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2009年5月

2009年5月31日 (日)

宗谷本線(名寄近辺)撮影結果ご報告

総計9日間に及ぶ旅行のフィルムが昨日上がってきた。「撮影」そのものに力を入れたのは4日間程度のことであるが、自分なりに納得の行くものもある程度撮れたから、簡単なご説明と共にご紹介したいと思う。

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これはご覧になればお判りの通り、宗谷線ではない。往路で乗った「あけぼの」号出発前のワンシーンである。嘗ては私もヘッドマークの前にいる方のように、小さなカメラで車番やヘッドマークを必死で撮ったものだが、最近は段々ひねくれてきて、こうした「俄かカメラマン」を撮ったりして遊んでいる。でも、夜行列車独特の雰囲気は決して悪いものではなく、一般の方がこうした写真を撮ろうと機関車に群がる気持ちは十分に判る。上野駅にて。

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宗谷線では名寄と音威子府に乗務員の宿泊施設があるらしい。その関係で朝一番の下り列車には何人かの「便乗乗務員」が乗るようだ。咄嗟に撮った一枚なので目の前に白い棒(停止位置表示板)が写ってしまってみっともないが、ご堪忍下され。名寄駅にて。

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「撮影紀行」で、『撮影ガイド通りの小道などなく、野原の向こうの熊笹の茂みを通り過ぎたところから撮った』と書いた場所からの一枚。確かに、撮影場所さえ判れば見える景色は一級品だが、熊笹の茂みを通り抜けたお陰で、紺色のズボンが埃で真っ白になったことも付記しておこう。また、遥か向こうで跨線橋の工事をしているのがお判りだろうか。将来的には跨線橋とそれにつながる道路のために、アングルを変えなければいけなくなると思う。智北から15分ほど南美深方面へ歩いた辺りより。

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私は写真展などをした時でも、自分の写真にはタイトルを付けた事はない。タイトルが付けられるほど、写そうとしている物がはっきりと決まっている訳でもないからだ。謂わば、私の写真は漠然としたものが多いのだとも思う。この写真に敢えてタイトルを付けるなら「タンポポにとっても近い駅」かな。平凡だけど。智北駅にて。

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比較的最近、鉄道写真家の荒川好夫さんが写真集を出され、その中で「ここの駅は一日いても飽きなかった」と綴っておられた。それで私も出掛けてみた次第である。駅としては上の写真の智北のように板張りのホームではなく、比較的マトモな方だと思うが、でもホームにアスファルトは敷いていない。砂利敷きの駅だ。だからこそ、一日いても飽きない雰囲気が醸されるのだろう。紋穂内駅にて。

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撮影紀行にも書いたように、紋穂内駅近辺にいる間に小雨がぱらつき始めてしまった。それで予定を変え、17時15分の下り列車は駅ホームからの撮影に切り替えた。ただ撮るだけではつまらないから、結局は私の“秘密兵器”ことサンニッパのお力を借りて、思い切り引き付けた写真にした。ホームから撮影しているのに人家の一軒も写り込まないあたり、やっぱり北海道ですなあ。初野~紋穂内にて。

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ここからの数枚は、vanagon714さんとIさんにご同行願っており、殊にお車を出して下さったvanagonさんには何度お礼を申し上げても申し上げ切れない気持ちで一杯である。これは、蘭留駅から北へ700m程度の国道陸橋上からの撮影。陸橋から駅寄りと、反対寄りとの2枚を写したけれど、個人的に駅寄りの写真の方が気に入ったので、こちらをアップしておく。小雨はぱらついていたが、新緑が目に痛いくらいだった。蘭留~塩狩にて。

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車での撮影は有難いもので、予定の変更が容易に出来る。当初、私の頭中に塩狩駅へ寄る予定はなかったのだが、順調に撮影が進んで時間に余裕が出来たので、急遽、小説の舞台ともなったこの駅へ寄って頂くことになった。山中の静かな駅で、峠を登ってきたディーゼル車のエンジン音が大変印象的だった。先程この写真を焼いてくれた、いつものプリント屋さんが「何か、ミニチュアの写真みたいだね。手前が大きくボケていて」と言われた。これもサンニッパを使っており、低い位置からの撮影なので手前のボケが大きく、言われてみればそんな写真にも見える。

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これは、撮影地ガイドに載っていた場所。なるほど、ガイド本に載るだけあって、ここは中々の佳景であった。撮影場所も地方道の陸橋上からで、足元に心配の必要もない。申し分ない撮影地のはずだが、何か知らんハエのような小虫が恐ろしいほど人間に群がってきて、それを払いのけるのに大変だった。今ではいい思い出だけれども。日進~北星間、以前の智東駅跡付近から。

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これを撮る前々日、紋穂内からの帰りに見つけておいた撮影地。タンポポがあまりに地面一面に咲いていたので、ここへ出向くことにした。vanagonさんには申し訳ないが、お車をIさんに回送して頂いて、私たち二人は名寄の宿から列車で美深まで来て、駅から歩いた。私は勝手にタンポポマニアしていたが、vanagonさんによるとここから更に初野寄りの踏切付近からでも、線路が緩くS字カーブしていて、いい写真が撮れたとのことである。美深から初野寄りへ徒歩15分ほどの場所から。

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再度、vanagonさんの車に乗せて頂き、美深駅の裏手に回った。駅の表側は現在でも宗谷本線の乗り場として活躍しているが、裏側の1線分は昭和60年9月に廃線となった「日本一の赤字線」・美幸線の発車ホームであった。廃線から24年近く経って、使われない側のホームは痛みが激しいようだ。何より、地面に無造作に置かれた駅名標が、この駅の現状を表しているように思った。

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vanagonさん方とは、瑞穂駅でお別れし、その後はこの駅付近で色々と被写体を変えながら撮影した。中でもとりわけ気になっていたのが、この「田の畦の芝桜」だ。列車の車窓として見えていて、ここへは絶対に来ようと思っていた。瑞穂駅自体、停まる列車の本数が少ないし、この芝桜の場所は瑞穂駅と風連駅のちょうど中間地点付近にある。駅間距離は4.6キロなので歩けない距離ではないけれど、少し気合は必要かな、と。

アップしたい写真は他にもあるのだが、私はどちらかと云うと文章主体のプログの方が好みだし、あまり写真を載せすぎると長くて諄い(くどい)だけの記事になってしまうから、これくらいで止めておく。

文中にも記したが、vanagon714さんと、Iさんには、私の撮影に無理矢理ご同行頂いて、感謝の念に絶えない。また、撮影に出るに当たって、事前にN市のTさんからも適切なアドバイスを頂いた。皆様にはこの場をお借りして、厚くお礼申し上げる。

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2009年5月27日 (水)

宗谷本線撮影紀行(7~9日目・復路編)

7日目(5月25日)

さてさて、撮影は大詰め、もう今日の内に帰路の列車に乗らなければならない。

幸い、天候は良くなってきた。それで朝の内だけ、ちょっと撮影してから、道内の「乗り鉄」を楽しもうと思う。

まず、この何日かで馴染みとなった7時50分発の稚内行きに乗り、すぐ次の日進駅で降りる。この駅付近にも、結構絵になるところを見つけておいたのだ。それにしても、名寄の隣の駅なのに、日進駅は

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1両きりの列車さえホームに収まらない。前日の瑞穂駅同様、国鉄時代は臨時乗降場だったようだ。

ここから歩いて数分、目的地に着くが、辺りには堆肥独特の匂いが漂っている。ちょっと向こうを見たら

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牛さんたちの姿が見えた。止むを得ない。私だって牛乳を飲むこともあるし、牛肉を食べることだってある。こう云う臭いの所があるから、私たちの食卓に牛乳や牛肉がのぼるのだ。

臭いの神経なるものは、時間の経過と共に神経が麻痺するのだそうで、2本の列車を撮るためにここへ2時間近くいたら、最後には気にならなくなった。それより、さっきの晴れ空がまた曇り始めて、うすら寒い風が吹いてきた。旅行用の着替えなど大きな荷物は、もう宅急便で自宅へ送ってしまってある。セーターは着ているが、ぶ厚いジャンパーは、とても名古屋までは着て行かれないから、宅急便の荷物の中だ。撮影を終えたら、急いで駅の小さな待合室へ身を寄せる。

10時16分、時間通りに名寄行きの列車がやって来て、これで寒さからは開放される。あとは、列車を乗り継いで楽しむつもりでいる。札幌を22時の寝台急行に間に合えばいいから、それまで暖かい列車の中で過ごそうと思う。

まず旭川へ出る。ここから久し振りに富良野線に乗ろうと思う。

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往路編でも書いたけれど、旭川は現在、駅の高架化工事真っ最中である。この富良野線ホームへの長い地下道を歩くのも、これが最後になるかも知れない。

富良野線は旭川から美瑛を経て富良野に至る路線で、観光路線としても名を馳せている。ただ、富良野や美瑛のお花畑が綺麗な衣装をまとうのは、まだちょっと先のことで、車窓から春先の花々などを見て過ごすこととする。でもタンポポや芝桜も、色鮮やかで、列車から眺める分には遜色のない花たちである。

