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2009年9月

2009年9月30日 (水)

ナンバープレートの話

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自動車などに必要不可欠な、ナンバープレートに関して多少の薀蓄を書こうと思う。ただ、あまりに説明的過ぎてはWikipediaになってしまうから、自分の主観も踏まえての記事にしてゆくつもりである。

私の住む愛知県は、県内に大自動車メーカーがあることも相俟って、自動車の登録台数が大変多い。殊に自家用車において、顕著である。

そもそも、ナンバープレートの地域名の後の数字がまだ2桁だった時代、普通乗用車を示す「50番台」のナンバーが満杯になって真っ先に「70番台」へ突入したのは、他ならぬ私の地元「名古屋」ナンバーであった。名古屋を中心とした愛知県は、兎に角自家用車への依存度が高い地域なのだ。
この事実は、逆に言えば私の好きな鉄道やバスの発展にブレーキをかけるものでもあり、正直申し上げて余り歓迎すべき事柄ではないと思っている。

さて、ナンバープレートと云うと、大半の方は「大きい数字で記された4桁の数字」をイメージされる方が多いのではなかろうか。私自身もそうである。

そんな加減から、私は現在の職場へ入るまで、職場のバスの番号を「4桁の数字」で暗記したり識別したりするのが一般的だと思っていた。ところが、現在の職場では、バスのサイズや用途・メーカーなどによってナンバープレートとは全く別個の独自の車両番号を設定している。点呼などでも、今日の乗務車両を告げられる時は、職場独自の番号の方で指示をされる。今では威風堂々、勤務年数15年を超える私のこととて、流石にナンバープレートの数字では最近ピンと来なくなった。「今日はNKH-22でお願いします」等と言われて理解するのが、すっかり日常になった。
大体が今の私の頭の中では、ナンバープレートの数字と職場独自の番号とが、リンクしていない(マニアを兼ねる者として、ちょっと情けない・汗)。

ところで、先程も書いたように、愛知県は自家用乗用車の登録台数が大変多い。2006年に「ご当地ナンバー」が設定されるまでに、既に県内では「名古屋」「三河」「尾張小牧」「豊橋」の4ナンバーが設定されていた。北海道のように広大な面積を有する地域なら兎も角、北海道の一支庁に満たない程度の範域で4種類のナンバーがあったというのが、既に自家用車の依存度の高さを示していると思う。

それに加えて「ご当地ナンバー」の登場と相成った。愛知県では新たに「一宮」「豊田」「岡崎」の3ナンバーが設定された。一県に3つのご当地ナンバーは日本一で、また既存ナンバーを加えた「一県で7つのナンバー」も、東京都や北海道を抜いて、全国一の数字となっている。

それにしても、ご当地ナンバーとは面白いことを考えたものだと思う。先程書いた「豊田」ナンバーなどは、うんうん然り、と思うものがあるが、個人的に最もユニークに感じるのは「富士山」ナンバーだ。様々な紆余曲折を経て昨年新設されたナンバーだそうだが、日本一の高峰は地元の方々にも誇らしい気持ちがあるのだろうか。以前は既存である「湘南」ナンバーが最も人気のある表示だったそうだが、その内に立場が逆転するかも知れない。

また、少し話が変わるが、大きい数字の4桁の登録番号が自由に選べる制度は、個人的には余り好きではない。誰とて「12-34」とか「11-11」とかの面白くて判り易いナンバーは欲しいだろうと思う。でも、あれは偶然に自分の登録番号がそれになったからこそ面白いのではないだろうか。変な言い方をすれば「博打性」のあるものとも言えるが、その面白さを抜き去ってしまう制度が出来たのは、(あくまで個人的にだが)歓迎すべき事態ではない。
極論だが、「欲しい物は願いを出せば何でも叶えられる」と、私たちより若い世代に誤解を与える要因にもなりかねないのでは、とさえ思う(嫌だねぇ、オジンは直ぐこう云うことを言いたがる)。

この制度のお蔭で、とあるメーカーのとある車種は、どの車を見ても「98-32」または「・・32」のナンバーになっている。ディーラーも気を利かせて敢えてしていることだと邪推するが、あの形の車を見る度に「98-32」だと、仕舞いに苦笑したくなってしまう。

えーと、色々書きたいことはあるけれど、まあ批判的なことはいい加減として、過日私が見た驚くべき事実を最後に一つだけ。

4桁数字の選択登録が出来ない時代は、下2桁が「42」と「49」になるナンバープレートは交付されなかった。日本人の方なら誰でもお判りと思うが、数字の読みが日本人として、殊に交通に関する事柄としては縁起の悪い読み方になるから、ある時期からは当時の運輸省が登録番号から外したのだ。

ところが先日、仕事中にふと前の車のナンバーを見ると

「・・49」

であった。まだ新しい車だ。仕事中でなければ絶対、証拠写真を撮るところだった。

4桁数字の自由選択制度により、この数字も再び下2ケタとして認められるようになったということだ。この数字を選んだ方のお顔をしかと、拝見したかったけれど、初めて普通車の免許証を取る際の受験番号が「1942」であった私としては、かの方の気持ちが全く理解できない訳でもない。自分なりに、(例え嫌味にしても)記憶に留めたい数字はあると云うものだからにして。

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2009年9月29日 (火)

人間の器用さと慣れと

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上の写真は、ご覧の通り、3扉バス車両の扉開閉レバー。画面左から順に前扉・中扉・后扉のものである。

私たちの職場では、私が職場に入る前の1987年に3扉車が試験導入され、翌1988年から本格的に導入されるようになった。以来、1997年までの11年間、大型ツーステップ車に関しては3扉が標準装備となった。

それにしても、初めて3扉車を見た時、こんな3つの開閉レバーを間違いなく操作できるものなのかと、大変不安な気持ちになった。私が具体的に現在の職場へ入ろうと心を決めたのが、ちょうど3扉車試験導入時の1987年のことなのである。2つの開閉レバーなら多分こなせられるだろうけれど、3つとなるとかなり頭の中で考えなければいけない複雑な操作になるのでは、と思ったのだ。

それでも、人間の脳みそは器用に出来ているようである。少なくとも私が知る範囲では、扉の開閉レバーを間違えたために、お客様を挟む事故になったとの話は聞いていない。ご参考までに、現在の新しい車の開閉レバーの写真も載せておこう。現在は2扉に戻っているから、レバーも2つしかない。

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大変シンプルで、見た目には矢張りこちらの方が操作しやすそうだ(註:レバーの左側に写っているのは電動サイドミラーの調整スイッチで、直接この記事には関係ない)。

実際に自分がこの職場に入って、いざ3扉車に乗務するようになると、不思議なものでそれ程複雑な操作とは感じなかった。写真を見て頂けばお判りのように、最後部扉のレバーには、黒いキャップが被せてある。これが一番の助け舟になっていると思う。指の触感で、中扉と后扉の間違いは防がれているのだ。

そして、職場に入って1ヶ月もしない内に、3扉車だからと不安がる気持ちも全くなくなっていた。「慣れ」によるものだろう。人間って実に器用に脳の仕組みが出来ているのだなあと、この当時はつくづく感心したものである。

