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2009年6月 8日 (月)

東北本線一ノ関近辺撮影旅行(4日目)

今日は、昨日書いたように、六原駅で行われる貨物列車・8563列車の一連の解結作業を撮影してから、帰ろうと思う。

朝7時45分発の盛岡行で六原まで。到着時刻は8時18分。委託の駅員氏に少し入線番線などの予備知識を伺っておく。8563列車自体は9時17分の到着だが、「もうすぐそこの製紙工場からここの側線に貨車が入って来ますよ」と気安く教えてくださる。

8時40分頃、作業員の方が姿を現し、転轍機を扱った後、工場の引込み線の機関士と無線で連絡。直ぐに小型の機関車に推進されたコンテナ貨が側線へ入った。

一昨日掲載した写真では、「貨車の入替作業のため9:40~10:10頃踏切が通行できなくなる」とあったが、実際にはもうこの時点で

Dscn4752

かように細い踏切は通行止め状態になってしまっている。

そして、定刻9時17分、EH500に牽引された貨物列車が姿を現した。

Dscn4753 

ここから先の詳しい入替作業などについては、フィルムが上がってから後日別掲としたい。何しろ、転線と解結の作業が1時間弱行われたとだけしておこう。

おまけ、その1。

発車を待つ貨物列車の車輪下へ

Dscn4758

こう云う危ないことをする奴がいるんですなあ。そう云えば、初日にこの駅へ来た時にも、このネコはホームのあちこちを闊歩していた。どうやら駅を住処としているらしい。或いはあの親切な駅員氏が、餌くらい与えているやも知れぬ。

おまけ、その2。

発車前の貨車に付けられていた貨物票。

Dscn4761

ここから一旦盛岡貨物タへ運ばれた後、最終的には何のことはない、我が地元の名古屋へ運ばれるらしい。

さて、肝心な8563列車は定刻の10時26分、長笛一声の後

Dscn4764

無事に発車して行かれました。

これで、撮影は終わり。フィルムもちょうど使い切った。あとは、11時06分の上り列車から乗り継ぎを重ねて仙台まで行き、仙台からは新幹線乗り継ぎで帰るだけである。

ただ、最後の仙台行で、ちょっとアクシデント。松島から塩釜に向かっている途中、列車が急停車した。6両編成の最後部に乗っていた私には、車掌室からの異常を報せるアラーム音が鳴り響くのが聞こえるだけ。車掌は車内巡回で最後部にはいなかったのだ。

暫くして車掌からアナウンス。「只今、異常音を感知しましたので、急停車しました。安全の確認を行います。確認が取れるまで停車いたします」とのこと。仙台では40分も乗り継ぎ時間があるから、のんびり構えていたが、10分経っても車掌は同じアナウンスを繰り返すだけ。窓外を見ていると、運転士らしき男性が線路に下りて車両の周りを見回っている。

結局は「車両にも線路にも異常が認められませんでしたので、発車いたします」と発車してくれたけど、19分と云う長時間の停車になった。列車の急停車は初めてではないが、これだけ長い間、駅間で止まったのは久し振りだったなあ。

ま、それだけのことで、あとは大したこともなく名古屋へ帰ってきた。

今回は、貨物関係の写真で多くシャッターを切ったから、久方振りに4本のフィルムを消費した。『下手な鉄砲も、数打ちゃ』になってくれているといいがと、願をかけながら、4日間の撮影紀行を終わりにしようと思う。

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コメント

リベンジ成功おめでとうございます。
貨物の入換がたくさん撮影出来て良かったですね。
今はコンテナで来て解放して上がって来たやつを持って行くという形が多いですね。
昔のように仕分けして組成する作業があると見物していて面白いですね。
操車場では行き先の全部違う貨車を効率良く仕分けていくのが操車掛の腕なんですね。
入機のフル加速の突放は迫力がありますね。

お帰りにアクシデントがありましたね。
何事もなく良かったです。

投稿: N市のT | 2009年6月 9日 (火) 19時27分

>N市のTさんへ
私は残念なことに大きなヤードなどで貨車の入替を見る経験は出来ませんでした。
地方のローカル線で、車扱いしていた貨車の連結・開放を見たぐらいが関の山かなと思います。稲沢が近くにありながら、勿体無いことをしたと思います。

今は「突放禁止」の貨車が殆どですから、昔のハンプから送られていたあの情景は見られませんね。
知っている人が貨車への「飛び乗り」をやっていたそうですが、逸走とか、乗り損ねて危うく自分の命までとか、迫力のある話を聞かされました。
本来の貨車の職場とは、こう云うものだったんだなと、平成になってから思っています。

投稿: N市のTさんへ | 2009年6月10日 (水) 00時31分

車扱い貨物のあった頃は昼夜を問わず操車場では入換作業をしていましたね。
大きな操車場では複数のグループが同時に入換をやっていました。
1人の操車掛に連結手は3人(1操3連と呼んでいました)位でやっていました。
「突放」「飛び乗り」「飛び降り」をしないと捌ききれないですからね。
飛び乗り損ねて轢かれたり、ホースを切る際に連結器に指を挟まれてしまったり、線路を横断中別のグループの車両に轢かれたり、痛ましい殉職事故もありました。

T小枚の操車場で1人いなくなったで探したら、蝕車事故で亡くなっていて、同僚皆で泣きながら箸で肉片を拾ったという話を聞きました。

ちょっとした事で命が奪われる過酷な職場であったのです。

投稿: N市のT | 2009年6月10日 (水) 08時51分

>N市のTさんへ
I沢に居られた方を3人ほど知っています。

その内の一人の方は構内機関士をされていたそうで、夜通し行われる作業で、当然汽笛を鳴らしながら突放などをしていたと思いますが、国鉄末期にはその汽笛がうるさいと近所から苦情の電話が駅にかかってきたそうです。クレーマーの元祖的存在かも知れませんね。
勿論、汽笛は絶対に鳴らしていたそうですが(当たり前ですね)。と言うより、そんなクレームは相手にしなかったそうです。これが当たり前の姿だと思うのですが。

貨車の作業に関して、痛ましい事故があったとの話は幼い頃からよく聞かされていましたが、Tさんのように実際に現場に居られた方からの話は、中々ゆっくり聞く機会がありません。貴重なお話を有難うございます。

そうそう、私がトラックに乗っていた頃、同僚にもう歳の行った運転手がいましたが、その方もI沢出身者だと後から聞かされました。右手の中指だったかがなくて、その理由は喋ってくれなかったんですが、私が退職する時に、Tさんのお話そのままで「貨車の連結器に挟まれて失くしたんだ」とポツリと教えてくれました。それを機会に、貨車の仕事は辞めたのだそうです。

殉職者の数も相当だったのでしょうね。
今はカルチャーセンターやショッピングセンターに変貌している貨物ヤード跡には、色々な思いや魂までもが残されているのでしょうね。

投稿: N市のTさんへ | 2009年6月10日 (水) 22時10分

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