15時少し前、富良野駅に着く。駅だけは、もう花のシーズンの装いになっていた。

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ここからは、写真右側の根室本線の普通列車に乗って、終着の落合まで行ってみることにする。根室本線も、滝川~富良野~新得(落合の一つ先の駅)までは、昭和56年に開通した石勝線に道東へのメイン路線の座を奪われ、特急も通らない寂れた路線になった。また嘗ては途中の駅で炭鉱運搬の私鉄に接続していたものだが、石炭業界の衰退と共に、余計寂れに拍車がかかってしまっている。私自身も、この区間に乗るのは17年ぶりだと思う。

途中駅や沿線の寂れ具合は、筆舌に尽くし難い。一例として、下金山駅の写真を載せておく。

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ホームに停まっている列車から写したものだが、ホームと駅舎の間が不自然に大きく開いている。炭鉱が盛んだった頃は、この間に敷き詰められた線路に石炭を積んだ貨車などが並んでいたことだろう。不要となった線路が取り払われた今は、ホームと駅舎の隙間を見て、昔を偲ぶしかない。

私の乗った列車の終点・落合はもっと寂れ方が目立ったけれど、これは別の日に別記事として書こうと思う。

折り返しの列車は滝川行きである。私と同様の女性旅行者一人の計2人を乗せて、列車は発車した。途中で高校生が乗って来たりもしたが、1両きりの列車内が満員になることはなかった。

滝川からは特急に乗って一気に札幌へ出る。まだ20時前だが、腹ごしらえをしておかなければならぬ。繁華街のすすきのまで、地下鉄に乗って往復する。

札幌へ戻り、駅構内を少しぶらついてから、22時にはまだ30分ほどあったけれどホームへ入る。うまいことに青森行きの列車は早めに入線してくれて、すぐに夜行列車の客となった。

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これで、5日間に亘る北海道内の旅程は終わった。明朝目覚めた時には、もう本州に戻っている筈である。

8日目(5月26日)

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夜行急行「はまなす号」の青森到着は、5時39分。あまりに早いお着きだが、この時間に着くからこそ、私は一つの企みをしていた。ラジオで聞いたことなのだが、朝一番の普通列車で青森を発つと、その日の内に普通列車だけで東北本線全線の青森から東京までが乗り通せるというのである。青森~東京の距離は739.2キロ。時刻表を繰ってみると、確かにそれが可能なので、挑戦してみようということなのだ。

時刻表でそれを調べるのは知的なことである。だがそれを実際に敢行しようとなると、紀行文作家・宮脇俊三さんのお言葉を借りて、痴的なことと言わざるを得ない。以下、一々大きな写真や細かいことを付していたら、とてつもなくでかいファイルになってしまうので、端折りながら書かせて頂く。

まず、6時10分発の八戸行からスタートする。

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電化されている東北本線だが、運用の都合でこれだけはディーゼル列車である。それも想像していたキハ110系(民営化後に作られた形式)ではなく、国鉄型車両で、座席も4人がけのBOX席が中心だ。4両も繋いでいるのは、三沢あたりで通勤通学時間帯に入るからだろう。

そう思って乗ったが、朝が早すぎて、三沢の手前で眠くなってしまった。目を閉じて気付いたら三沢は通り越していた。混んだのかどうかはよく判らない。予定通りの8時16分、八戸着。

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ここから盛岡までの間は、新幹線八戸開業と共に、JR東北本線から第3セクターの青い森鉄道とIGR岩手銀河鉄道に転換されてしまっている。だが、JRの夜行寝台「北斗星」や「カシオペア」、それに貨物列車などは現在でもこの路線を通っている。実質JR東北本線と同じである。普通列車も、この近辺で走っているJRと同じ形の電車が塗装だけを変えて走っている。だから、別に第3セクターでもあまり気にならない。

ただ、私が使った「周遊きっぷ」では、前記の夜行寝台に乗らない限りはここを経路として使うことは出来ないとの規則があるそうな。仕方がないので、周遊きっぷだけは新幹線経由としておいて、第3セクター部分の券だけは八戸駅で別個に購入した。3千円弱の出費で、かなり懐が痛む。それだけの出費をしたからには、ここの区間は寝てしまう訳に行かない。幸い、BOX席とロングーシートが千鳥配列になった列車が来たので、早めに乗り込んでBOX席を占領する。

JRの手を離れると聞いた頃に、2度ほど撮影に来たことがあって、見覚えのある懐かしい区間を約2時間かけて走破する。盛岡着、10時54分。

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第3セクになったお陰で、JRとの改札に距離が出来てしまい不便になった。12分の乗り継ぎ時間があったが、若い私でもいっぱい、いっぱいだった。お歳を召した方なら、ちょっと12分では乗り継ぎ出来ないかも知れない。

さて次は

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こんな通勤用電車みたいので、

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ここまで行く。実際に車内は通勤電車と同じロングシートで、眺めを楽しむには不都合な列車だ。この形の列車は仙台より更に南まで運用範囲があるので、自分の乗る列車がこれから先どういうものに当たるか、運次第である。取り敢えず、盛岡発、11時06分。

一ノ関へ着くまでに昼食の時間になってしまう。ロングーシートでは駅弁も似合わない。盛岡駅でサンドイッチを仕入れておいたが、客が少なくなった水沢を過ぎたあたりで、急いでそれを食べて昼食とする。12時35分着。

次も同じ型の電車。12時46分の発車。

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車両の帯の色は違うが、ロングシートで、ワンマン運転である点も同じである。味気ない思いで、外を眺める。北海道の寒さはもうないが、沿線の田圃は多くが田植えを終わった直後で、風景は道内とあまり変わらない。ただ、北海道では見ない瓦屋根の家が増えてくる。代わりに北海道では頻繁に見かけたサイロなどは、ここらでは全く見られない。

13時33分、小牛田着。ここからはちょっと忙しくて、5分接続での乗換えとなる。

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また、同じ形の列車である。ただ違う点は、LEDの方向幕をよく見て頂くとお判りの通り、「ワンマン」の文字がない。また、列車は4両編成になる。流石に東北一の都市、仙台へ東北本線の列車が2両きりと云うわけには行かない需要があるのだろう。実際に、仙台へ近付くにつれ立ち席客も出始めて、仙台へは14時24分着。

距離的には大体仙台辺りがちょうど中間地点になる。一息入れたいところだが、それをしていると予定が大狂いして今日の夕餉が食べられなくなるので、また5分での慌しい乗り継ぎをする。

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行き先としてはこうなるが、今度は有難いことに

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BOX席のある車両であった。5分乗り継ぎだから慌てて撮った写真で、よく見ないとどんな車両か判らないとは思うが、719系と云うJRになってから作られた車両である。

仙台は14時29分発、まだ中高生の下校時刻ではないが、小学生の団体が乗っていて、席は占有されてしまっている。仕方なしに他の方と同席しようとすると、先生らしき人が「こらっ、あんたたち、そっちの車両に乗っちゃダメだって言ったでしょ!!」と叱りつけて、子供らをどかせてくれた。お蔭で、またBOX席にありつけた。

すぐ次の長町で「先行貨物列車遅れのため、少々停車します」とアナウンスが入る。次の乗換駅・福島では38分も時間があるので、少しくらい遅れても構わない。幸い、2分遅れただけで長町を発車した。

時間的にまだ混み合うことなく、平和に福島までやって来る。進行方向右側席に座っているから、キロポスト(起点から何キロかを表示した標柱)の数字がよく見える。キロポストは原則として、上り列車の右側に立てることになっているのだ。早くも300を切った。半分を遥かに割り込んだ計算になる。

福島へ近付くと「この列車は、このまま16時28分発の黒磯行になります」との放送が入る。私がこの先乗ろうとしている列車は、この列車に続けて乗っていればよいと云うことなのである。やれやれ、ちょっと一息つける。

LEDの列車の方向幕は

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表示する文字だけ変わった。あ、あと福島では乗務員も交代するようだ。でなければ、かなりの長距離運転になってしまいますな。

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停車の間に、缶コーヒーを飲んだり、ホームで背伸びなどをして、外の空気を思い切り吸い込む。

定刻に福島を発車。思ったほど学生たちは乗ってこない。私は4人がけ席を占領したままである。荷物はちゃんとどかせてあるが、誰も座りに来ないのだ。17時17分着の郡山でも14分の停車があったが、座席は空席が目立つ。

白河を過ぎた頃から、そろそろ窓外が薄暗くなってきた。昨日、滝川の手前で見た夕日が、今日はこの辺りで暮れて行く。18時32分、黒磯着。外を一生懸命眺めていたので、流石に老眼の始まった私の目では、時刻表の縮小コピーが読み辛くなってきた。と共に、体もかなり草臥れてきた。然しここではまた6分の乗継である。急いで途中下車印を捺しに改札へ行き、トンボ返りで別ホームに停まっている

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この電車に乗り込む。車内が見えるが、残念ながらまたロングシートである。

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ここまで50分ほどを、帰宅の客と共に過ごす。

さて、宇都宮では最も厳しい2分乗り継ぎになる。もういくら何でも、途中下車印は無理だ。それに、こんな短時間の乗り継ぎなら向かい合わせのホームにでもすればいいのに、隣のホームへ一旦階段を上って降りなければならない。少しは気を使えよ、JR東!