先程も触れたように、現在は2扉に戻っている。3扉化の最大の理由は、ラッシュ時の降車客を早く降ろすことにあったのだが、正直言って期待したほどの効果がなく(中扉にお客は集中するものだ)、結局1998年からは中扉を4枚折り戸のワイド扉とした2扉仕様に変更されたのだ。
更にノンステップ車しか導入しないとの本社の方針も相俟って、現在では実質3扉車の導入は有り得ないと言っていいだろう。2005年に国土交通省の定めた「標準仕様ノンステップパス」も、2扉車となっている。

こうして、3扉車は新車が納入される度に数を減らし、現在、私の車庫では104両中7両だけの極少数派となった。その7両も、廃車延長の措置が取られなければ、今年度中に全車が廃車となる予定である。

今では稀に3扉車に乗務すると、再び2扉に慣れてきているので、確かにちょっと煩雑な気はする。でも、扉の開け間違いなどは別段ない。まだ、指先が3扉車の感覚を覚えているのだろう。

こうした器用な感覚はある意味、人間に残された「動物的本能」の名残りなのかも知れぬ。


関係ない余談:下の2扉車の写真、よく見て頂くとお気付きになると思うが、扉の説明タグがどちらも「前扉」となっている。写した車は2006年に入ってきた車だから、修理時などの付け間違いではない筈だ。多分納入時から、メーカーが誤ってつけてきたものだと思われる。たまには、こんなエラー車両もあったりするのだ。

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2009年9月28日 (月)

職場写真部懇親撮影会

一昨日と昨日、職場の写真部の面々と懇親を目的とした撮影旅行に出た。

「写真部」であるから、撮影に力を入れるべきで、皆それぞれにカメラは持って行っているが、今回は新メンバーも何名かおり、仕事の班が異なる皆が顔を揃える機会も少ないので「懇親」を主目的にしようと部長から提案があった。で、私もカメラは形だけにして、飲むことばかりを考えて出掛けた“動機不純の旅行”と相成った。

前日23時半まで仕事の私であったが、営業所へ7時40分の集合には何とか間に合う。ただ、はっきり言って滅茶苦茶眠い。今回、私はドライバーではないから、どうにもならなくなったら眠らせてもらおうと思っていた。結局そういう仕儀にはならなかったが。

さて、細かく書いていたらキリがないから、これから先は、行った先と簡単な画像添付くらいに留めよう。

東名高速を牧の原ICで降り、初めに向かったのが「お茶の郷」。ここには見晴らしのいいスペースもあるのだが、特に撮影の予定はない。昼食が出来ればと立ち寄ったのだが、予約無しでは不可とのことで、景色を見るだけで立ち去る。
おまけ画像。以前にもここへ来たことがあるが、その時にもいたと思われるネコ。

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先日の中央西線・原野駅のネコほど人懐こい奴ではなかった。

次は、この日のメイン、富士山静岡空港へ。部員に4名の飛行機ファンがいるので、行くべきだよなぁとなった所である。

私はバスと鉄道以外の乗り物に興味はないけれど、被写体として飛行機を見ると結構血がたぎる。ちょうど、着いた時間帯には離着陸が6~7回あり、そちらはフィルムカメラである程度撮ってある。ご説明用の飛行機の画像は

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これで堪忍しておいて下さいね。

あ、だけど、外から撮っていて結構目に付いたのは、客室乗務員が客を迎える態度のよいことだった。折角なので、そのカットを一枚載せておこう。

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ここで、2時間半の時間が取ってあったから、私は私で勝手に空港の周りをうろついてみる。辺りは何もない所に新規開港した空港なので、バスだけが唯一のアクセス機関のようだ。それも、見たのは全て「しずてつジャストライン」。

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しっかり写真も撮っておきましたよ。富士ボディの中型であることは判るけれど、メーカーまでは観察する余裕がなかった。多分(あくまで多分)UDだと思う。行先は、掛川駅南口となっていた。

天気が良くて、かなり暑い空港を後にし、1日目最後の目的地の「蓬莱(ほうらい)橋」へ。天下の大井川を跨ぐ木製の橋で、貰った資料によると1879年の完成とある。全長897.4mの木製橋は、世界一だそうである。橋の上の写真は延々と木の床が続いているだけだから、下から撮った写真をご覧頂くこととしよう。

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夕刻も近くなってきて、結構趣はあった。

ここから東名高速で少し戻り、浜名湖畔のホテルへ。部屋からは夜景も見えて、中々である。

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この写真を撮った後、私は睡魔に襲われて寝ようと思ったのだが、新入部員の爺ちゃんが、酒を飲むと若い者相手に説教を始めてしまう人で、結局夜1時近くまで静まらなかった。更にその後、私だけが何故か蚊の攻撃に遭い、やっと寝付いたのは3時近くだったと思う。


翌朝、6時過ぎに、件の爺ちゃん部員の声で目が覚める。何でも5時半に起きて既に風呂に入ってきたそうで、そうするとこの御仁の睡眠時間は4時間半程度である。なのに、朝からもう部屋に声が轟いている。この新入爺ちゃん部員、職場では既にOBであり、つまり還暦を越えており、バケモノとしか思えぬ。

早起きしたって気持ち良くも何ともない(極度の睡眠不足のため)が、もう自棄になって部屋から朝日に輝く浜名湖を写す。

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ところで、前夜、部長と少し打ち合わせをしておいたのだが、宿の直ぐ横を天竜浜名湖鉄道(元・国鉄二俣線)が走っており、少し車で移動すれば浜名湖と共に列車を写せるポイントもありそうだ。で、9時半に宿を出て、まずはそのポイントへ行ってもらうことにした。私の鉄道写真キチガイ振りは営業所でも有名になっており、部長が気を利かせてくれたのだ。

肝心の列車の写真は……ま、機会があったらいつか載せますわ。
何しろこんな感じのところでカメラを構えた。

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向こうに見える白い柵の更に向こう側を、線路が走っている。

30分余の内に効率よく上下2本の列車を撮影して、ここは撤収。
最後の目的地、大草山へ向かう。

ここからは、浜名湖やその内湖の猪鼻湖などが俯瞰でき、絶景が満喫できる。私も色々撮ったけれど、説明的にここから見えた「私たちの泊まったホテル」の写真があるので、それを貼っておこうと思う。

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画面左、木々の上の白い建物が、私たちの泊まったホテルである。何れにせよ、俯瞰は気持ちのいいものだ。

帰りは、高速道路が混む時間帯を避けるために早めに戻った。営業所へ戻ったのは部長の計算どおり、15時きっかり。

部長さん、ドライバー役の4名の皆さん、大変お疲れ様でした~。

因みに何もしていない私は、実は一応「副部長」との役付きである。でも、いつも付和雷同でくっついて行くだけで、何もしない。困った役付きである。

部長の車で家まで送ってもらい、私は直ぐ布団に潜り込んだ。2夜連続で睡眠時間4時間を切る状態では、私は生きていけないのである。

やっぱり私は、バケモノには程遠いのであった。

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2009年9月24日 (木)

