« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月

2009年2月27日 (金)

大型車と中型車

大型車

Dscn_4

中型車

Dscn_5

上下の写真を見比べて頂きたい。中型車の写真はノンステップ車のものなので、全く同一に論じるのはよろしくないかも知れないが、まあ、ノンステでもツーステでも、前扉付近の状況に大差がある訳ではない。

私達の職場のバスは、特殊な例外を除いて前扉から乗車し、中・後扉から降車してもらうことになっている。

つまり前扉付近の写真をわざわざ比較で出したのは、お客さんが乗る際に、どんな不都合が生じるかを書きたかったからだ。

最近、バスのお客の多くが高齢者である。朝夕のラッシュ時は一般の方の利用が当然多いけれど、特に昼間閑散時のお客は7~8割が高齢者の方である。で、別に高齢者が鬱陶しいとか、そんなことは書く気はないし、思いもしない。然し、高齢者の方々が最近乗られる際に、大きな“荷物”を付帯させる例が増えてきた。“荷物”は、手提げの荷物に限らない。特に書きたいのは、この頃よく目にする「キャリアーバッグ」と、歩行困難な方が使用される「歩行補助具」に関してである。

どちらも、床に接する荷物としては大きな面積を必要とする。と、ここまで読んで、今一度「中型車」の入り口の写真を見て頂きたいのだ。

入り口に大きな料金箱が飛び出してしまって、客室へ入るのにかなり狭い部分を通らなければいけない実態がご理解頂けると思う。特にキャリアーバッグには、色々物を詰め込む方も居られて、重たくなってしまっている場合もある。狭い部分だけは持ち上げて通ろうとするのだが、ご老人の力では持ち上げられないことが往々にしてある。

これは、乗務員としても甚だ都合が悪い。黙って、持ち上げられるまで傍観していたら、忽ち「不親切運転手」の烙印を押されて、営業所だの本所だのへ電話されてしまう。止むを得ないから、お手伝いをしようとするのだが、私たちは帽子掛けマイクを義務付けられている。だから、帽子を脱がなければ運転席から離れられない。また、当然シートベルトも外さなければならない。そんなことを愚図愚図しているうちに、他のお客が手伝ってしまうケースも多い。あまり体裁の良いことではない。

また、元々体の不自由な方が使われる「歩行補助具」にしても、入り口があれだけ狭いと脚が引っ掛かって中に入れないケースがある。これも同様、お手伝いしなければ仕方がない。

中型車や小型車は、最近、狭い道路に入れることや乗客需要の少ない路線に適しているとして、導入される機会が増えた。私達の職場では、名古屋と云う大都市ゆえに導入台数は少ないが、15年前には僅かな例外を除いて全て大型車で運行していたことを考えると、導入率は決して低くないと思う。燃費も大型車よりはよいから、導入効果がないとは言わない。

ただ、導入するならば実態をもっときめ細かく調べて、高齢者や障害者に、我々の手助けがなくとも乗れるような車内配置を考えて頂きたいのだ。

料金箱に関しては、今年中に全車がICカード対応の新しい料金箱への付け替えが計画されている(一部営業所では付け替え済)。まだゆっくりと見ていないので、現行のものより省スペースになるかどうかは判らない。チラッと見には、現行より少し小さめに見えるが。

私とて、今すぐに名案がある訳ではないけれど、そのためにデスクワークの方々も居られるのだから、言葉だけでなく本当に「全ての人に優しい」バスを考えて欲しい。実態も知らずにコスト軽減だけを考えるのが仕事と思うなら、その方々の考えはお改め頂きたい。

現場とその実態をもっともっと観察して欲しい。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年2月26日 (木)

キハ40・色彩図鑑

いつもコメントを下さるN市のTさんが、以前ご自分のブログでキハ40の各地の塗装をアップされていた。それで、今日はまた趣を変えて、私も気動車の各種塗装を図鑑的にアップしてみようと思う。

私も私なりに、国鉄型気動車が民営化後に各地で塗装変更されたものの映像を集めているが、全てをご紹介していたら大変な種類になってしまうから、私もキハ40限定としておく。また、同じ塗装が3両以下しかなく、この10年以内に撮影したものと、条件を絞ってのご紹介とする。変な言い方をすれば、N市のTさんに大遅延コラボしたと云うことになろうか。

***

Img40  

イラスト塗装・キタキツネ キハ40 724

旭川にて(許可を得てホーム下から撮影) 2002年5月 (この塗装現存せず)

Img40_2

イラスト塗装・カニ キハ40 741

釧路にて 1999年5月 (この塗装現存せず)

Img40_3

イラスト塗装・イカ キハ40 807

函館にて 2001年6月 (この塗装現存せず)

Img40_4

部分イラスト塗装・北海道の風物 キハ40 716

旭川にて 2002年5月 (この塗装現存しないものと思われる)

尚、部分イラスト塗装として、バラの花盛りをデザインした車両も見たことがあるが、こちらは旭川駅の7番ホームで夜間に見れただけなので、写真には撮れていない。

Img40_5

忍者ハットリ君塗装・ピンクベース キハ40 2136

高岡にて 2004年10月

Img40_6  

忍者ハットリ君塗装・ブルーベース キハ40 2135

高岡にて 2004年10月

忍者ハットリ君の塗装は、他にオレンジ色がベースになっものもあるようだが、これは残念ながら出会えていない。また、このハットリ君シリーズは、正式には「塗装」ではなく「ラッピング」である。

Img40_7

鬼太郎シリーズ塗装・鬼太郎 キハ40 2118

弓ヶ浜にて 2006年9月

鬼太郎塗装は、これが3代目になると思われる。

Img40_8

鬼太郎シリーズ塗装・ねこ娘 キハ40 2094

弓ヶ浜にて 2006年9月

Img40_9

鬼太郎シリーズ塗装・ねずみ男 キハ40 2114

弓ヶ浜にて 2006年9月

Img40_10

いさぶろう・しんぺい専用塗装 キハ40 2109

人吉にて 2005年11月

少々イレギュラーではあるが、キハ40には違いないのでアップした。尚、車両正面には「140DC」と書かれているが、車体の番号標記ではキハ140化はされておらず、上記の番号になっていた。

Img40_11

日南線専用塗装 キハ40 2097

南宮崎にて 2000年7月

Img40_12

NHK朝ドラPR塗装 キハ40 2069

南宮崎にて 2005年11月 (この塗装現存しないと思われる)