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そんな理由から、宇都宮は呑気に駅の風景など撮っている余裕はなく、駅名標の写真で我慢して下され。

そして、折角階段を走って乗った列車なのに、行き先をご覧頂けばお分かりのように、これは上野へ行かずに、湘南新宿ラインを経由して横浜の方へ抜けてしまう。だから、たった4駅乗っただけの小金井で、ここ始発の上野行きに乗り換えなければならない。これも7分乗り継ぎで、下車印と別ホームへの階段上り下りに息を切らす。かなり足元がくたばってきた。

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小金井は19時56分発。でも、これを捕まえてしまえば、もう全線乗り継ぎ完乗は出来たようなものだ。予定通りなら上野着は21時25分、上野から東京は国電で4駅である。有難いことに通勤の流れとは完全に逆なので、車内はガラガラ。関東圏ではありふれた231系であるが、編成の端にはBOX席付きの車両もある。

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目出度く、BOX席を占領できる。流石に外は真っ暗となり、どんどん都会が近付いてくる。けばけばしいネオンも大宮辺りから一気に増えて、目を介して疲れがどっと体を襲ってくるのが判る。

流石にBOX席でも「もう、いいや」という気分になった頃、やっと終着上野へ着く。

いよいよ最後の最後になった。先程書いた通り、国電であと4駅乗れば目的は完遂できる。乗り物に乗り過ぎて足元をふらつかせながら、国電ホームへの階段を上っていく。本当に、一歩間違えば階段を転げ落ちそうだ。

ここから東京までは「京浜東北線」と「山手線」が並走している。だが、「東北本線」に拘ってきたのだから、乗る電車は山手線のものであっては納得行かない。やはり、京浜「東北線」に乗らねば。次発は

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蒲田行きとのことである。そして、程なくやって来た

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これで、ゴールを目指す。見る人が見れば判ると思うが、本当の「方向幕」で、つまり209系電車の方で、曲がりなりにも国鉄型電車と云うことになる。スタートの青森も国鉄型だった。〆として、相応しい。

約8分で、車掌の声が「東京」の駅名を告げた。はっきり言って、少し息遣いが荒くなっているが、もうこの際、そんなことはどうでもいい。

時に、21時39分

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私は国電から転げ落ちるようにホームに降り立った。

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東京だ!

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東京だ!!

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東京だーー!!!

目の前には、739.2キロから減算トリップされてきた

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起点の証、0キロポストが燦然と輝いている。何という下らないことを成し遂げたのだろうか。

まさしく、痴の世界である。

9日目(5月27日)

まだ、本当は5月27日にはなっていないけれど、取り敢えずあれで終わっておかないと文章のしめしがつかないので、以降のことは5月27日のこととして書く。

まず、東京へ着いたからには、夕食を食べねばならぬ。一人で勝手に祝杯も上げたい。で、往きと全く同じ秋葉原のCカレー屋へ行って、ビールを注文した。このあと、23時03分発の寝台特急「北陸」に乗って、北陸線回りで帰ると云うまたまた下らないことを企図しているので、あまりゆっくりは出来ないが、一応の目標は達成したのだから、やっぱり祝杯だろう。

本来なら、2本目のビールは頼むべき時間ではなかったので、食事を終えて国電に飛び乗って上野駅に着いたのは、北陸号発車8分前のことであった。

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間に合えばいいのだ。間に合えば。それに、疲れることを予測して、ちゃんと個室寝台を取ってある。

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「ハネ」だから、Bではあるが、700番代は個室寝台の車号である。私の乗った車両はこれだったのだ。

流石にあれだけ馬鹿げたことをしたから、寝る前の一連の動作をしたら、もう直ぐに寝付いてしまった。途中、どこかで長時間止まっていて(多分、機関車を付け替える長岡だと思う)、その間だけ目が覚めたけれど、あとは見事に寝ていた。

まだ寝足りないのに、終点金沢到着20分前にかけた目覚ましが鳴り、仕方なく起き出した。定刻6時26分に金沢着。

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屋根に覆われた高架駅の金沢は、いつ何時でも暗くて好きになれない。眠い目を擦りながら、下車印だけ捺しに行く。そして直ぐに、6時46分の米原行「しらさぎ54号」の車内に入り込む。早朝だから自由席で十分だろうとの勘は当たり、楽々席にありつく。

あとは、睡眠不足を解消すべく、夢の続きをしているだけで米原まで着いてしまう。

ここからは、普通と快速を乗り継げは、1時間半もかからずに名古屋へ着く。北海道旅行の紀行文で、名古屋近辺のことを事細かに書いてもつまらないと思うから、この駄文もこれで終わりにしようと思う。ただ、これでは締まりがないので、最後に往路編でお約束した「手書きの周遊きっぷ・ゆき券」の下車印を捺された姿と、マルス券だけれど、同じく下車印の目立つ「かえり券」の映像をご披露しておこう。

それから、この旅行の全てに関わって下さった多くの方々に御礼の言葉を添えて、楽しかった旅行の始終をご報告方々する次第である。

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2009年5月24日 (日)

宗谷本線撮影紀行(5~6日目・撮影編)

5日目(5月23日)

これから2日間は、同行してくださる方がある。いつもこのブログにコメントを下さるvanagon714さんとそのお知り合いのⅠさんのお二人で、私の仕様もない撮影にわざわざ付き合って下さるというのである。

お二人とは、朝9時過ぎに永山駅で落ち合うことになっている。私の乗る列車が9時11分に永山に着くので、それに合わせて頂いた。初対面のお二人であったが、どちらも大変温厚で親切な方だった。小心者の私もすんなりお仲間入りをさせて頂く。

この日の撮影は、駅名だけを順に拾うと、北永山→蘭留→塩狩→北星~智恵文間、となる。何れもvanagonさんの車で回っていただいた。

生憎の雨となってしまったが、写真を撮ろうと外へ出ると、不思議と小雨になる。大変調子がいい。北永山でも蘭留でも、撮影に傘は不要だった。わがままを言わせて貰い、私の好きなように撮影させて頂く。蘭留では時間待ちの間、駅にも立ち寄った。

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一方で、vanagonさんは、鉄道以外にバスのことも大変詳しい方である。脳内には高性能の「廃バスセンサー」までお持ちで、車で走っていても廃バス車体があると即座に反応される。廃バスを写しているvanagonさん。

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私もバスには興味があるから、一緒にしっかりデジカメで撮影はしてある。でも、バスに関する知識は、現役運転手の私を遥かに凌いでいる。私は路線バスのことはある程度知っているけれど、ただ「好きなだけ」でバスの車体など詳しいことをちっとも覚えようとしないから、こっちの方がタジタジになってしまう。

蘭留から塩狩へ向かう途中で、お昼タイムとなり、たまたま入った蕎麦屋が大変美味だった。3人とも大いに満足する。

塩狩は、当初、私の予定では寄るつもりはなかったのだが、時間があるし、有名な小説の舞台ともなっているので寄って頂くことになった。峠の頂上の駅で、列車を待つうちにまた雨が小止みになり、大変都合がよい。峠の塩狩駅での一コマ。

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現在は長くて2両の列車しか停車しないが、蒸機時代は長い客車列車も停車したホームであったようだ。

ここから一気に北星駅と智恵文駅の中間辺りにある撮影地まで、車を飛ばしてもらう。ここは駅間が長く、徒歩では来るのがかなり困難な地点だ。お車を出していただいたお蔭で、大いに助かった。だいたい

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こんなような俯瞰撮影が出来る場所である。雨はまた小降りになったが、ハエのような小虫がいっぱい群がってきて、長い間、外にいられる場所ではなかった。

この上りサロベツ号で、取り敢えずこの日の撮影は終わり。お二人には名寄で同じ宿に泊まっていただくことになっているので、そのまま宿へ向かってもらう。

夕食後、親睦宴会と称して遅くまで話し込んでいた。良識のあるいいお話を伺うことが出来て、楽しい夜だった。

6日目(5月24日)

朝は私とvanagonさんだけが、列車で美深へ先回り。Iさんに車を回送して頂く。美深は嘗て、国鉄内でも日本一の赤字線・美幸線の始発駅であった。取り敢えずは私の目的としている撮影地へ御一緒してもらう。タンポポが綺麗な撮影地。

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画面が小さいから判り辛いかも知れないが、撮影したフィルムが上がったらまたここにアップするつもりだ。何しろ地面がまっ黄に見えるくらいタンポポが密生していた。

2本の列車を撮影後、車のIさんと合流し、少し廃線跡や駅周辺などを見て回る。林業が盛んな町のようで、貯木場が散見する。小さいながら興味深い町である。

ここから一旦、名寄へ戻る。本来私は鉄道での移動を予定していたが、列車本数の少なさに音を上げて、昼過ぎまで車でのご同行をお願いしたのである。名寄駅の直ぐ南、嘗ての名寄本線跡に「キマロキ」と呼ばれる編成の雪かき列車が静態保存されている。それを見学に行く。

