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2009年1月 7日 (水)

あの日あの時

大まかに言って、昭和50年代以前に生まれている方にとって、20年前の今日は忘れられない日になっているのではなかろうか。

昭和64年1月7日・朝、そろそろ屠蘇気分の冷めかけた日本列島を、激震が駆け抜けた。昭和天皇崩御のニュースである。

当時、私は大型二種の免許を取るために、会社を辞めて運送会社でトラック乗りのアルバイトをしていた。スーパーやコンビニなどに問屋から日用雑貨品を運ぶ仕事である。天皇崩御の第一報は、出勤間際の自宅のテレビで聞いた。前年の11月頃から既に「かなり危険な状態」にあられることは、国民誰しも判っていたとは思うが、実際にメディアから「ほうぎょ」の単語を聞かされると、矢張り私は私なりに血の凍るような思いがした記憶がある。

この日は土曜日で、私の勤め先の問屋は通常通りの勤務であった。乗用車に乗って、いつもなら聞く民放をNHKに変え、勤め先へ向かった。

勤め先の問屋の倉庫は大きなもので、2トン積みのトラックが一度に12台程度つけられる所だった。私はいつも遅く出勤する方で、私が出勤した時にはいつものように多くの運転手が既に荷積みの作業をしていた。ただ、言葉を交わすものは少なかった。タイムカードに時間を捺し、今日の自分の配達コースを受け取る。この日は、市内南区の柴田辺りから南へ下がって知多半島を一周するようなコースだった。空いたトラックバースを見つけて車をつけ、私も黙々と荷を積み始める。配達軒数や荷の量が多いと助手をつけてもらえるが、私より若いフリーターの子の名が助手の欄に書かれていた。やがて、彼も出勤してきて、二人でまた黙々と荷物を積む。

8時半から、作業を一時中断して、問屋会社の朝礼が行われる。所長が何を言ったかはまるで覚えていないが、ともかく9時頃には荷を積み終え、問屋の倉庫を出発した。

普段だと、まず運転手のたまり場になっているような喫茶店に向かいモーニングを摂るのだが、この日はそんな気分ではなく、助手の子にも頼んで喫茶店はパスさせてもらった。

「自粛ムード」との言葉もこの当時流行ったものだが、大型スーパーではそうも言っておれないから「新春初売り!」の幟を一応上げていた。1軒目の配達店にもそんな幟が上がっていたが、それを店員たちが大慌てで片付けている時に、私達が到着した。幟を抱えた男女の店員の慌てふためいている姿が、今も脳裏に焼きついている。

スーパーによっては、納入業者が納入した商品の陳列までしていかなければいけない店がある。1軒目の店もそうだったのだが、私たちはそのゴタゴタに紛れて、商品を売り場のバックヤードまで持っていくだけで、陳列はせずにとっとと逃げて行ってしまった。でも、世の事態が事態だったから、店からの苦情は来なかったらしい。

NHKのラジオは、トラックの中でもつけたままにしていた。これからどんな順序で世の中が動いていくのか、新しい元号は何になるのか、不謹慎ではあるが興味もあったからである。配達はこの後、東海市、阿久比町、半田市と順に南に下がっていくが、どこの店でも舞台裏は似たような騒ぎで、私たちはそれに乗じて陳列指定の店に陳列はしなかった。

昼頃だったか、JR武豊駅前を通りかかった時、ふと思い立って私はトラックを止めた。当時の武豊駅はまだ硬券の入場券を売っていたので、昭和最後の日付の入場券を買おうと思ったのだ。その画像を読み込んでここにアップしようと思ったが、どこにしまってあるのか見当たらなかったのでパスさせて頂く。

この武豊駅から程近いスーパーで、(珍しく)商品陳列をしている内に、元号が発表されたらしい。だから私はかの「平成おじさん」の生の映像は見ていない。陳列を終えてバックヤードへ戻ると、警備員のおっちゃんが「『へいせい』か」と呟いていたのを横目でちらと見たのだけははっきり覚えている。