思い出の松前線旅行

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時期を逸してしまうとあまり意味がなくなってしまうから、敢えてこの時期にこの記事を書くことにする。
今日はなるべく、写真主体にしようと思う。

3日前の記事で、1987年に渡道した際のバス写真を掲載したけれど、この年は自分の「就職元年」の割に、2度も北海道へ渡っている。

その2度目の渡道がこの記事の旅行で、この時には青函航路に乗るのもまず間違いなく最後になるだろうし、松前線だけでは片手落ちだから、当然江差線の写真も撮ろうと予定を組んでいた。

そんな折、当時56歳だった母が急に「私も付いて行こうかしら」と言い出した。この頃から既に私の旅行は鉄道一点張りで、2時間に1本くらいしか来ないローカル線の沿線で、ひたすら列車を待つだけのものであった。母に「それでもよいか?」と尋ねると、「それでも構わない。私は北海道へ行ったことがないし、青函連絡船にも乗ったことがないから乗りたい」と言う。本人にそれまでの覚悟があるならと、母を同行することになった。

時期は22年前のちょうど今頃で、もう少し詳しく書くと9月12日に出発して、16日に帰ってきているようだ。この内、14日と15日を松前線の撮影に充てている。

以下、思い出と共に当時撮影した写真をご覧頂こうと思う。

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先に江差線を撮影し、一旦母は函館見物に行きたいと言う。私はまだ江差線撮影の予定を組んであったので、上ノ国駅で母を函館行きの列車に託し、私は列車から降りた。「函館を13時37分に発車するこういうサボの列車に乗るのだぞ」と全く旅慣れていない母に教えたのが、このサボ。木古内で母と合流する約束にしておいた。指定した列車に母の姿を見つけた時は、流石にホッとした。

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渡島吉岡で降りて、母には「この国道をひたすら歩けば、三脚を構える自分に追いつけるから」と言い、当時は健脚だった私は先に歩き出した。白符駅との間にある宮歌川橋梁での撮影。勿論、シャッターを切った時には母も追いついて、私の隣で同じようにコンパクトカメラを構えていた。

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白符駅直ぐ脇にある、白符隧道から顔を出そうとするキハ22。この旅行の中で私が撮った写真では、この写真を母は一番気に入ってくれた。

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及部駅で降りて、また撮影。夕刻になってきて、雲とホームを照らす僅かな灯りが綺麗だったので、撮っておいた一枚。宿は松前に取ってあり、結局この写真の後、母と二人歩いて松前の宿へ向かった。

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翌日は、渡島大沢まで列車に乗ったあと、この海岸から撮影。私は私で、この写真が松前線で一番お気に入りの一枚になっている。一方、この時母は、付近で地元の猟師のお爺さんに捕まってしまい、早く私が戻って来ないかと心待ちにしていたそうだ。と云うのは、猟師のお爺さん、訛りと方言が酷くて母には会話が殆ど理解できなかったらしいのだ。

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偶々、さっきの海岸付近に函館バスのバス停があり、一旦松前に戻ることが出来るようなので、松前に戻って駅前の風景をパチリ。キハ22も懐かしいが、写真右脇に丸型のポストがあり、こちらも懐かしい。

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松前駅の構内を、ホームから少し外れた所より。松前線は既に廃線の噂が上がっており、結局ATCの設置はせずに腕木式信号とタブレットを守り通した。

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渡島吉岡付近を走る列車の中からの撮影。この少し海沿いに、現在の吉岡海底駅があると思われるが、そんな青函トンネルの工事現場の基地が車窓にも見えた。

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千軒駅で交換する上下列車。4823Dと846Dの交換。車掌の乗った列車、朱色のキハ22、何れも貴重な風景と化した。

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松前線からの最後のカット。これもある意味、今では絶対に見ることの出来ない光景だ。走る松前線の列車内から、木古内の直前で、まだ当時は列車が走っていない海峡線と江差線の線路が合流するところ。こうして見ると、複線の海峡線は堂々としているが、右隅の江差線の線路は細々としたものに見える。

***

写真は以上だが、この後、江差線の釜谷駅で降りて撮影し、更に江差線に乗り函館に戻った。函館山から夜景を眺めた後、19時45分出航の24便で、本州へ戻っている。最後の青函連絡船くらい豪華にしようと奮発し、母とグリーン船室に乗った。今から思えば1100円を余分に払うだけのことだが、当時としてはこれでも大奮発だったのだ。

でも、母と共にいい思い出が出来て本当に良かったと、これは今でも思っている。
先月で78歳になった母も、今でも「こんなに思い出に残る旅行はなかった」と言ってくれている。

そして、松前線の方は、この翌年の1月限りで廃線となっている。

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2009年9月23日 (水)

秋の彼岸・臨時墓参バス

世間は5連休であるが、5勤1休が基本の私は18日が公休日の後、19日からひたすら仕事と相成った。今日は本来なら調整指定休だが、休日出勤を頼まれ、5連休は見事に「5連勤」に変わってしまった。

ところで、今日は言わずもがなの「彼岸」のお中日である。私の営業所の担当系統には、名古屋一の墓地公園・平和公園を通る路線があるのだが、お彼岸やお盆には臨時増強バスを出す。私の今日の休日出勤も、その臨時墓参バスの担当であった。

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これがそのダイヤ板の一部。臨時仕業なので、ダイヤ番号は600番台が使われている。

臨時増強便だけは、昨年秋の彼岸から他の墓参車の渋滞に巻き込まれないよう、ルート変更を行っている。地下鉄駅から平和公園を経由する迂回の循環運転にしたのである。これのお蔭で、今回は渋滞でイライラすることもなくスムーズに運行できた。

ただ、迂回運転中は他の路線が走るルートも通るから、変な方向幕は出せない。で、会社名を表示した表示を出して迂回区間は運転する。

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そして、迂回運転の区間が終わると、普段は使わない「区間運行」の表示に切り替える。

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お客様の流れは「地下鉄駅⇔平和公園」だけなので、一方通行の循環運転で増強は十分間に合うのである。それで、こんな方向幕の出し方をするようになった。
今はLED式の幕の車が多いから、こう云う時には威力を発揮してくれる。

ただ、地下鉄駅に接続する始発停では、会社名を表示しているだけだから、立ち番の職員が案内に立つ。また私たちも

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点呼の際に、こんな「案内用語例」の用紙を渡されて、これに類した内容の案内放送を口頭で入れる。少々厄介ではあるが、普段とは異なる運用を組むのだから止むを得ない。

私は今日の増強便の最終便まで受け持ったが、5連休のお蔭で参拝客が分散したらしく、「彼岸のお中日」にしてはそれ程の混雑には至らなかった。

臨時増強バスは明日まで走らせるとのこと。まあ、取り敢えず自分の担当分は無事故で終えられたので、ホッとしている次第である。

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2009年9月21日 (月)