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蒸気機関車を先頭にマックレーン・ロータリー・そしてまた機関車という編成。それぞれの頭文字をとって「キマロキ」と呼ばれている。今はモーターカー1台で済む除雪作業を、昔はこんな大掛かりな編成でやっていたのだと、一同感心しながら見学する。この編成の置かれている線路は本当の嘗ての名寄線のレールで、蒸気機関車の先には

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サイクリングロードと化した廃線跡が延びている。

さて、時刻は昼を大きく回った。お二人は明日から普通に仕事である。遠路遥々お呼び立てしてしまったが、そろそろ帰途について頂かないと明日に影響する。それで私は途中の瑞穂駅まで送ってもらい、そこでお別れすることにした。

私の我儘な撮影にお付き合いいただき、本当にお二人には感謝の念に絶えない。

さて、再びいつもと同じ一人ぼっちとなった私は、駅を起点にぶらぶらと宗谷線の撮影に勤しむ。車窓から予め、この駅付近ならかなり色々撮影題材がありそうと目星をつけておいたので、そう迷うこともない。国土地理院の地図を片手に、予定している地点で撮っては移動し撮っては移動し、の繰り返しである。だんだん風が冷たくなってきた。真冬用のジャンパーを着てきたが、正解だったなと思う。

16時過ぎ、駅へ戻ってくる。駅付近でまた何枚か撮る。駅と言っても

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こんなちっちゃなホームがあるだけで、普通列車でも通過する列車が多い。付近に人家も少ない。国鉄時代は「仮乗降場」と呼ばれた停車場だったろうと思う。

16時51分の普通列車を撮影して、私の今日の予定は終わり。18時09分の列車を待って、宿のある名寄へ戻るだけである。

それにしても、この2日間、vanagonさん、Iさんのお蔭で大変有意義な時間が送れた。改めてこの場を借りて、お二人に感謝する次第である。

明日は私もいよいよ帰りに向けて始動する。帰路は2泊とも車中泊となるので、ブログの更新も自宅へ戻る27日までお休みである。

自宅へ戻ったら、帰路のことをまたくどくどと書くので、よろしくお付き合いの程。

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2009年5月22日 (金)

宗谷本線撮影紀行(4日目・撮影編)

4日目(5月22日)

今日からは撮影に勤しむ。7時50分発の下り一番列車で、まずは智北(ちほく)まで向かう。駅から徒歩15分程度のところに、いい撮影地があると撮影ガイドに書いてある。

ところが、撮影ガイド通りに歩いても撮影地に入るべく小道が見当たらない。遂に、何か知らん跨線橋道路の工事現場に入り込んでしまう。工事のおっちゃんに「おーい、危ないぞぉ」と言われ、流石に自分でも納得できるので後退する。

結局見つけた撮影地の入り口は

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何とこんな所だった。これのどこが「小道」なのだろう。前回の上越線撮影紀行でも書いたけれど、本として出版する限り、撮影地の入り口やその周辺のことなどは、きちんと書いて頂きたい。

さて、写真の熊笹を過ぎると無事、撮影地に出れた。こんな感じのところだ。

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これなら十分俯瞰撮影できる。また足元には

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こんな感じで花が咲き、ちょっと一息つけるような風景である。ただ、敢えて言うと俯瞰撮影のための三脚は

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このような具合で、またまた熊笹の中に分け入らねばならない。

ここで撮影したのは、普通列車1本と上下の特急・S宗谷。S宗谷は本来4両のはずだが、上下列車とも2両増結の6両になっていた。昨日のS白鳥などと同様、修学旅行の団体がらみでの増結だろうと思う。

下りのS宗谷を撮って、ここは終了。駅へ戻る。今度は紋穂内(もんぽない)へ赴くが、列車までは1時間以上待ち時間があるので、駅でのんびり昼食のパンなどを食べる。

やっと来てくれた12時58分の列車で紋穂内へ。ここは何も撮影地ガイドに載っていないが、プロ写真家の方がこの駅周辺での写真をご自分の本に載せていたので、私も真似してみようとの魂胆である。紋穂内を発車していく、乗ってきた列車。

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まあ、こんな感じで、辺りは何もないと言って等しい地域である。因みに、撮影しようと思った場所まで赴いて撮った写真。

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やっぱり見事に何もありませんな。

ただ残念ながら、14時を過ぎた頃から雨粒が落ちてきた。小雨程度で傘は必要ないが、出来れば晴れてのんびりした景色を撮影したかった。それでも、本降りにはならないまま退去予定の17時過ぎまで天気はもってくれたので、まあまあ気楽に撮影できたと思う。

ここでの最後になる17時15分の下り列車は駅ホームから撮影しようとしていたが、三脚を構えてふと駅の向こうを見ると

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ちょっと判り難いかも知れないが、エゾシカが私を見つめていた。呑気な奴だなあ。でも、出現したのがヒグマでなかったのは本当に僥倖だったと考えるべきだろう。

17時47分の列車に乗り、18時22分、予定通りに帰ってきた。少し荷物を整理して、昨日と同じ焼き鳥屋へ出向く。

ここからはちょっとおまけ的なことになるが。

暫く飲んでいると、カウンターの私の隣に30そこそこと見える兄ちゃん二人連れが座った。店内はかなり混んでいて、マスターとバイトの女の子二人でも手一杯の感じである。その時、隣の二人組の一人が「おい、お冷やくれ」と言った。バイトらしきねーちゃんが、慌てて氷水を持ってくると「バカヤロウ、冷酒を持って来いって言ってるんだよ」と言う。普通、飲み屋で「お冷や」と言えば、氷水を持ってくるのが常識だろう。挙句の果てに、冷酒が欲しかった兄ちゃんは、その女の子に向かって「テメェ、ちょっとニブイんだよ」などと言っている。あまりに気の毒な話ではないか。名古屋にいたら私は多分この兄ちゃんに「あんたが間違っているんだよ」とでも言ったろうが、わざわざ北海道まで来ていざこざは起こしたくない。ここは、ぐっと我慢する。

その直後、別の客が「お愛想、頼むわ」と言って、私の横の会計へやって来た。ところが出したのが高額紙幣らしい。またバイトのねーちゃんが困ってしまい、「マスター、両替金、ありますか?」と問うている。鳥を焼くのに忙しいマスターは「ないよぉ」と言うだけ。紙幣を手に、呆然としているバイトのねーちゃん。

とうとう堪忍堪らなくなった私は叫んだ。「おい、ねーちゃん、それ、いくらの紙幣だ?」。すると「万札なんです」と言う。ちょっと口はばったいかも知れぬが、バス乗務員を生業としている私は、常に最低でも万札を両替できるお金を携帯している。それで「ねーちゃん、こっちへ来いや。両替できるから」と呼び寄せた。我乍ら何という親切な中年だろう。

思わぬところで両替金が役に立った次第だが、個人でやっている店は大変だなぁと、ちょっと気の毒なような気分になりながら、ビールを飲み終えた私もお愛想を頼んだ。

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2009年5月21日 (木)

宗谷本線撮影紀行(2~3日目・往路編)

2日目(5月20日)

朝、5時半起床。6:00発の飯田線に乗らないと行程が崩壊するので、旅先にしては珍しく早起きをする。

さっさと宿を出て、飯田線ホームで待っていると、お待ちかねの電車が入線してきた。

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通勤の流れとは逆だし、何と言ってもまだ早いから、ガラガラの車内へ納まる。

飯田線は196キロ、94の駅があり、それらを全部語っていたらキリがないので、全線を通して乗るための列車の方向幕だけを載せておく。

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この内、天竜峡から飯田の間だけは、ワンマン運転。また、最後の上諏訪行きは、終点まで乗るとルートから外れるので、途中の辰野で降りている。全体的に客はまばらで、朝の8時くらい、三河一宮付近だけ登校の中学生でちょっと賑わった。

さて、辰野へは11時43分着。ここで1時間以上待ち時間があるので、駅前の「旅館ダイニング」の看板の店へ入る。

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私より少し年上の感じの御主人によると、3年前に脱サラしてこの店を始めたとか。看板通り、旅館業と食事屋を兼業して、奥さんと二人で奮闘しているそうである。中々美味いソースカツ丼で腹をくちくする。

ここからは一旦塩尻へ出る。こんな

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一両きりの可愛い電車が、辰野と塩尻の間の足である。あちこちに走っているクモハ123型の1号車だ。中央線は、みどり湖経由の新線開業で、この辰野経由はすっかり寂れてしまっている。

辰野では6分の好接続で今度こそみどり湖経由の新線に乗る。よく晴れていて、窓外には

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赤石山脈も見えて気持ちいい。小淵沢で一旦乗り換え、直ぐ接続する列車を見送って次の立川行に乗る。乗った電車でふと気付いた細かいこと。

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窓枠外の塗装は長野地区カラーだが、写真左側の戸袋窓部分には、国鉄時代の湘南カラーの塗装の痕跡があった。