仕事はこの後、常滑市、知多市と回って、16時頃には問屋の倉庫に戻ったように記憶している。普段は冗談ばかり言い合う仲のいい助手の子であったが、重苦しい雰囲気に二人とも余り会話を交わした記憶はない。

***

仕事の方はそんな感じであったが、翌日、日曜日で仕事が休みだったので、私はJR名古屋駅へ出掛けた。「平成初めての日」の様子をカメラに収めようとの魂胆である。以下に3枚の写真を掲載させて頂く。

Img1

当時の名古屋駅はまだツインタワーなど建っておらず、古い国鉄時代の建物だった。正面屋上には電光テロップ式のニュースなどが流れるようになっており、この写真にも「天皇陛下の崩御を悲しみ……」の文字が読める。

Img2

駅のホーム側からも、さいぜんの電光テロップは読めるようになっていて、今度は「『平成時代』幕開け。……」の文字がある。記録によると当時の3番線ホームから、2番線に留置されている電車と共に撮影しているようだ。民営化後に大量投入された211系電車がまだまだ新品の頃で、ステンレスの車体が綺麗だ。

Img3

KIOSKで売られている新聞と電車を写しこんだもの。新聞の見出しには最大の活字で「平成」の文字が書かれている。同じく3番線ホームからの撮影である。

当時は全くの記録として撮ったつもりだったが、時が流れて20年、立派にブログのネタになってくれている。我乍らあの日に名古屋駅へ出掛けたのは、いい行動だったと思う。不謹慎と言われればそれまでだが。

私が現在45歳であるから、昭和が終わったのは25歳の時だったことになる。かなり様々な面で記憶も抜け落ちている。だが、人間、忘れるから生きていけるのであろう。一々全部覚えていたら頭の中は飽和して、爆発を起こすに違いない。自分の頭とて、物騒な事態にはなって欲しくない。

最近では、深刻な不況の問題が毎日のようにニュースの見出しを飾っている。また、現天皇陛下のご体調が少々優れないとの、歓迎しかねる情報も時折流れている。

「平成」の元号が発表された時、語源となった古書の言葉も併せて読まれていた。『天、平らかに、地、成る』がその一つだった様に記憶している。20年を経た今、改めてこの言葉を思い起こし、平穏な世の中になって欲しいものだと思う。雑な輪っぱ回しの私とて、いさかいのない穏やかな日々を送りたい気持ちに変わりはないのである。

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コメント

20年は早いですね~。
名古屋に出て来る1週間前ですね~.
今となっては懐かしいですが、ハラボテのおばさん(当時お姉さん)が名古屋に行きたくないと毎日泣いていましたね。今では逆転して私が毎日泣かされています。
ハラボテもあと2~3日で成人式ですからね。

名古屋に行く前にスッキリ散髪して来ようと思って下に下りてきて、ふとテレビを見たら、小渕さんが「平成」と書いた紙を掲げていました。

おさかなさんはよく硬券を買うのを思いつきましたね。
私は硬券の宝庫にいたのに全く無頓着でした。

投稿: N市のT | 2009年1月 8日 (木) 22時00分

>N市のTさんへ
そっか、Tさんはあの頃に名古屋へ出ていらしたんですね。時代は変わるし、職場は変わるし、住環境は変わるし、何かと大変な日々だったのではとご推察申し上げます。

それにしても「平成おじさん」から20年とは、私も時の経過の速さに驚くばかりです(今年度は矢鱈ゆっくり過ぎているように感じていますが)。光陰矢の如し、とは誠によく言ったものです。
成人式は、12日ですね。おめでとうございます。

硬券の件、実はこれも不謹慎ながら、予め考えてあったのです。当時は市内の鶴舞駅でさえ硬券がありましたから、「その日」が来たら、どこかで買おうと思っており、それを思い出したのがたまたま武豊駅だったのです。宮内庁殿、ごめんなさい。

投稿: N市のTさんへ | 2009年1月 9日 (金) 18時26分

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