2004年9月~2005年3月まで放映されたNHKの朝ドラ「わかば」PRのために、施されたもの。放送終了からかなりの時間が経っているので、現存しない塗装だと思う。

おまけ・塗装そのものは珍しくないけれど。

Img4012

鉄道員ロケ用国鉄一般塗装 キハ40 748(キハ12 23)

旭川にて 2002年5月 (この車両、籍は現存せず)

言わずと知れた「ぽっぽや」ロケ用に、ヘンテコな形に改造されたキハ40。折角出会えたので、アップしておいた。

***

稚拙な映像が多いが、初めに書いた条件で出会えたキハ40は、これだけである。ほぼ網羅したつもりだが、他にも手落ちがあるかも知れない(加古川線のグリーンの塗装でも部分イラスト車両があったりした)。各種の塗装に詳しい方にご教授頂ければ、幸いだと思っている。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年2月25日 (水)

本当にご迷惑です

Dscn

この時期、巷のあちこちで行われる道路工事。言わずと知れた「年度末の予算消化のため」の殆ど無理矢理の工事が多く、その割には車線規制を堂々としてくれるから、渋滞の最大原因となる。言い方は荒いが、私たち道路を走ることを生業とする者にとっては、まるで敵のような事業である。

私は気が短いから、道路工事で渋滞していると、まず工事現場で働いている人たちを恨めしく思ってしまう。「何だ、こんな所で穴っぽこを掘りやがって」と云う具合に。でも、本来はこの人たちに怒りをぶつけても仕方ない。工事現場で働く人たちは、会社からの命令で命令された内容の仕事をしているに過ぎない。本来恨むべきは、不必要と言っていいくらいの工事を「しなさい」と、命令している親方(官庁やそれに関連する業者)だろう。

私たちが仕事で走る、とある路線のとある場所では、本当に毎年12月頃になると工事を始めて、3月末頃になると工事が終わる。毎年毎年同じ場所で工事をするのだ。

そもそも、ここは数年前に大々的なオーバーレーンをやって、舗装を綺麗に直した。ところが、翌年には暮れになるとショベルカーを持ってきて、また穴を掘り始めた。以後ずっと、年末頃になると同じことが繰り返されている。内容はその時々によって「電気工事」「ガス管工事」「水道工事」「排水溝工事」「歩道補修工事」……等々。これには心底「よく、そこまで工事のネタがありますね」と言ってあげたくなる。

そのオーバーレーンの時には“みぞゆう(未曾有・笑)”の大渋滞を起こしてやっと綺麗に舗装を直したのに、今や、そこの道路は凸凹だらけだ。勿論、今年度も現在工事中である。

また、こう云う言い方は多少傲慢かも知れないが、工事作業を指揮する人も、普通乗用車のことしか考えずに車線規制などをする例が多い。大型バスが通ることが判っているのに、普通乗用車に必要な分しか通れる車線を作らないから、私たちが行くと「こんな狭い所を、どうやって通り抜けるんだ」と思うような状態になっている。

堪忍ならない時は、クラクションを鳴らすしかない。本当に通れないのだから。すると慌ててガードマンらが飛んできて、ギリギリ一杯に通れるだけの車幅を作る。トラ柵やカラーコーンを一時的に隅に寄せるのだ。ところが、バスが通り過ぎるとまた元通りにしてしまう。終点に着いて戻ろうとその工事現場を通りかかると、また通れない車幅でカラーコーンが置いてある。またクラクションを鳴らす。またガードマンが飛んでくる。こんなことの延々繰り返し。少しは頭を使ってくださいよ、バス通りということぐらいは事前に知らされているのだから。

また、ガードマンも慣れた方ならいいけれど、経験の浅い人だと実に要領が悪い。所定の研修を受ければ比較的簡単にガードマンの職には就けるのだそうで、運悪く経験の浅いガードマンの工事現場に行き着いてしまうと、またぞろとんでもない渋滞が出来ている。はた迷惑この上ない。交通量の多い工事箇所には、せめて経験の長いガードマンを置いて欲しい。

気晴らしのためのブログだから、今日は書きたいようなことを勝手に書かせて頂いた。でも、決して脚色はしていない。事実を淡々と書いただけのことである。異議がある方はコメントして頂いても構わないけれど、炎上だけは堪忍してくださいね。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年2月24日 (火)

ケチか美徳か

Dscn

いつものように小さい写真なので判り辛いかとも思うけれど、ゴミの入った袋の写真である。ゴミの写真をわざわざアップする人間も珍しいでしょうなぁ。

本題はゴミにあるのではなく、その外側のゴミ袋なのであるが。

ブルーの文字で印刷されているこのゴミ袋、名古屋市ご在住の方ならご存知の向きも多いと思われるが、名古屋市指定の「資源ごみ」回収用ゴミ袋なのである。これは、小さい20リットルタイプのもの。紙資源ゴミとプラスチック資源ゴミは、この袋で出す。

2005年に「環境万博」とさえ言われた『愛・地球博』が開催されるに当たって、名古屋市はゴミの徹底分別化を決めた。そのお陰で、こんな再資源専用のゴミ袋もあるのだ。私の住んでいる辺りは、毎週火曜日が資源ごみの回収日で、昨晩の内にこのゴミ袋を出そうかとも思ったのだが、まだゴミをぎゅっと押し詰めれば、もう一週間分くらいのゴミは入りそうなので、出すのをやめた。一人暮らしだから、出るゴミの量もコンパクトなのだ。

名古屋人はケチだと言われるけれど、私に関して言えば大いに当たっている。

このゴミ袋も、50袋が一纏めになったものを幾許かの金額でスーパーなどで買わなければならない。だから、あまり無駄遣いしたくないのだ。ゴミ袋でさえケチるのだから、ケチと言っていいと自分では思っている。

でも、違う言い方をすれば、1つの袋を大事に使うとの見方も出来る訳で、そうなるとこの「ケチ」が「美徳」に昇華してくる。そもそも、ゴミとして捨てられるものを再資源化しようとするためのゴミ袋なのだから、使われるゴミ袋の数も少ない方が好ましいだろう。スカスカの状態でも1袋のゴミ、ぎゅう詰めにした状態でも1袋のゴミなのだ。

