕跡は完全に雪に埋もれて、平成の時代に訪れる私には当時を偲ぶものは何も目につかない。

写真を撮っていると、私が個人的に好きなハトさんたちが足元に寄ってくる。やけに人懐こいなと思っている間もなく、駅舎の扉がからっと開いて、さっきの駅員さんが餌をパッと撒いてまた駅舎に戻っていった。

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ちょうどお昼時だったから、奴らは餌が撒かれることを知っていたのだろう。斜陽の街・夕張に生まれながら、定時に餌をもらえる奴らは幸せ者だ。

もう一度改札を出て、駅の北側にかかる跨線橋に登ってみようと思う。ひょっとして使われずに雪に埋もれているかと危惧したが、

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幸い、人ひとりが通れる幅だけは除雪されていた。

陸橋から眺めた、現在の清水沢駅ホーム。

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最大でも、ディーゼルカー2両が停まったら一杯になりそうな長さしかない。今度は少し駅舎側に戻って、もう一枚撮ってみる。

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ここに、何本の線路が敷かれていたのだろう。私には画像合成の技術はない。それがあれば、真っ白な雪の野原に想像のレールを敷いてみることが出来るのに。残念だが自分の頭の中で往時を偲ぶしかない。

さて、折角駅舎の外に出たので、少し買い物をしよう。ちょうど旅行の時に持ち歩くメモ帳が切れかけている。駅舎のすぐ前に

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こんな看板が見えている。メモ帳を買って、少しでも夕張の応援をしよう。尤も、本屋と兼用のお店なので、文具はそれ程置いていなかった。メモ帳も小さな物しか見当たらない。だがこれも「何も買わないよりはいいだろう」。

文具屋を出て振り向くと、道路側からの駅舎が見える。

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窓を潰した痕跡がある。嘗てはここで運炭列車の乗務員も宿泊していたのかも知れない。駅員だって沢山いただろう。平成旅行者は、あくまで想像でしかモノを言うことができない。せめてあと5年早く生まれていれば、活況を呈したここへ来る機会が持てたかも知れない。悔しい。

悔しがっていても仕方がない。ちょっと駅周辺をうろついていただけで、もう帰りの列車の時間が近付いてきた。さっき去って行った列車がここへ戻ってくる三十数分が、今回私に与えられた短い「清水沢での停留時間」なのだ。折りしも一人の老婦人が、駅へ向かって歩いて来られた。私も婦人に続いて、ホームへの通路を歩いてゆく。

すぐに、折り返し列車の姿が見えてきた。

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私が初めて夕張を訪れたのは、1987年(昭和62年)3月のこと。時、まさに国鉄が民営化されてしまうという時期で、私は国鉄石勝線・夕張支線に乗っておくのが精一杯だった。その旅行では、まだまだ先に、標津線だの湧網線だのと乗るべき線が残っていた。とても、途中のこの清水沢で降りて、三菱石炭鉱業線に乗る余裕はなかった。もう一日、捻出すれば、乗れていたに違いない。だが、当時の私の頭には、国鉄しかなかった。
何かのキャッチコピーを借りれば「一駅で二度悔しい」。

清水沢も、隣の鹿ノ谷も、何しろ旺盛を誇った当時の夕張界隈は、夜でも空が明るかったという。それが、いつの間にやら斜陽の一途を辿り、現在では「市」を維持することもアップアップの街になってしまった。

それでも、ここに残って生活している人はいる。雪が1メートル積もっていても、廃墟が街を覆い尽くしても、ここでしか暮らせない人はいる。せめて、その人たちの生活の火種として、夕張支線は残って欲しい。鉄路として残って、ここに暮らす人々を支えて欲しい。

先程の老婦人を追いかけるようにして、私も急いで汽車に乗り込んだ。駅前旅行者でもいいから、きっと、いや必ず、またこの駅へ来ることを自分の胸に誓いながら。

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