だんだん都心の雰囲気になり、17時21分、終点立川着。ここからは南武線に乗る。わざわざ南武線経由にしたのは、手書き切符にするための経由線増やしの理由もあるが、3月14日改正で誕生した

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この駅へ降りてみたかったからでもある。下車印を頼みに改札へ行くと、駅員氏が経由を見て「ほぉ~っ」と言う。おまけ。西府で出会った南武線の貨物列車。

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ラッシュ時にも貨物が混じるとは、中々余裕の南武線である。

次の川崎行きで終点まで乗り、ここからは東海道線で東京へ、更に山手線に乗り継いで秋葉原で降りる。夕食をとるためだ。秋葉原には全国チェーンの某Cカレー屋があり、ここで食べたかったのである。

腹を満たして、また山手線に乗り、上野へ。ここまでに下車印はある程度捺しているが、ここから先は特急にばかり乗るから、ゆき券の下車印は上野が最後になる。

ちょっと早めに上野に着いてしまったので、「あけぼの」の出発する13番線ベンチで暫し待つ。待ち遠しい思いでいること30分余、やっとホームのアナウンスがあり、推進運転の「あけぼの」の姿が見えた。

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21時15分、定刻発。暫くは窓外を眺めていたが、高崎辺りで眠くなって寝てしまった。

3日目(5月21日)

よく寝ていた。目覚めたのは東能代で「この先の岩峰駅で信号故障があり、先行の貨物列車が止まっている」旨の放送が入ったからである。

結局、東能代は3分遅れ。青森では5分乗り継ぎなのでヒヤヒヤする。幸い青森までには時刻回復した。とは言え、違うホームでの乗り継ぎで、5分しかないとかなり焦る。青森駅のホームは長いのだ。何とか

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間に合ったが、急いでいい加減に撮った写真はちょっと傾いていますな。

特急だから、青函トンネルもあっという間で、北海道へ入ったなと思っていたら「間もなく終点の函館です」と放送が入る。

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次は札幌行きのS北斗9号へ。今度は向かい合わせのホームでの乗り継ぎだし、接続も20分以上あり、余裕が持てる。昼食の駅弁を買った後、N市のTさんにメールを打ち、そこでビールを買い忘れたことに気付いてもう一度ホームへ出る。無事、定刻発。

今日も快晴で、小沼・大沼・駒ケ岳・噴火湾、みな、とても綺麗に見える。今日は乗るだけだから雨でも良いが、やはり晴れていればそれなりに功徳はあるものだ。

景色を楽しんだり、転寝したりする内に、苫小牧が近くなる。天気を確認しようと携帯PCをつけていたら、バッテリー上がりでPCは切れてしまった。昨晩、寝台車内でサイトなど見ていたので、無駄食いしてしまったようだ。止む無し。

S北斗は新札幌で敢えて降り、ここで快速エアポート~Sカムイ35号に乗り継ぐ。もう、自由周遊区間内で特急の自由席なら乗り放題なので、席が埋まる札幌よりも手前で乗り継いでおいたのだ。

望み通りの席を確保し、札幌で向きを変え、一気に旭川へ。知らない内に、旭川は駅の高架化工事が始まっていた。

特急はここで終わり。ここからは宗谷線に入るので、鈍行に乗ることになる。25分の接続待ち。先発の伊香牛行きが出たら、すぐに2両のキハ40が入ってきた。

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嬉しいことに、エンジン未換装車で、しかも天井の扇風機は

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懐かしいマークのままだった。鈍行のスピードもちょうど良く、やはり旅はこれぐらいでなくちゃと思いながら、ゆったりとキハに揺られる。やがて、日が落ち始め、

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こんな景気を見終えて真っ暗になった頃、終点の名寄に着く。今日から4日間はここで泊まる。名古屋を出てほぼ丸2日かけ、目的地へ着いたことになる。

書いてた私も疲れたが、お読み下さった方のほうがもっとお疲れだったろう。この後、私は夕食を兼ねて焼き鳥屋へ出向くが、いい加減この辺りで「往路編」は終わりにしておこうと思う。

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2009年5月19日 (火)

宗谷本線撮影紀行(1日目・往路編)

1日目(5月19日)

昨日記事にした切符を手に、いよいよ旅行へ出かけるとする。とは言っても、初日の今日は名古屋周辺をぐるりと回った後、豊橋まで行ってお終いの予定になっている。

朝5時40分から昼下がり15時15分までの勤務を終えて、急ぎ帰宅する。なるべく早めに豊橋へ着きたいので、少しでも家を早く出れた方が都合が良い。

結局家を16時頃に出て、まずは切符の出発点・勝川まで行かねばならぬ。幸い予定より1本早い中央線の電車に間に合い、勝川へ16時43分着。工事中の長いコンコースを慌しく辿って改札まで行き、件の券に入鋏してもらう。

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いよいよ本当のスタートだ。すぐに来る

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16時49分の快速に乗る。もう、高校生らの下校時刻で、列車は混んでいた。高蔵寺まで立っていく。そこからは優先席に座って、すぐに多治見へ着く。

多治見からは太多線で美濃太田まで向かう。これも夕刻ラッシュに重なるが、列車が入線して比較的早くに列車に乗り込んだから、何とか窓際席を確保。キハ11の3両編成であった。

それにしても、乗ってから気付いたが、身近な存在の筈の太多線なのに、乗るのは何年ぶりだろうか。記憶が正しければ多分、11年ぶりになると思うが。その太多線の列車。

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可児までは立ち席客もいたが、何しろ乗ってしまえば、18キロ程度の線なので、交換時間を含めても30分に満たないうちに終点美濃太田の案内放送が流れる。少しローカルっぽい雰囲気が残っていて、まだまだこの線は楽しめるなと思う。

美濃太田で26分の待ち時間あり。多治見に次いで2つ目の下車印を捺してもらいに改札へ行く。改札の目の前にKIOSKがあり、ついつい我慢できずにビールを買ってしまう。

美濃太田駅の夕景。

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こんな景色を見ているうちに、乗る予定の岐阜行鈍行が入ってくる。嬉しいことに、国鉄型キハ48の3連で、車内は比較的空いていた。

美濃太田~岐阜も、鈍行列車で乗るのは久しぶりだ。いつも特急の「ひだ」に乗ってばかりで通過してしまう区間である。何年ぶりかは思い出せないくらい、普通には乗っていない。

岐阜の手前で、先日「GW明けの情けない思い出」で写真を出した長森駅を過ぎる。日が長いお蔭で窓外がまだ見える。田圃はある程度残っているようだが、家も何軒か建っている。また折角の田圃も休耕田らしいところが散見し、昔日の写真のようなレンゲ畑はもう見られないようであった。

19時05分、1分遅れで岐阜着。ここで、夕食タイムとする。また下車印を頼み、駅前通の飲食店へ赴く。

胃を満足させて、行程再開。19時52分の浜松行き新快速に乗る。呆気なく名古屋を通り過ぎる。自分の旅行で名古屋駅をスルーしたのは初めてのことだと思う。こんな旅も面白かろう。然し、新快速はいかにも早過ぎる。このまま乗っていれば豊橋まで行ってくれるが、私はわざわざ刈谷で接続する普通に乗り換えた。新快速列車は昔で言う「準急」程度の駅しか止まらない。ちょっと不満な気分になるので、ホテルへ着くのが遅れてもいいから半分意地で普通列車の客になる。

1つ1つまだるっこしく止まる普通列車ではあるが、このまだるっこしさが、結構、旅には重要な要素だと思う。って、おかしいですかね?

因みにこの列車

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こう云う行き先だそうで、名古屋から静岡へ直通できる一日1本の貴重な列車のはずだ。豊橋で降りてしまうのが勿体無い気がする。そうは言っても、今朝は5時10分に起きて仕事をしてきたのだ。流石に蒲郡辺りから眠くなってきた。素直に豊橋で降りませう。

豊橋、21時30分着。有人改札を通ろうとしたら改札口で男性客が駅員相手に揉め事を起こして、改札に10人程度の行列が出来てしまってといる。他の駅職員が気付いて、揉め事に関係ない客をさばいてくれたが、改札を抜けるのに5分もかかってしまった。文句を言われている駅員さんも可哀想だ。同じ旅客輸送業同士として、駅員氏には心からお悔やみ申し上げる次第である。

さて、件の切符は今までのところ

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こんな感じになっている。明日の上野着までにどの程度捺せるか(上野からは寝台特急などを乗り継ぐので、捺せなくなると思う)、ちょっと楽しみでもある。46にもなって、困った下車印マニアである。

では、本日は是にて、おやすみなさいませ。明日は6時ちょうど発の飯田線に乗る予定。

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2009年5月18日 (月)

旅行の切符の話

明日から、ちょっと長めの旅行に出掛ける。自宅へ戻るのは5月27日という、それぐらい長めの旅行だ。

最終目的地は北海道の宗谷本線沿線で、名寄に4泊する予定でいる。ただ、普通に行って帰るだけではつまらないので、今回は往路・復路共にヘンテコリンな経路で旅行することにしてある。