かような次第で、私はいつもぎゅう詰めになるまで、資源ごみを出しに行かない。これをケチと見るか、美徳と見るか、勿論各々のご勝手ではある。

ただ、よくよく考えてみると、ケチと美徳も表裏一体なんですな。っと、ゴミ袋一つで大層な考察をしてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月21日 (土)

昨冬渡道のアルバムから(石勝線編)

過日、昨冬渡道時に撮影したものから千歳・室蘭線の映像をご紹介したが、今日は続編で石勝線の映像を5枚ご紹介する。

Img1

気温の低い日だった。夕張の駅へ進入してくるこの日3本目の下り列車。本来なら隣の鹿ノ谷まで歩こうと思っていたのだが、雪は止まないし寒さに凍えるしで、結局夕張の駅でこの列車の進入を待つことになった。手前の発車合図灯に積もる雪からも、この日の降雪状況がお判り頂けるかと思う。

Img2

夕張駅に停まる、この日3本目の上り列車。顔面にしっかり雪がこびりついて、寒さが思い起こされる。夕張の駅はご存知の向きも多いと思うが、JR発足当初よりかなり手前に移動している。昔の地図と見比べてみると、1キロ以上鹿ノ谷寄りに移設されているのが判る。今では駅の横にリゾート施設の「Mt.レースイリゾート」が、でんと構えている。然し、JRを利用してこの施設へ来る人は極めて稀なようで、JRとしても当てが外れているといえるだろう。

Img3

清水沢の駅舎内で撮ったもの。嘗ては三菱石炭鉱業・大夕張線の始発駅として名を馳せた駅だが、それが廃線となってからは駅も無人化され、何とも寂しい駅になった。沿線を擁する夕張市が多大な赤字財政に陥って、全国から支援の声が上がっているのもご承知の通り。無人駅となっても、「頑張れ夕張!!」のシールは各駅に貼られていた。私は具体的に何もしてあげられないが、せめて石勝線・夕張支線に乗車して、同線活性化のお力添えになればと思っている。

Img4

清水沢から南清水沢の間は、駅間距離も短いので歩いてみた。線路に沿う地方道は、それでもある程度の交通量があり、狭く且つ雪に埋もれた歩道を歩いていると、もっと隅に寄れと言わんばかりの車に圧倒されてしまったものだ。道路がちょっと登り加減になった所で三脚をセットして列車を待っていたら、お婆さんが通りかかり「ご苦労様です」と言われた。別に仕事ではないのだが。

Img5

これだけは、石勝線の本線の方の映像。追分で室蘭本線から別れ、右にカーブを切るところを国道の陸橋上から撮影した。名称は同じ「石勝線」でも、こちらの本線は道東へ向かう特急や貨物なども通るメインロードとなっているから、1時間もいれば何らかの写真は撮れる。これも、釧路へ向かう特急の「スーパーおおぞら」。因みに画面に白っぽい小さな点が散見するのは、フィルムの埃ではなく、降っている雪に西日が反射して見えているものである。

石勝線は、駅間距離の長いところが多いから、歩いて写真を撮る者にとっては正直言って都合が悪い。また山間部に入ると、冬季はいいが、暖かい時期は熊が出没するので、冗談抜きで命がけの撮影になってしまう。私には、撮影の難しい線だと思う。

そんな次第で、いつもにもましてお粗末な映像しかないけれど、ご了承くだされ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年2月20日 (金)

赤坂線・新垂井駅跡プチ撮影結果ご紹介

今週は夜遅くまでの勤務が多く、早く帰られる日には夜に用事が出来てしまうなどして、思うように時間が取れなかった。撮影から少々日が経ってしまったけれど、1週間前のプチ旅行の出来を、少しばかりご紹介しようと思う。

Img1

通称・赤坂線の終点、美濃赤坂の情景。二十数年前にここへ出かけた時は、折り返しの列車ですぐに戻ってしまったから、ホームの外に出たのは初めてになる。終着駅らしいこじんまりとした景色は好感が持てる。停まる電車が313系でも、何となく時代に取り残された昭和っぽさを感じるのは私だけだろうか。因みに、この写真を撮っている私の右後方に、石灰石を運んでいる西濃鉄道の本社社屋がある。

Img2

紀行文の方でお尻だけをお見せした朝の上り貨物・5780レの先頭側。今書いた、西濃鉄道の小さな機関車から石灰石を満載した貨車を引き継いで、東海道線の本線に乗り入れ、名古屋市南部の笠寺駅まで運ばれる。貨車は笠寺から更に名古屋臨海鉄道に入り、東港まで旅する。意外にも編成は長く、20両以上つないでいたことは確かだ。

Img3

ここからは、新垂井駅跡の映像。紀行文でも書いたかと思うが、駅舎跡と思われる唯一の痕跡だ。駅舎が木造だったか鉄筋だったかも判らないので、これが「駅舎跡」と断言は出来ないが、ホーム跡や駅への入り口跡から察するに、この辺りに駅舎があって然るべきと思われる場所に残っていた痕跡である。

Img4

新垂井駅ホームから望んだ、下り専用線(こちらを通称で「新垂井線」と呼ぶのが正当だそうな)。ホーム側のバラストが直線状に錆色になっており、こちら側にも嘗ては線路が敷かれていたのだろうと容易に察しがつく。右側の標識は停止目標位置の標識に見えるが、現在の新垂井は信号所としての役割もしていないから、何を意味する標識なのかよく判らない。

Img5

駅跡の東側の部分を通過する、特急の「しらさぎ7号」。木製の柵やホーム跡の植樹を見ていると、現存駅を通過列車が通過しているだけと言われても判別がつかない。それ程、昔日の面影は残ったままになっている。付近には民家もある程度存在するが、廃駅時には「廃駅反対運動」も別に起こらなかったそうである。

Img6

そろそろ帰ろうとカメラをしまいかけていたら、時刻表に列車のない時間に踏切がなり始め、慌てて構えて撮ったもの。方向幕は「試運転」となっていて、全くの偶然で臨時の運用に出会えたらしい。313系がここを通るのは、回送か試運転の時しか考えられないから、こんな姿を見られたのは僥倖だった。