二昔前の道内のバス

私は大学を卒業した後、更に一年間、学校の研究室に居候していた。良く言えば「学部研究生」、悪く言えば単なる「就職浪人」である。

居残った事情は色々あるのでここでは割愛するが、そんな次第で私が学生を終わろうとした時にした旅行は、純粋に「ソツキ(卒業記念旅行)」とは言い難い。だからただ単に「大旅行」と呼んでいるのだが、時は1987年2月から3月にかけてで、とんでもない経由の一筆書き切符を作ってもらい、そのルートと廃止直前のローカル線にも寄り道をする、総計29日間の旅行だった。時期を見て頂けばお判りの通りだが、「国鉄最後の旅行」でもあった。

切符の終点は稚内にしてあったから、青函連絡船で人生2度目の道内入りを果たした後、あちこちを羊腸のように巡った。
その際に僅か4枚であるが、道内の乗り合いバスの写真を撮っているので、今日はその画像をご紹介しようと思う。プリントからのスキャンなので、画像が悪い点はお許し下され。

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上下共に、室蘭駅の付近で撮った道南バス。今とは駅前風景が異なるので、現在も同じ場所に道南バスの車庫があるかどうか、定かではない。

上は、当時の道南バスとしてはかなり気合の入った車両だったと思う。UDではないかなと思うのだが、札幌とを結ぶ都市間バス。この当時、後軸二輪(後に私が入った運送会社では、こういう軸配置を「ひこずり」と呼んでいた。前輪が後輪を「ひきずる」ように見えるので、こう呼んだそうだ)のバスはまだ珍しく、それで記録的に写したものだと思う。

一方下は、路線バス群。懐かしいタイプの富士重車体の左2台は、何れもUDである。その内、右側の新しいタイプの車体の車は塗装が異なるけれど、この頃から道南バスはこのタイプの塗装に変えつつあったらしい。
その右がふそうで、確かこれは中型だったような記憶がある(記憶違いならゴメンナサイです)。回送と表示しないで、「非営業」とあるのが名古屋にはない表示方法で、面白かった。
更に右は、日野。詳しくは判らないが、多分この時期ならもうRCだと思う。

この当時は今よりもっと、バスのことに詳しくなかったので、道南バスの塗装を見て「中央バスの系列なのかな」と思っていた。若干ではあるが、中央の赤白塗装に似ていたからである。実際には、道南バスは特にどこのグループでもないとの事実を、後年になって知った。

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これは、根室標津駅前で撮影した、言わずと知れた阿寒バス。vanagon714さんのブログを見るまで、この塗装が丹頂鶴を表しているとは知らなかったとの写真は、これのことである。私は単に、ウインカー部分が赤く塗ってあるので、面白い塗装をする会社だなあと思っただけだったのだが。多分これも、RCだと思う。

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これは、REではないかと思うのだが、宗谷バス。天北線の浜頓別駅で普通列車の停車時間があったので、ふらりと外に出て撮影したもの。天北線より二足くらい先に廃止になった興浜北線の代替バスだ。初め、塗装だけを見て何も知らない私は、名古屋のM鉄系の会社かと思ったくらい似た配色であった。実際には、宗谷バスって東急のグループに属しているそうであるが。

昔の写真なので稚拙な撮り方のものが多いけれど、ちょっとした記録にはなっていると思う。

それにしても、これらの写真が22年前のものとは、我乍ら時の経つのの速さに「ガーン」と思ったりもしている(最後に滝汗)。

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2009年9月18日 (金)

魚澄庵、その後の話3題

今までに、魚澄庵の暮らしに関わることを何題か書いてきた。今日は、それらの話題の内3つの事柄について、「その後」をお伝えしようと思う。
尚、今回初めて、元となる話題のページへ飛べるようにリンクを貼ってみた。話題が思い出せない方も多いと思われるので、色が異なった記事タイトルの部分をクリックしてみて下され。

まずは、6月12日に書いた「やっと名前判明」、ツキミソウの話題について。

花が咲き始めたのは元記事を書いている6月頃からだが、花は一日1輪とか2輪程度でも兎に角途切れずに毎日咲いている。そして、先日は遂に13輪もの花が咲いた。

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写真には11輪しか写っていないが、私が写真を撮っている玄関前の三和土の後部に、もう2輪咲いている。

元記事にも書いたように、繁殖力がかなり旺盛なのは事実なようで、隣の実家からこちらへ伝播しても盛んに勢力を広げているようだ。母によると実家では、増えすぎているので一部は抜き取ってさえいるとのこと。

これからがいよいよお月見のシーズンなので、ツキミソウとしても今を盛りと咲いているようである。魚澄庵では今のところ抜き取っていないけれど、あまり玄関前で繁茂するようならば、私も少し考えることになるだろう。白い可憐な花なので、ちょっと抜き取るには勇気が要りそうだが。


続いて、7月31日に書いた「ネプチューンへの思いあれこれ」について。

ネプチューン社製のバス用案内放送テープデッキを、職場の工場の方のご厚意で鳴らせるようにして頂いた訳だが、100V→24Vのデコデコを失くしてしまって、無用の長物となっていた。

そのデコデコが3日前に出てきた。何のことはない、私が今こうして記事を書いている机の片隅に、ビニール袋に入れた新品の状態のまま転がっていた。机の上は全く整理が為されていないので、折角大切な物を机の上にポンと置いただけでも、魚澄庵では行方不明になってしまうのだ。私は我が机の上を「名古屋の富士山樹海」と呼ぼうかとさえ思っている。

さておき早速、結線してテープデッキを稼動させてみた。

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ちゃんと、電源の赤ランプも点灯している。テープは、嘗て私の営業所で使っていて業務用粗大ゴミに出される寸前のものを何本か、上司のお許しの下、頂いているので、それらを聞いてみた。

バスの案内放送のテープだから、興味のない人に聞かせても仕方ない代物ではある。だがこれらのテープを、毎日仕事のBGMのように聞いていた身としては、結構懐かしいものがあった。

例えば「スポット広告放送」といって、その停留所に近いお店などの名を広告として入れさせてもらうことがある。このスポット放送も、お店などのスポンサーが広告を拒否されればテープからは消えていく。逆に、別の広告放送が新たに入ることだってある。時期によってスポット放送の内容はどんどん変わっていく。
また、始発停を出た時の案内放送用語も、年代によって異なっている。

更に懐かしかったのは、「バスロケ情報」といって、バスの接近情報をバス停に知らせるための車載機のコード番号も、この案内テープで自動設定していた。『バスロケ情報、○○××を設定します。ピロピロピロピロピロ(電子的な音)』といった用語と音声で、テープ巻頭の業務放送の部分に入っていた。
現在では方向幕と連動した合成音声によるデジタル放送なので、バスロケ情報は「ピロピロピロ……」の音がなくとも、始発で方向幕を変える時の操作だけで自動的に設定されるようになっている。テープ放送車が全て廃車となり、もう6~7年が経過するだろうか。あの「ピロピロピロ……」の音は、本当に久し振りに聞いた。


最後に、8月9日の記事、「ヤモリ復活」について。

一昨日の晩の写真であるが、

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当庵の玄関の外に、ピッタリ引っ付いているヤモリを見かけた。体も大分大きくなっていて、元記事にした時には小さな子供のヤモリだったが、ほぼ大人と同じ大きさに成長しているようだ。頼もしい限りである。