多少でも割安になるようにと、いつものように「周遊きっぷ」を使うことにしている。今回の場合は「札幌・道北ゾーン」を使う。周遊きっぷの一番の特徴は、往路と復路が自分の好きなように選べる点にあるだろう。但し、あくまで周遊ゾーン内まで(から)は一筆書き切符でなければならない。

それで、今回、周遊きっぷを作ってもらうにあたって、2つの条件(希望)を叶えようと思った。

1点目:往路で飯田線を経由すること

2点目:手書きの周遊きっぷを発行してもらうこと

そもそもは、1点目を考えたら、2点目が自然に浮かんできたのだけれど、2点目に関しては知り合いの話や切符関連のサイトなどを調べた結果、「アプローチ券の経由線区が17を超えてしまうと、JRのマルスがオーバーフローエラーを起こすので、どうしても必然的に手書きの切符を発行してもらえる」とのことが判った。

ただ気をつけなければいけないのは、北海道を目的地としている券の場合、青森~五稜郭間は、正式な線路名称としては「津軽線・海峡線・江差線」の3線区を経由することになるが、マルスではこの区間を「津軽海峡線」として登録してあるため、線区としては1線区に数えられてしまうのだ。だから、3-1=2で、更に2線区を追加した「経由線区19線区超」の経路を考えなければならない。だが、経路にとらわれすぎて肝心な北海道にいる期間が短くなってしまっても、本末転倒の結果になってしまう。

結局、自分の乗りたい線や希望を更に考慮した結果、出発地を名古屋市内ではなく中央本線で名古屋市を出たすぐの勝川駅にすることで、最終的な経路が決まった。下の写真がその「往路アプローチ券」である(事由の項が「片道」となっているが、これは明らかに誤発行。空欄に「周遊きっぷ(ゆき券)」と書くのが正当)。

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東京へ出る(券の経由線区で言うと「東海・東北」のところ)までは、鈍行列車を乗り継いで遊ぶけれど、上野からは寝台特急の「あけぼの」を利用するので、この先の経由が回りくどくなっているのは仕方がない。

手書き券に拘ったのには、もう一つ理由がある。

元々私は「一筆書き切符マニア」でもあるのだ。高校生の頃、宮脇俊三さんの著書・「最長片道切符の旅」を読んで以来、変な経由線区の券を作ってもらっては、喜んでいる。そして、切符を途中下車印の嵐にして、二重に喜んでいる始末である。

昨今は賢いマルスの登場で、手書き切符も中々作ってもらえなくなってしまった(それなりの駅へ頼めば作ってくれる由だが、そこまではしたくないので)。マルス券も、感熱紙になった関係で下車印のインクがうまく乗らず、折角の印文字が擦れてしまうことも屡だ。

それらの諸問題(?)を一気に解決してくれる今回の切符、どんな御面相になって帰って来るかは、神のみぞ知る、だ。

そんな次第で、明日の仕事が15時過ぎに終わる予定なので、それからあの経路で、まずは旅行の往路を楽しんでくる。

周遊ゾーン内、帰路の話はまた別個に書こうと思うので、取り敢えずここでは略しておく。ネットの環境が整っていれば、宿泊先などから例の携帯PCで紀行文も書けると思うので、ああ、あいつはこんなことをやっているんだなとお判り頂けると思う。

と云うわけで、行って参ります。

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2009年5月15日 (金)

GW明けの情けない思い出

ゴールデン・ウィークも終わって10日ばかり、ちょっと時期が遅くなったけれど、私の非常に情けない思い出話を書くこととする。

時は1984年5月8日、私が大学3年生のGW明けのことである。

この当時、私はひとつのアルバムを纏めるために、岐阜県内の非電化ローカル線を撮りまくっていた。高山本線や太多線、明知線などの6線区を休みを駆使して撮影していた。

その中で、高山本線の長森駅付近に、当時はとても素晴らしいレンゲ畑があった。レンゲ畑とは言っても、極めて近い将来的には土に鋤き込まれて水田になってしまうのだから、時期を逸したらお仕舞である。レンゲの花のうちに撮りに行きたかった。

それで、当の5月8日は普通の平日ではあったけれども、講義(植物生理学の実験だったと思う)が昼からなのをいいことに、名古屋から程近い長森駅付近へ午前中は撮影に出掛けた。ボストンバックにカメラ機材と、そのまま登校できるように実験の講義で使う用具類を放り込んでいった。

その時撮った写真が下のものである。

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ネガの退色が甚だしく、ピンク色のレンゲが紫に近い色になってしまっているが、この頃の私としては大変お気に入りの写真を撮ることができた。

さて、問題の「情けない思い出」は、ここから学校へ向かう途中で起きた。

国鉄線で名古屋駅へ戻り、直接学校へ行くために駅のコンコースを歩いていた。時刻は午前11時過ぎだったと思う。傍らにはKIOSKがあり、子供用のおもちゃなどを売っている。ああ、自分も幼い頃は、こんなおもちゃで満足していた時代があったんだよな、と一瞬懐かしいような、憂いのあるような気分になった。その顔の表情をプロは見逃さなかったのだ。

突然、「すみません」と、中年の男性に声を掛けられた。この頃は駅の構内など人の多い場所で、若い人をターゲットに新興宗教の勧誘が盛んに行われていた。私は、それにつかまったと思い、「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」などとやってくるのだろうと嫌な思いになった。

ところが違っていたのだ。男性は汚い黒い財布のような物を私に見せ「私、少年課の○○と申しますが」と言った。何じゃ?と思ってよく見ると、黒い財布のような物には「警察手帳」と書かれていた。

少年課の○○氏は聞いてきた。「今日は、学校は?」。私は何も臆することもないので「ああ、昼からなんです」と答える。間髪入れずに少年課氏は「今、何年生なの?」「大学3年です」「どこの大学?」「△△大学です」「どこから通っているの?」「岐阜からです(写真を撮ってから云々などと言うと却って面倒なので、今来た岐阜から通っていることにした)」。

つまり、GW明けで学校が嫌になった家出少年と間違えられてしまったのだ。私はこの当時から童顔で、大学3年とは言え、高校生で十分通用するような顔立ちをしていた。

だが、矢継ぎ早の少年課氏の質問に、私は何もつまづくことなくスラスラ答えてしまったから、少年課氏もどうやら自分の過ちだったと悟ったようだ。それに私は、学生証も持っていたから、いざとなれば見せてやろうと自信満々で答えていた。

結局、少年課氏は「あ、どうも、済みませんでした。結構です」と言って、また足早に歩き去っていった。

大変トホホ的な気分であったけれど、思い返してみると「童顔」で損をしたのは、この時が初めでだったかも知れない。それにしても、返す返す情けない思い出が出来てしまったものだ。そして、それから25年が経つ現在でも、この時の様子ははっきり脳裏に焼きついている。

少年課の○○氏としても、ちょっとしくじったな、と多少なりとも屈辱感を味わっていたかも知れない。

そして、その少年課の刑事を、「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」と勘違いした私も私だよなぁと思いながら、家出少年のように紛らわしいボストンバックをぶら下げた私は学校へ行くための地下鉄に乗った。

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2009年5月13日 (水)

小宴会

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先日の公休日、3人で小宴会をした。開催地の名に因んで「グズラハウスの会」と称される会である。

出席者は、いつもコメントを下さるN市のTさん、コメント文中にだけ時折登場する謎の人物「T爺さん」、そして私の3人である。

この会、いつの頃から始めたか、はっきり記憶がない。また、何回目かということも不明確である。ただ、以前はN市のTさんと同じ営業所におられたT爺さんが、私の営業所へ異動されて私と顔馴染みになってからのことなので、それほどの歴史はない。3~4年程度のことだと思う。

半年に一度くらい開けるといいねと話していたこともあったような気がするが、昨年度は私たちの職場が人員不足で強制休日出勤の嵐と化した挙句、私がビールを殆ど飲めないほどまでに体調を崩したので、確か1年以上開催していなかったような気がする。

で、久し振りに3人が“グズラハウス”で顔を揃えた。

3人の共通点は、職場の同僚と云うこともあるが、一番の共通点は3人とも「鉄」であることだろう。3人とも、現在のJR線は全て乗っている。それぐらい、鉄分の濃い集まりである。

オヤジ鉄っちゃんが3人、雁首を揃え、何をするかと言って、特別なことをする訳ではない。ビールを飲みながら、職場の噂話だの鉄道の話だのをグタグタと話し合うだけのことである。3人とも大人しい性分だから、過激な事態には至らない。まして、酒の勢いで「よし、夜の街に繰り出そう!」なんてことには絶対ならない。黙々と趣味談義をするだけである。

それでも、勝手の判っている人だけの集まりだから、気を遣わなくて済む。ひたすらビールを飲みながら、延々と「鉄」話を続けるのが目的だから、非常に精神衛生上よろしい。ビールとつまみを近所のスーパーで買ってくるだけが会費の全てなので、お財布にも優しい。

今年度から、私が職場の組(班)を勝手に変わってしまったので、少しご両人には時間調整をお願いしなければならないが、それぐらいのことで、あとは気兼ねなく駄弁り続ける宴会である。