Img7

これは、オマケ。新垂井駅から東方へ歩いた辺りでの撮影。紀行文で「左側の一本の木を上手く処理しないと、中途半端な貨物列車の写真になる」と書いたが、これがその「中途半端の悪い例」。これ以上ワイドで撮ると、右側が踏み切りで切断されるし、はっきり言ってかなり苦しい場所だ。ただ線路にもっと寄って、件の木が視界に入らないところに陣どれば、「しらさぎ」など、10両程度の編成の列車なら撮れると思う。

ここ暫く、自分の体調も優れないし、また今回は「駅跡」を偲びたいとの思いが強かったから、それ程写真は力を入れて撮っていない。駅跡の状況がお判り頂ければ、それでいいと思っている。そんな、プチ旅行のフィルムからのご紹介でありました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月19日 (木)

お駄賃

Dscn

今日の話ではない。数日前のこと。

中型バスで運行するような、ローカルっぽい路線を担当していた日の話である。起点は都心のターミナルだが、徐々にお客が減っていき、終点間近ではお客が一人残っていれば立派なほう、と云うような路線が私たちの担当路線にもある。

そこを先日担当した。夕方ではあったけれど、案の定お客は少なく、終点に近付くとおばさんのお客が一人残るだけの状態になった。どこで降りられるかなと思いながら、案内放送を流して走り続けていると、終点の一つ手前で押しボタンが押された。

いつものように「ご利用有難うございました。○○です」と車を停めると、おばさんはつかつかと運転席へやって来て、「お疲れ様です。これ、よろしければどうぞ」とあめ玉を2つ置いていかれた。「あ、これは済みません、有難うございます」と言う頃には、おばさんはもうバスからそそくさと降りていた。

お客様から物を頂いたことは初めてではない。少々前になるが、昨年8月28日の記事でもお客様から葉書を頂いたことを書いている。その他にも、アクセサリーのような小物とか、ちょっとした食べ物など降り際に置いていかれる方が今までにはあった。

私は、決められた料金を頂いて、無事にお客様の目的地に着けて苦言などを呈されなければ、それでギブアンドテイク、善しだと思っている。ここまで丁寧にされると却って恐縮してしまう。

まあ、それでも物を下さった方は、私のバスに乗ったことで何らかの感謝の気持ちを表したかったのだろう。今時そんな丁寧な方は中々いないが、「お気持ち」として結局は有難く頂戴し、現在は魚澄庵の食糧備蓄庫に収まっている。

たまには、こんなこともあるもんだと、駄賃でも頂いたような気分であった。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年2月15日 (日)

ワンクリックで大迷惑

Dscn_2

自分のバカさ加減を暴露するような記事になるけれども。

昨年の夏頃、どう云う次第か迷惑メールが毎日5通程度送られるようになった。内容は言わずと知れた、アダルトサイト関連である。私はバカでもあるが賢くもあるので、鬱陶しい思いをしながら「送信者を禁止する」リストに入れ、一々削除していた。(これだけで済めば、「賢い」に分類される。)

然し、色々なアドレスから3ヶ月以上に亘って迷惑メールが送られるにつれ、一体こいつらは何を送りつけようとしているのかと思い始めた(この辺りから、愚か者に移行し始める)。それで、とある日にその内の一通の「入り口はこちら」と書かれたアドレスをクリックしてみた(ああ、もう完全にバカだ)。

すると、ケバケバしい画面と共に「あなたには○○円が課金されました」の文字が現れた。因みに金額は、10万円余の額である。あーあ、俗に言う「椀栗」かと思い、すぐに画面を閉じた。

すぐにでも請求メールが来るかと思っていたが、2ヶ月くらいは何も音沙汰がなかった。それで私も、「椀栗」のことは忘れていた。

はっきり覚えていないが、それから2ヶ月ちょっと経った頃から、いきなり料金請求のメールがほぼ1時間おきに届くようになった。ただ、この送り主は幸い同じアドレスかららしく、一旦迷惑メールに振り分けておいたらずっとそちらに入っていくだけだった。

実は私たちの職場では、過去にメールではなく葉書で、ネットをやっている大多数の個人に宛てて、訳の判らない料金請求を送りつけられたことがあった。その時に、組合支部と地元警察の名で「絶対相手にしないように」との掲示も出されたのだ。その経験から、私はいつも料金請求メールを自動削除するだけで、別段相手にもしなかった。ただ、どんなことを書いているのか、面白半分にそれらのメールを読んでみたことは4~5回ある。

それによると、当初は10万程度だった請求金額が、「悪質入会者」に該当するからとて15万程度になっていて、更に放っておくと「違約金も含めて」30万までアップしていた。

バカだったおさかなは再び賢くなり、これらの無視を貫いた。別件でも経験があるからだが(アダルトサイトではない)、相手は私のアドレスやIPアドレス・ネット環境などを知っていても、それ以上の情報はプロバイダがへまをしない限り判りようがないのだ。迷惑メールは本当に鬱陶しかったが、ともかくひたすら無視を貫くしかない。何か次の接触を試みた時点で、こちらの負けになるのだ。

冬になる頃、とうとうメール件名が「最終和解勧告」となって、「最終和解金として、5万円余でいい」から振り込んでくれと書いてあった。あまりに無視され続けたので、一気に請求金額は6分の1になった。流石にここまで来ると、哀れみを感じるねぇ。勿論、払いはしないけど。

そして、それを無視して1週間あまり経つと、件名が「裁判所へ少額訴訟手続きに入りました」となっていた。訴訟と言ったところで、相手の住所氏名も判らないのに、どうやって訴訟するのだろう。私は腹を抱えて笑ってしまった。そして、迷惑メールはそれが最後になった。「訴訟手続き」から4ヶ月以上経つが、当然どこの裁判所からも何も書面は届かない。

ネットを始めて日が浅い方なら、「IPアドレス」とか「ネット環境」とかを突きつけられると慌ててしまうだろうと思う。自分だって、ネット経験が浅ければどうしていたか判らない。振込みはしないだろうが、警察に電話相談くらいはしただろう。それでも不安に慄いていたかも知れない。

幸いと云うか、ネットを始めて9年くらいになるのかな、色々経験してきた。実害はないけれど、おろおろしたこともあった。それだけ判っているつもりでも、ついついスパムメールをクリックしたばかりに、半年弱、迷惑メールを送り続けられる羽目になった(やっぱりバカだ)。

今回の椀栗業者さんは、送った相手が悪かったばかりに、大変なご損をなさったようだ。

但し、セオリーを破ると『自分が迷惑を被る』見本のような出来事ではあった。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年2月14日 (土)