奴が我が家に棲んでいることが判ってから、除草剤などは撒かないようにしている。草が生えれば手で抜く(実際にはズボラなので、滅多に草抜きなんてしないが)。私なりに、奴に対しては気を遣っているつもりである。

まあ、そんな甲斐あってか、ちょっとゴタついた時期もあったが、一応魚澄庵は平静である。以前書いたようにちゃんと奴なりに「家守り(やまもり)」の役割は、果たしているようである。

昨日、用事があって隣の実家へ行ったのだが、爬虫類嫌いの母は植木鉢などを移動しようとして、コイツが下にいると飛び上がってしまうそうである。どうも隣にも出張に行っているのか、或いは奴の兄弟でも棲んでいるらしい。まあまあと母をたしなめて来たけれど、コイツなりに一生懸命生きているのだから、母の心臓を止めない程度で共生していければと思っている。

少々長くなったが、「その後の話題」でありました。

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2009年9月17日 (木)

緊急特番(?)・魚澄庵でもモロコシが食べられた

本日は予定を変更して、魚澄庵でも「茹でトウモロコシ」が食べられた話を書こうと思う。

話題としては、N市のTさん並びにvanagon714さんに大遅延コラボさせて頂いております。

大分前に、魚澄庵では碌すっぽ「調理」に縁がないことを書いた。いつも食事は外食で済ませている。だから、魚澄庵にはインスタントラーメン用の鍋とどんぶりくらいしか、調理用品は置いていない。あと、何に使うのか判らないが、一応包丁も置いてある。考えようによっては単なる物騒な庵と言っても過言ではなかろう。

然し、先日のvanagon714さんのブログで、トウモロコシの誠に簡単な調理方法を教えて頂いた。茹でる代わりに、電子レンジで4分チンすればよいと云う内容である。元来トウモロコシが好きな私には願ってもない調理方法である。で、仕事が早く終わった今日、試しにやってみようと思ったのだ。

だいたいが、一人暮らしとして独立してから、生野菜を買ったことすらない。近所のスーパーではそれ程上等なモロコシも売っていないが、どちら道、私のことだから酒の肴にしてしまうだけであろう。そう大層な物を買う必要もない。で、スーパーの入口付近にあった「北海道産・1本99円」と書かれたモロコシを2本買ってきた。当然ながら、品種は何かもさっぱり判らない。

今までトウモロコシの皮さえ剥いたことのない私であるが、

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兎も角、テキトーに皮を剥いていく。あのモジャモジャしたヒゲが上手く取れるか心配だったが、何の苦労もなく簡単に剥奪できた。

次にvanagonさんのブログでは「塩水に漬ける」とある。だが、塩水の辛さ加減はまるで判らない。どの程度の塩水にすればよいか、そんなことから判らない。まあ茹でるのと同じことと考え、ちょっとしょっぱい程度のもので、1本試してみることにした。
更に、何も調理用品がないことは先程書いた通りなので、塩水に浸す器はラーメンを食べるどんぶりで代用することとする。

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「ぞんざい」、と云う言葉そのままの魚澄庵である。

さて、再びvanagonさんのブログによると、もうこれで二重にラッピングしてレンジで4分暖めるだけとある。仰せの通りにする。

『チーン。』

はい、出来ました。本当に誠に簡単であります。恐々一粒摘まんでみると、うん、美味い! 十分食べられる。

で、夕餉には早いが早速酒の肴に……

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収穫の秋なので、Kビールの「秋味」なんかを用意しちゃってある。おさかなの癖に、生意気にビールも頂くのである。

かくして、あっと言う間にモロコシ1本と缶ビール1本を消費した。問題点は何もないので、2本目も同様チンして、「秋味」と共に頂く。

ノリとしては、小学校の家庭科の、調理実習と同じ感じであろう。何しろやったことのないことが多過ぎる私であるが、こと料理に関しては更にそれが顕著である。で、初めの内だけだろうが、自分で作ったものは、何でも美味く感じるものである。ビールはどんどんお進みになり、結局3本を消費してしまった。近頃ちょっとお酒に弱くなった私は、3本だとかなり「ヘベレケ」に近くなる。

モロコシも全てを消費し、大変な満足感に包まれた私であった。普通、魚はトウモロコシでは釣れない筈であるが、このおさかなは下等な魚なので、茹でモロコシでも喰い付いてしまうのだ。

簡単なモロコシ調理法をご教授下さったvanagon714さんと、そもそものモロコシの話題を提供して下さったN市のTさんには、心よりお礼申し上げる次第であります。

ごちそうさ~まで~し~た~(←酔ってます)。

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2009年9月16日 (水)

初秋の中央西線撮影結果ご報告

先日の中央西線(一部篠ノ井線も含む)撮影旅行のフィルムが上がってきた。

今回は紀行文の方でもお伝えしたとおりの玉砕もあったし、自らのミスも重なって、消費したのは36枚撮りのフィルム1本と云う寂しさである。絵心が浮かぶと、車両以外の写真も結構撮れることがあるのだが、どうも今回は初めのミスで、自らの出鼻をくじいてそのまま最後まで行ってしまったような気がする。

言い訳は程々にして、少ないけれど一部をご披露しよう。

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野尻駅から名古屋寄りへ行った直ぐの踏切付近から撮ったもの。ガイド本に載っていた場所で、アングルは少し自分好みに変えてある。線路の敷内をどこまでと理解するのか知らないが、たまたま付近で草刈作業していた作業員に何も注意は受けなかったから、この範囲での撮影は許されるということらしい。

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野尻駅付近で、貯木場の木材を入れて写真を撮ろうとしたのだが、結局出来上がった映像はとても見れたものではなかった。で、駅舎直ぐ横の、嘗ての貨物ホームの跡付近から苦し紛れにこんなアングルで撮ってみた。貯木場は木材運搬のトラックの出入りが結構あるので、立ち入りの許可が出るかどうかは微妙なところだ。南木曽駅横にも貯木場はあったから、別の機会にそこで撮影地を探してみようと思っている。

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中央西線で忘れてはならない景勝地・寝覚ノ床での写真。区間としては倉本~上松になる。私にしては珍しく縦アングルだが、こうしなければ肝心な岩と列車がフレームに収まらない。また、これより少しでも目線を上げてしまうと、国道に沿ったそば屋などの建物が入ってしまうので、ギリギリ一杯のアングルなのである。

Img364

2日目に、木曽平沢付近で「森の中に迷い込んだ挙句、線路端に出た」と書いた、朽ちかけの神社境内からの撮影。一応ケモノ道のように道筋はついていたから、多少は地元の方がお参りすることもある神社なのかも知れない。森の中の雰囲気だけは味わって頂けるかと。但し列車を待つ内に、3箇所も薮蚊に刺されて、未だに痒くて堪らない。奈良井~木曽平沢にて。

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いつも成功写真ばかりを掲載していてワンパターンなので、敢えて玉砕モノを。原野駅付近で、1日1本のJR東日本の115系を撮り損ねた、と書いた奴である。このように、ダンプ様の額が入ってしまっていて、見事に撮影地の花と散ったのであった。ただ、ダンプさえなければ撮影地ガイドに載っていた場所でもあるし、そうそう画面の雰囲気は悪くないと思う。原野~宮ノ越にて。