私は一人住まいだから、普段家にいる時は喋る必要もない。と言うより、喋る相手がいないから喋っても仕方ない。勝手に独り言は言っているけれど、誰もいない家だから返事を返してくれる人がいる訳でもない。「一人暮らしは気儘でいいね」とよく言われるけれど、誰も返事をしてくれない暮らしというのも、結構鬱憤が溜まるものである。

それらの鬱憤も、この機会に全部話す。少なくとも私は、100%本音で語っている。お二人も多分そうだろうとは思う。

おっさんばかりが集まって、何が面白いのと思われる方もおられようが、私個人は大変楽しませてもらっている。いい人たちと知り合えたなと、嬉しい気持ちもある。

これからも多分、職場が崩壊しない限り、この会は怪しげに続いていくだろう。お蔭様で、私はかなり心がリフレッシュできる。

お二人に、感謝。

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2009年5月 8日 (金)

車内遺留品

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今日の話ではないが、バスの車内で遺留品があった。

終点に着いて、車内を一通り見回ったときに見つけたものである。

個人情報もあるからあまり詳しくは書けないが、携帯鞄で、中を調べると高額紙幣や本人のものと思われる免許証なども入っている。

遺留品にもランクがあって、傘や帽子程度のものだと、すぐには営業所に連絡しない。食事や仕事終わりで車庫に入庫した時に、報告がてら届け出る。でも、これには貴重品が含まれている。遺留品のランクから言えば「見つけ次第、営業所に連絡するべき」ものに相当する。

だが、この時は折り返しの時間が3分しか取っていなかった。到着したら、すぐ次の運行に向けて、お客の待つ停留所へバスをつけなければいけない時間である。まして私は携帯電話を持っていない。このような場合は、営業所への連絡が遅れても仕方がない。言い方は悪いけれど、忘れ物をしたお客さんが悪いのであって、バスの定時運行の方が優先順位は上になる。

遺留品は私の脇に大切に置き、折り返しのバスを定刻に発車させた。とは言うものの、これだけ大物の遺留品は、そう年に何度もあるものではない。いや、年に何度と云うより、何年振りかなと思うくらいの大物である。落とし主も、そろそろ気がついて、大いに焦っておられるに違いない。置き去りにされた鞄の方だって、さぞや不安な気持ちでいることだろう。

幸い、次に着いた終点では、営業所に電話する時間が十分あった。電話して私の氏名を告げると、「あ、ちょっと係に代わるね」と言われた。どうやら、もう既に落とし主から連絡があった様子だ。

遺留品の特徴や内容物などを連絡すると、やはり既に落とし主から問い合わせの電話があったとのこと。そして、たまたまその日運行している路線が、途中で車庫の前を通る路線であったため、「車庫前の停留所で、係を待機させておくよ。そこで、係にその遺留品を渡してやって」との指示があった。

次の運行で、指示通り、係に遺留品を渡し、これで私の「この遺留品に対する任務」は終了した。かなり重要な遺留品であったから、無事私の手を離れてホッとする。

その後、食事のために車庫へ戻ると、先程の係が「さっきの落し物、もう、本人が受け取りに来たよ。ご苦労さん。有難う」と言われた。免許証という最も本人確認に有効な品物が入っていたから、受け渡しもスムーズだっただろう。

単なる運ちゃん業ではあるけれど、こんな重要な任務も仕事の内だから、色々な面で「責任」が降りかかってくる。取り敢えずはその「責務」が果たせれて、ヤレヤレであった。

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2009年5月 7日 (木)

カーオーディオ「大」時代錯誤

自家用車を買い換えてから、かれこれではあるが、1ヶ月が過ぎようとしている。

取扱説明書も読まずに「習うより慣れろ」と唱えながら乗っているので、今でも新しい発見が結構あったりする。私の、ぞんざいな性格が、誠によく出ていますな。

そんな中で、結構使用頻度が高いものと言えば、カーオーディオかなと思う。運転中は大抵ラジオをつけている。野球放送など自分に興味のない放送が流れていれば、FMにチューナーを切り替える程度である。いや、「切り替える程度である」と書いてはいけない。先月まで乗っていた車ではそうだったのだが、今の車ではそうでないから「切り替える程度であった」と書かねば。

車が変わって5日くらいした時に、ちょっとカーステレオをなぶってみた。初めの内は何をどう押せば何がどう作動するかさっぱり判らなかったが、やっと最近ほぼ全容の解明に成功した。

まあ、折角なので、ちょっとブレているけれど、カーオーディオ部分の写真を貼ろう。

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以前乗っていた車が、平成9年に初年度登録していることを念頭においてこの先はお読み頂きたいのだが、カーステレオをじっくり見てショックだったのは、カセットテープを入れるところがなかったことだ。考えてみれば、もうカセットテープを使っている人なんて、世の中に何パーセントいるのって時代だけど、私はオーディオマニアとしてカセットも大切に使っていて、昨年9月には自室のステレオ用にわざわざカセットデッキを新調している(詳細は、昨年9月18日付の記事をご覧ください)。

そんな時代遅れの人間だから、カーオーディオにカセット再生装置がついていないことは、想定していなかった。また、安い車だから、カーオーディオにCD再生装置がついていることも想定していなかった。

だが、現実は、そういうことだったのだ。カセットは聴けないけど、CDは聴ける仕様になっていたのだ。

勿論、自室で聞くためのCDは、何枚も買っている。また別の記事の話になるけれど、自分でオリジナルCDを作ってさえいる。だから、CDに関して、自室ではあまり不自由は感じていなかった。

ところが思いもよらぬことに、カーステレオでCDが聴けると判ったので、早速1枚持っていって、聴きながら運転してみた。車は振動が激しいのに、音飛び一つせずにかかるCDには感心しましたなぁ。

自家用車に乗る時間はそう長くないことは以前書いた。でも、折角CDが聴けるなら、少し車にも積んでおこうと云う気になった。ただ、車は灼熱の太陽に晒されたり、真冬の厳冬に凍えたりもする。音楽店店頭で買った本物のCDを積んでしまったら、熱でCDの板そのものが破壊する恐れがある。

それで、先日、仕事帰りに近所の家電量販店へ赴き、『10枚パック¥548』のCD-Rを買ってきた。これに、よく聞くCDだけをコピーして、車に積んだままにしておこうと云う魂胆である。

パソコンを使えば、あっという間にCDコピーも作れてしまって、本当に便利な時代になったものだ。取り敢えずは6枚のコピーCDを作って、今は車内に積んである。で、ラジオがつまらない番組しか放送していない時は、それらのCDを楽しんでいる。

時代錯誤も甚だしいオジンであるが、そんな次第で、今の車ではより一層快適な車内を楽しんでいる。技術の進歩には、ほとほと感謝の念に堪えない、おさかなである。

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2009年5月 6日 (水)

新車のビフォー・アフター/第2バージョン

昨年度のバスの新車、と言っても我々の前に姿を現したのは昨年12月~今年3月にかけてなのであるが、これのビフォー・アフター第2弾である。ただ、これは、私が勝手にやってみたら、いつの間にか他の車も皆そういう風に変わっちゃっていたという話なのだが。

昨年度の新車から、運転席のバックシート上にヘッドレストがつくようになった。

これが、謂わば「ビフォー」状態。

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ヘッドレストをよく見て頂くとお判りかと思うが、かなり前傾している。

この前傾がちょうど、制帽の最上部の出っ張った部分(意味、判りますかね)に当たって、折角のヘッドレストは、あっと言う間に邪魔者扱いになった。人によっては、ヘッドレストが脱着可能なのをいいことに、ヘッドレストを引き抜いて運転する人も出る始末であった。実は私も当初、引き抜いて運転していた者の一人である。

ところがある日、新車に乗務して、いつもの様に邪魔なヘッドレストを引き抜いたところで、ふと気が付いた。「このヘッドレストを、前後逆さに取り付けたら、どうなるだろう?」。

早速やってみた。下の写真がそれで、謂わば「アフター」状態になる。

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かなり、ヘッドレストが後傾しているのがお判り頂けるだろう。この状態で運転席へ着帽のまま座ってみたら、帽子はヘッドレストに当たらない。ヘッドレストが邪魔にならないのだ。これは、しめたとばかり、私はそのままの状態で乗務し、乗務後もそのままにしておいた。

私の他にも同じことに気付いた人があったのかも知れない。1週間くらい後に、別の新車に乗務したら、もう既にヘッドレストは前後逆さに取り付けてあった。あ、同じことを気にしている人がいるんだなと思いつつ、ちょっと車庫を一周、見て回ったら、新車のヘッドレストは殆どの車がこの状態にしてあった。

思わず苦笑してしまった。やはり、皆、気にはなっていたのだ。でも、いい対処法が見つからず、取り外したままにしていただけなんだな、と。

以来、私の車庫では、前後逆さのヘッドレストが流行したままである。自分で発見したものだから先駆者のつもりでいるが、もっと早くに気付いていた人があったら、そこは申し訳ない次第で、お詫び申し上げる。