ズボラなれども

Dscn

バックに「鉄」関連グッズなどが色々見えるが、今日の記事はそちらではなくて、手前の三脚の話。

私は自分でも自慢できるくらいのズボラ者である。座右の銘は「努力と勉強大嫌い」と称し、キチンとすることを悉く省いている。子供の頃、親が部屋の整理などに関して異常な程やかましかったから、その反動だろうと思う。

そんなズボラ表彰状モノの私が意外にもマメにやっていることが、写真関連用品の手入れだ。

特に気を遣っているのが写真に写っている三脚。もう10年以上お世話になっている、カーボン製のものである。当時としては値段もそこそこだった。然し、値段云々が手入れの理由ではない。

買って間もない頃、雨降りの日に使った後で手入れを怠っていたら、エライ目に遭ったのだ。脚を伸ばす部分はグリップを回して高さを調整するタイプのものだけれど、雨の汚水で汚れたまま三脚バックに入れておいたら、次に使おうとした時、グリップが全く動かなくなっていた。汚水の成分が糊の役割を果たし、カチンコチンに“接着”されていたのである。

撮影現場で四苦八苦してみたが、一本だけとうとう脚が出せれなかった。私はISO感度100のフィルムで撮影するのが常だから、200mm以上の望遠レンズを用いる時はどうしても三脚のお世話になる。泊りがけで出掛けた初日のことだったから、その日はとうとう三脚を使えずじまいで過ごした。

泊まっているホテルの浴室で動かなくなった脚のグリップ部分を水に浸し、暫くしてやっと動くようになった。これが元で、この三脚はマメに手入れしないと大変な目に遭うことを思い知ったのだ。上手い言葉が浮かばないが、「百聞は一見にしかず」に似通った部分があるような気がする。

これ以来、撮影旅行から戻ると必ず、三脚の脚の部分は綺麗に濡れ雑巾で拭くようにしている。拭いてすぐ脚をしまうと、またくっついてしまう恐れがあるから、乾燥するまでそのまま置いておく。ついで、と言っては何だが、脚の先端のゴムの部分が一番汚れるのだから、ここも丹念に拭く。使い方は乱暴なのでキズまるけになっているが、可動部の作動は良好である。

勿論、三脚以外に肝心なカメラやレンズもある訳で、これらもレンズ用の布で丁寧に拭いたり、カメラ本体は比較的細かい単位でメンテナンスに出すように心がけている。

これだけマメな精神を、仕事や日常生活で遣うようになれば、もう少しはマシな人間になるだろうなあ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年2月13日 (金)

赤坂線と新垂井駅跡プチ紀行

東海道本線を大垣から西へ向かうと、途中で線路が3つに分岐する。この内の一つが、通称「赤坂線」で、東海道本線を名乗るものの、JRとしての実際の営業区間は「大垣~美濃赤坂」の僅か3.4キロである。

いまひとつは東海道本線の嘗ての下り専用本線で、区間としては「大垣~関ヶ原」ということになる。この下り専用本線の途中に、以前「新垂井」を名乗る駅が存在した。同僚に教えてもらったり自分で調べたりした結果、1986年11月1日の国鉄(当時)ダイヤ改正で廃駅となっているらしい。

廃駅から22年余りも経つ新垂井駅跡を訪ねてみたくなり、有休を取ってあった今日、出掛けてみた。また、その前に「赤坂線」を走る一日2往復の定期貨物列車を撮影したくて、赤坂線にも寄ってみた。

自宅近くを朝一番に通るバスで地下鉄駅に出て、名古屋駅まで向かう。まずは「赤坂線」の貨物を先に撮ろうと云う魂胆だ。一日2往復とは言え、写真を撮影できる時間帯を走る列車は実質上り・下り各1本で、昼過ぎから雨の天気予報の今日は、朝9時過ぎの下り列車が唯一のチャンスになる。これの撮影に間に合わせるために時間を逆算すると、朝一番のバスに乗らざるを得ないのだ。

大垣から「赤坂線」に乗り換えて、終点の美濃赤坂には8時10分着。国鉄全線完乗のためにここまで乗りに来たのは、昭和58年9月のことだった。もう25年以上の歳月が流れている。駅の様相も変わっていて、貨物線が敷き詰められていた構内は、かなり隙間が目立つ。この美濃赤坂駅から、昭和58年当時は、私鉄の「西濃鉄道」が石灰石を運ぶために双方向に路線を走らせていた。その内一方の西方へ向かう線は、廃線となっている。撮影地へ向かう途中で

Dscn

その廃線跡を跨ぐ。

「赤坂線」は民家の間を抜けるように走る線で、写真が撮れそうなのは美濃赤坂駅から歩いて10分ほど大垣方面へ戻った辺りだけのようだ。線路脇を戻りながら歩くうちに、ズボンがくっつき草の種まるけになっていた。くっつき草に用心しながら、撮影ポイントを定め、三脚を立てる。

肝心の下り貨物列車は、生き残っている方の西濃鉄道線で運ばれた石灰石の貨車を、美濃赤坂駅でJRの機関車が引き継いで、9時12分に発車する。ズボンのくっつき草を取ったりしているうちに、機関車の汽笛が向こうから聞こえてきた。

Dscn_2

先頭方の写真はフィルムカメラで撮っているので、今日はデジカメで撮ったオケツの部分の写真だけアップしておく。

さて、これで「赤坂線」の用事は済んだ。9時30分の列車で一旦大垣駅へ戻り、ここから米原行きの列車に乗り継ぎ、一駅乗っただけの垂井駅で降りる予定だ。その「一駅」のための列車は、思いがけぬことに特急用車両が使われていた。設備は急行用車両とさして変わらないので、この車両を使った特急を私たちは「ぼったくり特急(高い特急料金をぼったくるので)」と呼んでいるが、普通列車として使われるとなると妙に得した気分になる。

Dscn213f373

人間の心理とは勝手なものだなと思う。とまれ、大垣発9時42分の「213F列車」は特急型車両を使うので、鉄道ファンの皆さんは是非ご乗車して、得な気分を味わって頂きたい。

余談に走ったが、垂井駅で降り、新垂井駅跡までは少し距離があるので奮発してタクシーを使う。同僚の話では「地元のタクシーならすぐ連れて行ってくれるよ」だったが、私が目的地を告げると、運転手氏からの言葉は「私、新米でして、よく判らないのですが、地図か何かお持ちでしょうか?」だった。幸い、駅周辺の集落名と持参の地図の知識を話すと「大体見当はつきました」と走り出してくれた。