Img3661000

編成写真的になってしまったが、EF64-1000番代重連が牽引する3084列車。因みにタンクは空回送で、四日市コンビナートの駅・塩浜へ向けて中央線を下りて行く。牽引機に関して自分の好みを言うと、0番代の更新色よりは、こっちの方がまだ性に合う。一応は国鉄カラーなのだから。平田駅ホームの松本寄り端より。

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これも紀行文で書いた。南松本でたまたま構えていたら来てくれた、185系電車による特急「はまかいじ」。中央線系では189系か255系の特急が一般的で、「踊り子」などで使われる185系の入線は、臨時列車でしか見られない珍しいもの。北海道で例えれば、石北線に261系が入ったようなものと云うことになろうか。南松本駅の塩尻寄りホーム端から。

何分にも撮影した絶対枚数が少ないので、ご披露できる写真も限られてしまう。
ただ、今回である程度ロケハン的なことも出来たので、次回以降、もう少しマシな写真がアップできるようにしたいものである。

と言い訳みたいなことをまた書いて、今回は〆とさせて頂こう。

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2009年9月12日 (土)

初秋の中央西線(中津川以北)撮影紀行(2・3日目)

2日目(9月11日)

別にそれに合わせて起きた訳ではないが、朝8時半にホテルから村井駅経由塩尻駅行きの送迎バスが出る。この日の第一撮影目的地は塩尻駅に近い所で、ちょうど目の前に送迎バスが停まっていたから、それに乗り込む。
お蔭でJR代190円が、節約できた。

駅から少し歩いた所で撮影を済ませ、のんびり歩いて駅まで戻る。塩尻付近はぶどうの生産やワインで名高い所だが、駅前通りにも

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こんな街路樹ならぬ“街路果実”がたわわに実っていた。この辺りは涼しい気候だし、秋をしみじみ実感する。

さて、ここから一旦中央西線を外れて、長野寄りの篠ノ井線に入って南松本へ逆行しようと思う。タキ貨の臨時列車6883レが、他のサイトなどで調べたところ「水・金運行にほぼ間違いない」と書かれていたからだ。今日は金曜日である。

10時54分塩尻発の電車で南松本へ至り、駅へ入ってくる貨物を待ち受けようと望遠レンズをつけて待機する。6883レの南松本到着は11時48分となっている。

11時40分、45分と段々緊張が高まってくる。果たして今日、本当に列車は運行されるのか。

……そして、これが11時48分の映像。

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見事に、玉砕~っ。

気を取り直して、30分ほど後の中津川行に乗り、木曽平沢駅を目指す。ここは「お立ち台通信」で知ったのだが、いい鉄橋が駅付近にあるとのこと。今度は別に当たり外れがある訳ではなく、鉄橋も程よく順光になっていた。
おまけ画像。撮影場所の横にあった古めかしい看板。

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電話番号の末尾が4桁ではない。電電公社による電話ではなく、町内電話の番号らしい。多分、昭和30年代初頭のものだろう。

ここから、更に少し歩いた辺りにも「いい撮影場所がありまっせ」とお立ち台通信に書いてある。その通りに歩いていくと、線路に突き当たってしまった。ただ、森の中で雰囲気はいい所なので、JR東海さんには申し訳ないが線路を渡らせてもらい、線路脇にある小さな神社(の跡?  一応朽ちかけた鳥居は立っていた)から撮影をする。

地図を見てみると、ここまで来れば次の奈良井駅までいくらも距離はないらしい。同じ駅へ戻るのもつまらないから、奈良井の方面へ向けて歩き出す。
やがて、周囲が開け始め、旧中仙道・奈良井宿の町並みと駅が見えてきた。

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この辺りは漆器の産地としても有名で、そこここに「木曽漆器」の看板や屋号が見える。

15時36分の電車で更に南の原野へ向かう。ここも「お立ち台通信」にガイドされていた場所がある。

現地に立つと、本に載っている場所の後方に、一段高くなった草地がある。草地からだと線路を見下ろす加減がよく、ここで撮ろうと決める。ただ、目の前に踏切があり、背の高いダンプなどが止まってしまうと、画面の下にダンプの屋根が写り込んでしまう。

時間的に、16時45分頃の834Mがうまく撮れそうだ。中津川以北の普通列車は原則JR東海の313系で運転されるが、このスジは、一日1本だけJR東日本の115系電車で運転される。
時間になり、予定通り踏切が鳴り出したので、ファインダーに集中する。その時、向こうから「ゴ、ゴォ~」と荒っぽいエンジンの音が聞こえだした。えっ、と見るとダンプがこちらへ向かって猛烈な勢いで走ってくる。わっ、わっ、早く電車、来てくれぇ……。

本日2回目の玉砕~。

そりゃ、ダンプはお仕事、私はお遊びだから、何も非難する道理はない。でも、何故一番肝心な列車の時だけ、ダンプさんが……。

草地からの撮影は諦め、何が来ても大丈夫な線路脇のお花畑で三脚を構えることにする。

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たまたま横の畑で作業しているおばさんがいたので、来意を告げ、三脚の脚だけお花畑に入れさせてもらう。写真ではダリアとキクイモが見えるが、ケイトウも綺麗に咲いている。

定期貨物を忘れていて、変なアングルで撮ってしまったのは悔やまれるが、ともあれ3本の列車を撮り、踏切が鳴る度に「私は入らないですか?」と親切に聞いてくれるおばさんに礼を言って、辞する。「また、撮りに来てくださいね」とまで言ってくれた。玉砕もあったが、地元の方の厚意で心温まる思いになる。

既に陽は山の陰に入り、もう帰るだけである。駅へ向かって戻る途中で、民家の車庫に可愛いネコがいる。つい立ち止まって声を掛けてしまう。すると、甘えたいのか、そこに寝転んで「撫でてくれ」みたいな格好をする。

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勝手に民家の車庫に入る訳には行かないから苦笑していると、当の家から飼い主のおじさんが顔を出した。顔は笑っている。私も訳を話して、怪しい者でないことはすぐ判ってもらえたようだ。この写真もおじさんに断って撮らせてもらった。

原野駅へ戻ると、ここにもニャーがいる。初めは鳴き声だけだったが、すぐに反対ホームに姿を現し、線路へ下りてこちらのホームへひょいと飛び乗った。

相当、人馴れしているネコらしく、直ぐに私の周りを纏わりつき始める。撫でてやるだけでは満足いかないらしく、待合室へ行こうとすると後をついて来る。結局、待合室に座った私の膝の上で

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勝手に寛がれてしまった。イヌより若干ネコ派の私も、悪い気はしないけれど、それにしても図々しい奴と云うか……。
10分近くこのスタイルのまま、私の膝はネコの休息所として使われることと相成った。

3日目(9月12日)