もう今では、当然のことながら他の車庫にも伝播していると思う。

愚鈍な私にしては珍しい機転であったと、今でも勝手に悦に入っている。

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2009年5月 3日 (日)

南大高駅・今昔物語

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「今更」の感はあるが、昨日に引き続きN市のTさんに大遅延コラボさせて頂く形で、南大高駅周辺の今昔を書こうと思う。

N市のTさんは、南大高駅開業の初日(3月14日)に駅へ行っておられて、3月22日に記事として書かれているが、私は昨日(5月2日)、名古屋駅近くに所用があったので、その序のような形で新装開業となった南大高を訪れることにした。あまりに遅延が酷いので、もはや「コラボ」なんて言葉を使うと、世間の方からビンタを喰らいそうではあるが、私も私で忙しくて中々ここへ赴く時間がなかったのだ。その点は、ご容赦を……頂けないでしょうなぁ。

さて、余談はともかくとして。

昨年の6月頃に、現在、駅がある所を東海道線の電車で通りかかったら、何やら工事をしている様子が車窓を掠めた。気配からして「新駅」を造っているなとはすぐに判ったけれど、通ったのが夜だったから、詳しい場所や周りの情景はよく判らなかった。

今回、初めて駅を訪れてみて、且つその周辺も眺めてみて、あまりの状況の激変振りに言葉が出なかった。何しろ、私が最後にこの辺りで東海道線の列車を撮影したのは、1983年のことだったと思う。25年以上経っていては変わっても当然だけれど、自分の脳ミソの古さ加減には、いつも呆れてしまう。

以下、昔の映像と現在の映像を比較しながら、話を進めようと思う。

私が初めてここで写真を撮影したのは、1981年まで遡る。神戸で行われる「ポートピア博覧会」にちなんで、当時はまだ「お召し牽引機」の指定を外されていなかったEF58 61が、14系客車を牽引する臨時列車があるというので、自転車を1時間こいで、ここまで出掛けたのだ。恥を忍んで当時の写真をご披露する(すっごく傾いてる・汗)。

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周りの工場や、カーブの加減などから推察すると、この列車が走っている場所が

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ほぼ、現在の南大高駅ホームの位置に相当するらしい。

現在では考えられないことだが、1981年当時、東海道線を走る列車には普通・快速を問わず、急行用の153・165系が当たり前のように充当されていた。113系を使う列車の方が珍しいくらいの時代だったのだ。同じ位置にての、165系快速列車・大垣行。

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同様に現在の新快速列車を、付近のショッピングセンターへの直通通路から撮影したので、それを掲載する。

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駅より僅かに南方になるが、大体、列車の走っている位置は同じ筈である。

この1981年の臨時列車撮影では、偶然と言うか、臨時列車とは逆方向の上り列車も「ついで」のような感じで撮影してある。2枚ほど、ご披露する。

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これはしっかり記録が残してあってEF58 155が牽引する荷物列車・2032レ。

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武豊線への直通列車が気動車であるのは、今も昔も変わらない。でも、この当時はキハ35系の充当が原則だった。ツートンカラーも残る3連は、940Dと記録帳にある。

この写真の向こうに、何かクレーン車のようなものの姿があるが、あの位置に当時は踏切が存在した。

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現在の、ほぼ同じ位置から撮影した上り列車。昔の道路跡や、周囲の池などから推察すると、この写真で貨物列車の先頭車がいる辺りが、昔の踏切の位置になるようだ。線路の築堤の左側が、急に右側へ折れている部分があるが、あれがどうも踏切跡のように思われる。

折角だから、ホームから撮影した上り列車の写真も付け加えておく(今は、ちゃんと傾かずに撮れるんだぞ)。

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こうして下から見ると、下り方面(名古屋寄り)はすぐに登り勾配になっているようだが、付近の線路の付け替え工事などの関係で、勾配のある位置が昔より少し南方(南大高駅寄り)へ移動しているように思われる。

今までご覧頂いた写真で、線路の西側(上り列車に対して右側)に、今も昔も余分なスペースがあるのにお気付き頂けただろうか。1981年当時の写真では、アスファルトが敷いてあるし、現在の写真では、余分な更地のようになっている。

現在の駅から見ると

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フェンスの向こう、線路が置いてあったりするスペースのことである。これは本来、「南方貨物線」といって、名古屋駅から南部を、貨物列車だけが迂回する路線を敷設する予定があったので、こんな不自然な空きスペースが残ってしまっているのだ。「南方貨物線」は、南大高駅より更に南の、共和駅で東海道本線に合流する予定であった。

逆に言えば、この空きスペースがあったからこそ、下り方には通過線も付け加えた「南大高駅」の設置が可能になったのだ。私の写真と同様で、昔のものが現在になってどんな形で生かされるかは、誰も予測がつかなかっただろうと思う。

「なるほどなぁ」との思いを残しながら、「N市のTさんのブログ」にあったバスターミナルを見ると、折りよくバスが一台停泊している。

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往路は当然、東海道線に乗ってきたが、帰路はこのバスに乗って帰ってみようと思う。

そう思いながら来たバスに乗り込むと、発車間際に一人の男性客が乗り込んできた。そしてその人に、「あれ、おさかなさん、こんな所で何してるんですか?」と声を掛けられた。見れば、某車庫の別会社委託化の犠牲になって、4月から他の営業所へ異動を余儀なくされた元同僚である。

最後は思わぬ人に出会いつつ、電車並びにバスオタクの南大高駅訪問は終わった。すっかり変わり果てた大高近辺の景色を目の当たりにしながら、大好きな中島みゆきさんの歌・『時代』の一節である「めぐるめぐるよ、時代は巡る」の歌詞が、私の頭の中でも駆け巡っていた。

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2009年5月 2日 (土)

1992年晩夏・木次線

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木次線は、山陰本線の宍道と芸備線の備後落合を結ぶ山間のローカル線である。嘗ては陰陽連絡急行「ちどり」などが走った時代もあるが、現在では山越えに時間がかかり、交換などでもチョコチョコ停まる同線はもはや高速バスの敵でもない。

1992年晩夏に訪れた当時の映像を振り返りたいと思う。

上の写真は、出雲坂根駅を出発する旧型ディーゼル・キハ52 128。同車は、大糸線のキハ52が塗装変更するまでは、「最後まで旧塗装を残した車両」として、全国的に有名だった。

出雲坂根と言えば、有名なのは3段式のスイッチバックだろう。現在では、定期的にこのスイッチバックを通る列車は3往復だけだが、近年、観光列車「奥出雲おろち号」が走るようになって、少し活気を取り戻した感がある。

下の3枚は、キハ52当時の上り列車・548Dの出雲坂根付近での映像である。

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山から下りてきたキハ52。この映像では判り難いが、ここの勾配はかなりきつい。

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坂を下りきって、出雲坂根駅で一息つく同列車。当時既にワンマン運転だったが、運転手の「エンド交換」はなく、窓から顔を出して下り坂をバックしていた。

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出雲坂根で再度向きを変え、宍道方面へ降りていく。この写真を見ると、右側のスイッチバック線がかなり急勾配であるのがお判り頂けると思う。

この出雲坂根では、もう一つ有名な名物、「延命水」がある。

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山からの自然の湧き水は、何年経っても涸れることがなく、現存しているのは喜ばしいことだ。湧き水だから飲用するのに料金が要る訳でもなく、格好の“土産”であろう。私も飲んでみたが、夏でも冷たく、そして湧き水独特の僅かな甘みがあって、大変ウマい水であった。

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この当時、既に木次線にもキハ120が入り始めており、スイッチバック越えする仕業も含めて旧型気動車を脅かす存在になっていた。出雲三成での、新旧列車の交換風景。

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また、当時はまだ木次線ではタブレットが現役であり、新型気動車には不似合いなタブレットキャリアの受け渡し風景も見られたものである。これも、出雲三成駅にて。

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地味な存在ではあったが、キハ52 128とキハ120で補えない仕業は、キハ53が担当していた。昼間時の出雲横田までの仕業の他、朝は学生輸送の増結車としても活躍していた。これらの車両は全てワンマン化改造を受けており、木次鉄道部に残っていたキハ52 651(神話塗装と呼ばれる独特の塗装をまとっていた)は、ワンマン運転に対応していないため、末期は殆ど使用されることはなかった。この写真は出雲三成~亀嵩にての、545D。

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木次線でのもう一つの名物、亀嵩(かめだけ)駅の「駅舎内にあるそば屋」。そば屋はちょうど写真の駅名標の裏、木枠の一升瓶の通い箱の向こう側にある。国鉄時代から、予め駅の店に電話しておけば、通りかかった列車に出前してくれるサービスは好評だ。私は行程の都合から、そば屋の店内で食したけれど、黒くて太目のそばは、歯ごたえもあって大変美味だった。

陰陽連絡の役目は、残念ながら完全に他に譲ってしまったけれど、スイッチバックや話題のそば屋などの活躍で、これからもローカル線としてでよいから生き延びて欲しい。「奥出雲おろち号」などの新しい目玉もあることだし、著者としてもお奨めのローカル線である。

尚、「木次線」として、N市のTさんにコラボさせて頂きました。

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