新米運転手氏の見当は中々のもので、迷うことなく今日の本命・新垂井駅跡へ着くことができた。折角の本命なので、ちょっとだけ大きめの写真で、駅跡の写真をご覧に入れる。

Dscn_3

同僚が教えてくれた通り、ホーム跡に面した乗降線は外されており、通過用の線路だけが一直線に伸びていた。この線は、現在でも下り列車用として使われており、垂井駅に停車しない貨物列車や特急列車、その他回送列車などがここを通る。駅舎の跡は見当たらないが、ホームを辿って行くと、それらしきコンクリートの土台だけ残っていた。

折角ここまで来たので、少し駅の東方へ歩いて行き、田園地帯を走る列車の写真も撮った。ただ、下りの貨物や特急などしか通らないから、通過列車の本数は極端に少ない。3時間ほどこの辺りにいたけれど、撮影できた列車は僅か5本である。因みに、駅東方の田園地帯の風景。

Dscn_4

電線みたいのが画面左から右に延びているのがお判りかと思うが、これが件の下り専用線である。更に親切(?)に撮影地ガイドをしておくと、画面左の1本の立ち木が結構障害になってしまうので、これを上手く処理しないと、列車が途中で途切れた写真になってしまう。

まあ、そんなこんなで、22年もの昔に廃駅となった辺りをぶらついてみた。垂井駅からタクシーを使うと結構な額が飛んでしまうが、一日3便ながら垂井町の巡回バスが、垂井駅を起点に走っている(土日祝は運休)。これをうまく使えば、案外安上がりに旧駅探訪が楽しめるかと思う。

私は、往きのタクシー運転手に3時間くらいあとで同じ所へ迎えに来てもらうように頼んでおいた。時間は限定されてしまったが、それでも降りたことのない嘗ての駅の探訪が出来て、それなりに面白かった。

普段の撮影旅行に比べると随分な「プチ旅」だが、それだからこそ魚澄庵には16時前に戻ってこれた。体も疲れ気味なので、こう云う時に頃合の「お出掛け」であったと思う。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年2月 9日 (月)

職場旅行2日目

息抜きの職員旅行のカテゴリーを「仕事」とするのも抵抗があるけれど、他に良いカテゴリーが思い浮かばないから、こういうことにしておく。

昨日(2月8日)は夜の宴会がメインだったから、それさえ済ませればよろしいということで。まあでも、幹事役の組長・副組長さんは本当に大変だったと思う。ご苦労様と心から申し上げたい。

今回は、貸切バスでの旅程ではなく、新幹線・湖西線経由で雄琴温泉まで行った。帰路も鉄道利用だが、2日目は自由に過ごした方がよかろうとの計らいで、ホテルで朝食後そのまま解散となってしまった。私は新幹線で帰りたくないので、一人だけ新幹線の券は渡されず、それと同額の現金を受け取る。自分で切符を買い、鈍行列車で帰りたいと申し出ておいたのだ。

宿のマイクロバスでJRの駅まで送ってもらい、まずは湖西線で京都へ出る。反対ホームに

Dscn2117

たまたまこんな色違い編成の117系が来た。早速同僚に「何故色違いなのだ」と聞かれるが、鉄道に興味が薄い人にこの事情を簡潔に説明するのは難しい。適当に言葉を濁す。

10時半頃京都に着き、私は何も予定は考えていない。ただ、折角京都まで来たので、1ヶ所くらいは観光もしたい。仲の良い同僚7人が清水寺へ行こうと言うので、付和雷同とする。京都の市営バスなら乗り換えなしでいける路線があるから、それに乗る。乗っていると

Dscn2

「ゴジョウザカ」と風情のある名のバス停を通る。いい地名だねなんて言っていたら、親切なバスの運転手氏が「清水寺はここでお降り下さい」と言う。慌てて荷物を抱えてバスを降りる。

土産物屋の並ぶダラダラ坂を登る内に、目指す本堂が見えてきた。普段の自分の旅行では物見遊山などしないので、久し振りに「拝観料」なんかを払って境内へ入る。

Dscn2_2

朱塗りの建物を見ただけでも、来た甲斐があるように思える。ゆっくり拝観しているつもりだったが、いつの間にやらもう一人の友人と私だけになってしまい、あとの6人はまだ遥か後ろにいるらしい。友人がケータイで連絡を取ってくれる。

この友人は私同様、よくお酒を飲む。拝観は程々でいいから、ビールが欲しくなってきましたね、などと意見が一致し、二人は1時間程度で寺の出口へ向かい始める。途中で見た、清水の舞台の足組み。

Dscn2_3

築後何年か知らないが、立派に櫓を組んであるものである。この足組みを見るともう拝観出口だ。すぐのところに蕎麦屋があり、「ビール」の文字もあるので、二人で早々に入る。再び友人がケータイで連絡を取ってくれる。

暫く二人で飲む内、やっと他の6人も店に入ってきて、また喋りながらバカ笑いをする。仕事を忘れると、本当にいいメンバーだなと思う。でも、4月からは私たちの組(班)はかなりの人数が恣意で組の移動をする。実は私もだ。理由はここでは書かないが、この組を離れてしまうのが勿体無い気もする。

さて、バカ話にも区切りをつけ、他の7人はこれから二条城へ向かうと言う。時間は既に午後1時過ぎで、鈍行組の私だけはここで失敬することにする。どうもやはり、長時間の物見遊山は体質に合わない。

一人で京都駅行きのバスに乗り、駅へ着いたのが13時45分くらいだった。次の名古屋方面へ向かう鈍行は

Dscn2_4

14時06分とのこと。これだと、米原・大垣で乗り換え、名古屋には16時40分に到着の予定である。いつもの旅行と同じ気分に戻り、やって来た普通電車に乗り込む。

乗ると10分もしない内にビールが利いて眠くなってきた。窓枠に肘をついてウトウトしていたら、野洲の駅を過ぎたところだった。20分以上寝ていたらしい。もうすっかり自分のペースである。

その後の乗換えなども予定通りに進み、名古屋にも予定通りの時間に帰ってきた。あとの7人はどうしているかなと思いながら、急に疲れを覚える。2日間笑い過ぎたので、体力を消耗したようだ。まあ、大変健康的な体力消耗ではあったようだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