出かける前の天気予報では、今日が一番天気がいい様に言っていた。ところが、前日に見た天気予報では傘マークしか載っていない。

朝から洗馬駅へ行って2キロ近くを歩く予定だったが、目覚ましで起きてみると、悪い方の天気予報はちゃんと当たる。雨の中を歩くのが億劫になり、計画を変更。昨日玉砕した南松本駅へ行って、貨物列車の作業などを駅撮りしようと考えた。

宿を10時少し前にやっと出て、まず平田で一旦降りる。ここは対面ホームになっていて、ホーム端から反対列車が撮れる。そして、うまいことに南松本始発・10時37分の定期貨物が貨物時刻表に載っている。

時間になって遠くからEF64のヘッドライトが見えてきた。近付いてきた列車を見ると、国鉄原色ではないか。ラッキー、と思いながらファインダーを覗く。が、少し変な型に見える。
更に近付いて判ったのだが、最近になって岡山から移動してきた、1000番代車の重連であった。

次の下り列車で南松本駅へ行ってみるが、今日は土曜日。荷の動きも少ないと見えて、昨日とは駅の貨車の様子も全然違う。

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入替作業も何も行われていない。これでは写真にならぬ。

20分くらい待ったが、何も動きがないので貨物は諦め、駅端から複雑な構内配線をすり抜けて走ってくる特急列車の撮影に切り替える。普段、中央線系では見られない185系が「はまかいじ」としてやって来てくれたのは僥倖だった。

元々、フィルムもそんなに残っていなかったから、直ぐに撮り終えてしまう。一旦松本へ出て、松本から特急「しなの」で戻る予定にしてあるが、2時間以上空いてしまう。昼食時間を差し引いても大幅なお釣が来るので、松本へ着いてまず最初に「みどりの窓口」へ行く。幸い、1本早い「しなの」の希望した側の席が空いていた。

昼食を済ませ、ちょっと待ってからホームに入る。

今まで長いこと「身近なはず」の中央西線を、「はず」のまま終わらせてきたが、ちょっと今回で様子が判ったように思う。私はEF64の重連貨物だけが狙いではないので何でも撮るけれど、貨物に限定しなければ比較的あちこちに撮影に向きそうなポイントが点在しているようだ。

今回の経験を次回以降につなげられるような、そんなロケハン的な撮影旅行であった。

それから、電車の中での居眠りは極力避けましょう。

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2009年9月10日 (木)

初秋の中央西線(中津川以北)撮影紀行(1日目)

1日目(9月10日)

身近なはずの中央西線だが、撮りに出たのは桜の時期に一度あるだけ。3連休を作れたから、少しブラブラしてみようと思う。

朝一番のバスに乗り、地下鉄に乗り継ぎ、JR千種駅発6時57分の中津川行き快速に悠々間に合う。ただ、これに乗れないと中津川から先の普通列車は極めて本数が少ないから、大切な列車である。

神領の電車区、多治見駅を見たまでは覚えている。眠いのでここから先は目をつむった。どうせ終点まで行くのだから、中津川に着けば否応なしに目が覚める。

覚める、筈だった。

「この電車は、8時17分発、快速列車の名古屋行きです」との女性車掌の声で目が覚めてみると、電車には誰も乗っていない。あれ?と思いながら腕時計を見ると8時12分。あれれ、とうに終点に着いちゃって、えーと塩尻方面の乗り継ぎ列車は何時発だったっけ?

駅のLEDを見ると

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直ぐ接続するはずの南木曽行きの時刻が書いてない。慌てて持参の時刻表を見ると、私の乗ってきた電車は8時05分に中津川に着いており、その4分後には南木曽行きが出てしまっているのだ。終点に着いてもなお、7分間、爆睡していたらしい。

がちょーん。

思い返すと、寝過ごして接続列車に遅れたことは今までなかった。この頃旅行では失敗が続いている。歳だろうか、それとも疲れがたまっているのだろうか。

第一の撮影目的地は直ぐ次の落合川駅付近だから、タクシーでも駆ろうかとも思ったが、最近何かと出費が続いている。金を捨てるようなものだと思えてきて、次の10時10分発まで待つことにした。その代わり、落合川駅付近の撮影は諦めることに。

癪であり、暇でもあるので、駅前に発着する北恵那バスの写真でも撮ってみる。

Dscn4986

元々は鉄道会社で「北恵那交通」と名乗っていたはずだが、いつの間にか社名もバスの塗装も変わってしまっている。

さて、ダラダラ待って10時10分の松本行きの時刻になった。落合川をとばすとなると、次はどこで降りようか。南木曽かその次の駅だったかに、駅前に貯木場のあった所がある覚えだ。そこで降りよう。

野尻駅に進入する手前で、見覚えのある貯木場を見つけ、急いで荷を抱えて電車を降りる。貯木場には木曽ヒノキが一杯に積まれているから、これと電車を絡めて撮ろう。

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然し意に反して、貯木場は道路から殆ど見えない場所に位置していた。一枚だけ特急「しなの」と共に撮ってみたが、とても絵にならない。
結局、残りの時間は「お立ち台通信」に掲載してある場所で撮影しただけ。ちょっと味気ない。

気を取り直し、12時半過ぎの電車で上松(あげまつ)へ向かう。ここは名勝・寝覚ノ床に程近く、前回撮りに来た時は雨で泣く泣く引き上げたから、今度は間違いない撮影場所が待っている。幸い今日は好天だ。

こんな場所。

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カメラには、かの「サンニッパ」を取り付けている。それでも余分なものが写り込んでしまうくらいの場所で、それだけがちょっと難点かな。
ここで、15時40分頃の下り普通電車まで粘る。まあ、のんびりしに来たのだから、あれこれ撮り急いでも仕様がない。

次の下りは、この上松が始発で、16時25分に出る。これで予約してある宿の最寄り駅・村井まで行くと、結構いい時間になる。中途半端な一日になってしまったが、宿でゆっくりしよう。

村井は、塩尻市内の駅だが、特に大きな駅でもない。宿も純粋なビジネスホテルではなく「健康ランド」を兼ねている。これもまた、何か中途半端である。おまけにチェックインして判ったのだが、部屋にバスはなく、1階の健康ランドの大浴場を使うシステムになっている。

何から何まで中途半端なまま、今日は過ぎてしまった気がする。

どうも落ち着かぬ。

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2009年9月 9日 (水)

ふそうの視野拡大窓

もう、3ヶ月くらい前になるかと思うが、いつもこのブログにコメントを下さるvanagon714さんのブログコメントで、三菱ふそう車の「視野拡大窓」に関して少しく論議されたことがあった。
当時は私たちの営業所のバスは、まだ小型の新しい料金箱に置き換えられていなかったのだが、7月に新料金箱となり、先日たまたまノンステップではあるがふそうのバスに乗務する機会があったので、運転席からの写真を撮っておいた。

因みに、このブログを読んでいる方で「ふそうの視野拡大窓」が通じない方も少ないと思われるが、もしいち判らない方のためにその部分の写真を添付しておく。

Dscn4965

下手糞な印のつけ方で申し訳ないが、白丸で囲った部分の窓のことだ。

で、先程も書いたように、vanagon714さんのブログにコメントした当時は、料金箱がもっと大型のものだったので、「料金箱の影になって視野拡大窓は全く存在意義がない」旨を書かせて頂いた。
それが多少小型の料金箱に置き換わってからの、運転席からの見え具合である。

Dscn4961

出来る限り、自分が運転する時と同じ目線で撮影してある。

が、どうだろう。料金箱が小さくなっても表示用の液晶パネルと握り棒に邪魔されて、折角の視野拡大窓は殆ど意味を為していないと言えるのではなかろうか。
少なくとも、無理して拡大窓を活用するほどの見え具合ではないと思う。

じゃあ、と云うことで、当たり前の画像ではあるけれどもアンダーミラーから見える左前方の写真も付け加えておこう。

Dscn4962

変に視線を移して、無理に視野拡大窓を活用するよりも、こちらの方が余程見やすいように私は思うのだが。

左前方は、大型車からすると「第2の死角」と言っていいだろう。

その死角を少しでもなくそうとした三菱ふそうの努力は理解できる。ふそうだけでなく、西日本車体でも、同様の位置に四角い視野拡大窓を設けているタイプの車がある(確か、部内的に「Bタイプ」との呼び方をしていると、何かで読んだ気がする)。
だが、実際の見え具合からして、視野拡大窓は単にボディデザインの一環と思った方がよいような現状だと思う。

私の主観だけで書いているので、読んで下さった皆様がどう感じられるか、忌憚ないご意見を頂けると私自身の参考にもなる。

是非ご意見をお待ち申し上げる次第である。

***

明日から、2泊3日の予定で、身近ではあるが中央西線の撮影に出ようと思う。

また、旅先から多少の記事を書く時間があると思うので、ご覧頂ければ幸甚である。

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2009年9月 6日 (日)

青快速・赤快速

国鉄時代のものであるが、先日ちょっと懐かしい種別板を入手したので、ブログネタにしようと思う。

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左側の青地に白抜き文字の「快速」表示は、比較的全国あちこちに見られたもので、名古屋地区の他、東海道線の浜松以東や九州地区等でもほぼ同じ表示を用いていた。

今回入手したのは右側の赤地(正確には「朱色」か)に白抜き文字の「快速」種別板である。

入手先は、私がいつもお世話になっている某Kマツトレインである。因みに板の所属は、何れも「○垣」、即ち大垣電車区である。

昭和48年7月に、日本初の振り子式特急電車「しなの」が中央(西)線で走り始めた時に、中央線では2種類の停車パターンの快速列車を設定した。停車駅で言うと次の2パターンである。

① 名古屋-千種・大曽根・勝川・高蔵寺-多治見以降各駅

② 名古屋-金山・鶴舞・千種・大曽根-多治見以降各駅

パターン①は、現在中央本線を走っている快速とかなり似通った停車駅となっている。これは、昼間時に運転されていた。

一方、パターン②は、現在全く見られない。名古屋を出発して市内の各駅(新守山を除く)に停車したら、あとはノンストップで多治見まで行ってしまうもので、朝の上り、夕刻の下りにのみ設定されていた。

そして、パターン①の方には写真左側の青い「快速」表示を、パターン②には右側の赤い「快速」表示を用いて、誤乗を防いでいた。それを私は勝手に「青快速」、「赤快速」と呼んでいる。簡略してサボだけに表示したものもあり、

Dscn4983

かような表示方法で走っていた。

然し、客からは不評だったのか、パターン②の方は昭和53年10月の全国白紙改正で廃止され、停車駅に春日井を加えてパターン①の方に統一されたのであった。

僅か5年程度でお役御免となってしまった「赤快速」表示は、その後陽の目を見ることもなく、種別板もどこで眠っていたのか判らない。一方の「青快速」は、中央線の他、東海道線の快速でも、117系が登場する昭和57年3月まで使われ続けた。

私が親に許しを貰って、名古屋駅に電車を見に行けるようになったのが、昭和49年頃である。まだ当時は貰える小遣いも少なくて、そうそう何度も出掛けていないが、年に1~2回は名古屋駅へ行って、電車を眺めていた。

そんな頃に、夕方になると昼間とは違う赤色の「快速」種別板を入れた電車を見ていたので、私にとっては大変懐かしい表示板なのだ。尤も当初はどんな差があるのか全く判らなくて、停車駅が異なると知ったのは、小学6年生になってからだと記憶している。

古いものだし、使用の汚れもある。で、売主の方もどんな価値があるのか判らないらしく、格安の値段で手に入れられた。だが、私がこう云った物を集め始めて20年近くで、初めてお目にかかれた品物である。

魚澄庵の装飾品として、末永く大切に保存したいと思っている。

***

追記・ここ最近続いていた“家庭内の事情”は、かなり改善されたので、今後はほぼ従前と同じペースで記事の更新が出来ると思う。記事の更新が滞ったら、サボっているか飲んだくれているとでも思ってくだされ(礼)。

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2009年9月 5日 (土)

納得のいかない話

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不平不満の多い私の「呟き」を、またぞろ書くことにする。

上のポスターは、職場に貼ってあるもの。自転車の安全利用啓発のポスターだ。

敢えて「その一」の部分だけをアップにしてあるから、私の言いたいこともお判りの方が多いと思うのだが。

自転車は、道路交通法で云うところの「車」であるから、車道を通るのが原則。普通車の免許を取る際にも、自転車の区分は「車」と習っているから、そうと言えばそうかも知れない。

だが私は長いこと、自転車は歩道を走るのが原則と思っていた。理由は簡単で、小学校時代に「自転車の安全教室」みたいな時間があり、そこではっきりと『自転車は歩道を走りましょう』と教えられたからである。本物の警察官を呼び、校庭に白線で模擬道路を書き、クラスの代表が自転車を持ってきて模擬道路を走ったことまではっきり記憶している。

その場で、警察官が「自転車は歩道」と間違いなく言った。私はクラス代表で学校へ自転車を持って行って、模擬道路を走らさせられたから、余計しっかり覚えているのだ。

なのに、今になって盛んに「自転車は車道が原則です」と啓発されるのが不快でならない。生意気な言い方かも知れぬが、大型車の運転席から見た自転車の、か弱そうに見えることといったら。フラフラ走っていて見るからに危なそうなのを、巻き込むことを恐れながら、いつも追い抜いたりしている。

一体、いつから「自転車は車道を走りましょう」に変わってしまったのだろう? 

更に、この啓発が最近かなり浸透したようで、自転車族も大きな顔をして車道を走っている。規則で許されているなら車道を走るのは止むを得ないにしても、特に高校生や大学生とおぼしきのマナーの悪さは、ここで書かなくとも多くの方がご存知だと思う。車道を走る乗り物なら、逆行・並走などを取り締まってもいいようなものなのだが、私は過去に何度も、それらの行為を見て見ぬ振りするパトカーの姿を見ている。

そして一旦事故が起きると、どんな場合であろうと絶対に、過失責任は私たち大型車の方が圧倒的に重いと言われる。

小学校の時に習ったあれは、何だったのか。

規則違反を目の当たりにしても捕えない警官たちは、何のためにパトカーに乗っているのか。

私はどうしても納得がいかない。

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