宴会

デジカメで撮っていないので、画像はないけれど。

職場の宴会で久々に大騒ぎした。普段は大人しくしているおさかなであるが、声が涸れるまで飲んで騒いだ。こんなことは、何年ぶりかなというくらい。ただ、本当に声をからしたので、カラオケで歌ったらまるで歌になっていなかったのは、我乍ら不様だった。

まあ、無礼講を前提にしているから、いいじゃないかとも思う。たまにはこう云うバカ騒ぎをして、ガスを抜き、命の洗濯をしなきゃ。

飲んで笑わせてくれた皆さん、ありがとう。

もうちょっとの辛抱のためのパワーを、充電させてもらったように思う。

明日は明日で何か書くと思うけれど、取り敢えず2月8日の延長で、これだけ書いておきます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月 7日 (土)

昨冬渡道のアルバムから(千歳・室蘭線編)

昨年の冬は、今冬ほど職場の状態が酷くなかったようで、僅か4泊(車中も含む)ながら渡道をしている。その時に撮り集めた写真の中から、千歳線と室蘭本線(非電化部)の写真を4枚だけだがご紹介したいと思う。

Img1twl

雑な撮り方だが、三脚を構えて準備している内に列車が来てしまったと云う情けないカット。上野幌の駅から北広島方を向いて、逆光覚悟でトワイライトを撮った。昨年は今年ほど暖冬ではなかったようで、線路際の雪も一応舞い上がっている。

Img1

これも上野幌のホームからだが、反対の新札幌方面を向けて撮ったもの。除雪作業のおっちゃんがいたので、そのお二人にピントを合わせてある。写真を小さくしてしまうと判り辛いが、ちゃんと列車に向かって接近了解の挙手をしている。この暫くあとで、お二人がホームへやって来て「いい電車の写真は撮れたかい?」と聞かれた時には、返答に困った。この写真のメインは電車ではなく、おっちゃんたちそのものだったから(汗)。

Img1_2

最後まで旅客SLが残った、室蘭線の非電化部分。本来はここをメインに撮りたかったのだが、列車本数の都合でマトモな写真はこれ1枚しかない。それも降り頻る雪に白い列車が吸い込まれてしまいそうな映像だ。安平駅から20分程度追分方面へ歩いた辺りで撮っている。

Img1ap789

これはちょっとインチキして、「鉄道写真攻略本」で紹介されていた場所のもの。雪のシーズンは足を踏み入れられる範囲が限定されるから、どうしてもこう云うものに頼らざるを得ない。場所は上野幌駅から少し北広島方へ歩いたところ、旧千歳線跡のサイクリングロード脇から撮っている。この頃活躍を始めたばかりの789系による、スーパーカムイ~直通のエアポート号。

他にも何枚か写真はあるが、他の方々に直接ご紹介してしまったものなどもあるので、今回はこれだけに留めたい。ただ、何れにせよこの時は、仕事で疲れていてあまり撮影意欲もなく、折角北海道まで行ったのに不出来なものが多かった。

この時は石勝線も訪ねているので、機会があれば、また後日ご紹介したいと思う。

***

さて、明日・明後日は職場の職員旅行でお出掛けとなる。先日ここでご紹介した「超デカイ携帯」ことミニPCも携えていくが、メインは晩の宴会なので、それで飲んだくれて酔いつぶれてしまえば明日の記事の投稿はない。どうなることやら自分でも全く判らないが、ともあれ折角の機会だから楽しんでくるつもりである。

では、今宵は是にて了。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月 6日 (金)

啓蟄はまだなんだけど……

Dscn

昨日、魚澄庵へ帰ってきて、玄関を開けようとしたら張り付いていた虫。

皆様ご存知のウスバカゲロウである。

ここ数日の名古屋は暖かく、最高気温が13度を超えている。それで、どうやらコイツもノコノコと出てきてしまったものらしい。啓蟄は3月5日だから、かなりの慌て者と見える。

例の如く一人上手になってしまい、貴奴に話しかけてしまった。

「こりゃ、お前、まだ寒いだろ」。

無返答(当たり前だ)。

「こんな所にくっついていたって何の得にもならないゾ」。

またまた無返答。

「明日の朝は冷えるって言ってたよ。お前、いっそ家の中に入ってくるか?」

やっぱり無返答。

「俺は寒いから、家に入っちゃうよ。後は知らないから」。

そう言えば、私の好きな作家・北杜夫さんの「マンボウ」もののエッセイに、この虫は『薄馬鹿下郎』と書かれていたことがある。何となくそれを思い出した。

いくら暖かいとは言え、日の出前の最低気温は3度くらいまで下がる。虫が活動するにはいかにも低温だ。魚澄庵庵主は相当なおっちょこちょいだが、ここに暮らす虫たちも庵主に似るものらしい。

すっかり忘れて、今朝、出勤しようと玄関へ行くと、まだ同じところにくっついているヤツの姿がガラス越しに見えた。根性と忍耐力は、庵主より遥かに上のようであった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月 4日 (水)

あにばーさりー

Dscn

本日2月4日を以って、私は現在の職場への正職員採用から15年を迎えた。

2月4日とは随分中途半端な日にちであるが、私は見習い中に大チョンボがあったため、他の同期の仲間より3日後に正規の採用となった。それで、こんな日にちなのである。

何にせよ、また一つの節目となる歳月を迎えた。

でも、決して平坦な道ではなかった。いや、今現在、かなりのデコボコ道の真っ最中だ。辞めようと思ったことも何度あったか知れない。それでも、同僚に支えられ、先輩に励まされ、後輩に元気を与えられ、何とかここまでやってこれた。

職場の内外を問わず、仕事に対して私に関わったすべての方々にお礼を申し上げたい。

「皆様のお蔭で、15年と云う歳月を務めさせて頂きました。これからもきっと不平不満ばかり言う大人気ない私だと思いますが、どうか温かく見守ってやって下さい。本当にありがとうございました」。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年2月 3日 (火)

続編・LAVATORY考

2009年も始まったばかりと思っていたが、早くも今日は節分である。昨年6月から仕事の関係で異様に月日の経つのが遅く感じられるようになったが、今年に入ってからは多少時間の動きが早く思えるようになった。精神的な要因が大きく作用しているのは明白で、良い傾向ではある。

ところで、10年くらい前から、節分には「丸かじり寿司」を食べるのが縁起がいいと言われる様になってきた。何故にこんな風習が急に広がったか、私には訳が判らぬ。確かに私がトラックに乗っている頃から、「恵方寿司」との名前でこんなものを売り出したけれど、ブームに火がついたのは最近のことだと思う。

幸い今日は公休日なので、近所のスーパーへ買い物に行き、わざと切れ目の入った「助六寿司」を買ってきてやろうと思ったのに、スーパーの寿司コーナーは丸かじり寿司のオンパレードであった。私も相当ひねくれているが、流行に踊らされているスーパーも考えもののような気がする。

えーっと。今日はかなり前置きが長くなった。本文に入ろう。

Dscnlavatory

本文に入った途端、いきなりとんでもない写真のアップに驚かれた方もあるかと思うが。昨年10月5日に「LAVATORY考」なる記事を書いているので、内容は異なるがその続編でかような写真を使うことになった。

この写真は、昨年12月に城崎温泉方面へ旅行に行った時、乗車した特急「きのさき号」(183系800番代車使用)の車内で写しておいたものである。言うまでもなく、トイレの写真。

肝心なのは、便器の左側に握り棒が付いている点だ。

国鉄時代、私が知っている限りでは、便器の左側に握り棒が付いている車両は殆どお目にかからなかった。便器の右側に握り棒の車両が大半だった。然るに、民営化後、左側に握り棒が付いた車両が徐々にではあるが増えてきた。男性として、これは大変歓迎すべきことなのである。

少々卑しい話題になるが、男性が小用を足す時、右手でイチモツを支えなければならない。そうしなければ、液体がどこへ飛んでいくか保証がないからである。特に動いている鉄道車両の中で用を足そうとするなら、余計しっかり利き手の右手でイチモツを支えている必要がある。

ところが先程書いたように、以前の車両では、体を支えるための握り棒も右側に付いていた。つまり、右手ではイチモツを支えるのに加え、自分の体も支えなければならないことになってしまう。これは物理的に不可能である。仕方ないので、車両内で用を足す時は、右手で握り棒を持って体を支え、左手でイチモツを支えざるを得なかった。右利きの人間にとっては、随分不都合な話であったのだ。

かような不都合は多くの人が感じていたに違いない。

それで、融通の利くようになった民営化以後、体を支える握り棒を左側に配した車両が増えてきたのである。女性の観点では判らないが、少なくとも男性としては便利になったと思うのだ。

写真に出した車両も、国鉄型の車両を、民営化以降に改造したものである。改造の主眼は「交直両用電車」を「直流専用電車」に改造することにあったのだが、ついでに便所も綺麗に改装してくれ、握り棒も左側に移してくれたのだ。

鉄道ファンでなければ、ここまで細かいことは気にしないかも知れない。でも、鉄道はファンのためにだけあるのではない。多くの旅行者が使う交通手段だ。そんな車両に、こうした細かい配慮が為されるようになったことは大変好ましい。

国鉄そのものが悪いとは決して言わない。でも、こうした小さな心遣いを国鉄がしていてくれたら、もっと国鉄の評判は良かったかも知れない。そんな意味では、トイレ一つにせよ、民間の意見を取り入れるようになった今の鉄道車両に、拍手を送りたい気持ちなのである。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年2月 2日 (月)

また試験の思い出

Dscn

別に中学生の集団登下校の写真ではない。写したのは、つい最近の午前10時半頃だ。

彼らの向かう先は、私立の高校。入試の願書を提出に行くところである。私たちの職場の近くにも2つの私立高校があり、こんな姿がこの時期毎年見られる。

どこの都道府県も同じかどうかは知らないが、愛知県の場合、先に私立高校の試験があり、3月に入ってから公立高校の試験がある。ただ、今は公立高校でも推薦入試の制度があるなど、私の高校受験の頃とはシステムが変わっている。一律にこの時期が私立高校の試験だけとも言い切れないらしいが、大まかに言って、そろそろ「15の春」の試練が私立高校から始まっているようだ。

ところで私の高校受験に関しては、正直に言ってあまりいい思い出はない。受験に失敗したとかそういうことではない。もっと前の段階で、受験する学校を決める段階でのことだ。

私たちの頃は、私立高校1校と公立高校1校の2校が受験できた。私立高校は、私の中学の男子の大半が受けた学校を私も受けていて、まあ、こちらはどうでもよろしい。

肝心の本命、公立高校は、私は殆ど受験校選びに参加させてもらっていないのだ。あまり母のことを悪く書きたくもないが、公立高校はどこを受けるか決めるための3者面談で、母がごり押しした学校を受けさせられたからである。私には他に受けたい学校があったのだが、当時新設校でスパルタ教育の某高校(私の出身校ともなった訳だが)を母が一方的に気に入って、そこを受けさせたいと担任に申し出てしまった。私には殆ど発言権はなく、担任教師もその学校なら私でも受かるであろうと言われ、2者が会話する3者面談は敢え無く終わってしまったのだった。

そうかと言って、公立高校に受からないと、私立高校へ通わねばならない。我が家は貧乏であったし、当時男子校だった私立高校へ行くのは、15歳の私にも納得がいかない。最終的に泣く泣くその学校を受ける気になったのは、中学2年の時に好きだった女の子が「おさかなと同じ学校受けるよ」と教えてくれたからに過ぎない。随分不純な動機で試験に臨んだことは否めませんなあ。

流石に高校受験での解答欄に、先日の「教師と生徒の追っかけっこ」になるようなことは書かなかったから、ビリから数えた方が早い順位で何とか公立高校は受かった。彼女も受かった。

ただ、15歳を過ぎた頃となると、反抗期真っ盛りの時期でもある。受かったは良かったが、その後の不勉強ぶりは筆舌に尽くしがたい。親から強要されたスパルタ高校そのものが気に入らなかった。それだから、あんな追っかけっこ事件なども引き起こした次第だが、それは高校受験の話から逸脱するので、またその内、何かの機会に書くこととしよう。

何しろ、このおさかなは、大変不純な動機で高校受験をこなしたことだけはここに明記して、本日の駄文を終わろうと思う。

あ、その彼女であるが、高校卒業から25年以上経った今でも、音信はある。勿論、向こうさんは結婚しておられるけれど。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »