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2009年1月

2009年1月31日 (土)

不況乃風

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画像が小さくて判り難いかとも思うが。

私たちの営業所の「第2駐車場」的役割を果たしている、Hヶ丘の操車場に留まっているバスたち。1台だけ例外があるが、ナンバープレートは外されている。方向幕も取り外されている。

つまり、全部廃車となったバスたちである。現在、合計で7台が留められている。

ここは、別に廃車置場ではなく、本来は乗務員の食事や待機の時のために作られた現役車両の駐車バースである。特に、朝の9時から10時頃までの最も多い時間帯では、10台以上のバスが屯する。全部で停められる台数は20台弱なので、現状では手一杯である。

じゃ、何で、邪魔になる廃車車両をとっととどかさないかとの疑問が湧くのが普通であろう。私も理由を知らなければ、そう思うに違いない。

勿体ぶった書き方になってしまったが、この不況下、廃車車両を引き取ってくれる業者が見つからないのだそうで。乗務員に不評を買いながら、この7台は引き取り手を待っているのである。

今まで、こんなことはなかった。廃車車両をここへ持ってきても、数日の内に業者が赤ナンバーを持って、引き取りに来てくれていた。その業者が、不況で、廃車なぞ引き取れないとて、どこもそっぽを向いてしまっているのである。

今回廃車となった車両は、平成9年式の車両が殆どで、何れの車両も8都市県の排気ガス規制には適合していない。つまり、地方都市か排ガス規制のない他国でしか活躍できない車である。そんな車両はこの世界的な不況時に、必要としてくれる会社もない。廃車車両引き取り業者だって、買うだけ買っても売れる目途の立たない車両などは、引き取ってくれる筈もない。そんな理由である。

一体この先、この車たちはどうなるのか、お先は全く見通せていない。今年度の第2次新車として、三菱ふそうの車両が入ることはとうに決まっている。この廃車引き取り問題が絡んでいるのかいないのかは知らないけれど、第2次新車の納入は当初予定より遅れて、3月にならないと搬入されないという。

それまでに、このバスたちの行く先は決まるのだろうか。

私たちも、いくらお世話になった車といえども、廃車処分になっているものを延々と待機バースに置かれていては困る。「不況乃風」はこんなところにまで、弊害をもたらしている。

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2009年1月30日 (金)

『翼をください』の替歌

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今日は趣向をがらりと変えて、自分が勤務の合間に作った愚かしい替歌の歌詞をご披露する。

激務といって遜色のない現状に憂いを感じながら作った、不朽の(どこがだ?)名作である。題して『休みをください』。

***

休みをください  (唄:赤い魚←酔っ払っているので)

 今 私の願いごとが

 叶うならば 休みがほしい

 この過酷な 地獄の日々に

 少し休み やって下さい

◎この毎日に 休みを駆使し

 のんびりしたいよ

 廃休のない 自由な日々を

 休み与えられ 生きたい◎

 

 当たり前を 夢見ること

 何がそうも いけないだろう

 ◎~◎2回繰り返し

---註:廃休(はいきゅう)=世間でいう「休日出勤」の部内用語---

*** 

大変にお粗末さまで、小学生レベルだが、私の魂の叫びでもある。

***

ところで、仕事に関して、一つ書かせて頂きたい。

1月14日の記事「配転騒動」で、私の配転が免除になったことをお伝えしたが、これについて職場の実に多くの方々から「おさかなさん、配転にならずによかったね」とのお言葉を頂いた。このブログを読んでくださっている方の中には配転免除にならなかった方もおられるとのことで非常に心苦しい思いもあるのだが、この場を借りて、私に声をかけて下さった方々に御礼を申し上げます。

「ありがとうございました」。

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2009年1月28日 (水)

信越本線長岡近辺撮影結果ご報告

今日は公休日。例の如く11時近くまで寝ていた。

先日の旅行以来溜まっていた洗濯物のアイロンがけなどの家事で、あっという間に夕方の4時になってしまった。公休日も中々時間が持てないが、せめてブログを書くくらいの楽しみは自分の自由として持つようにしたいものだ。4月の業務改善が待ち遠しい。

さて、恒例の長い余談も終わりにして、先日の信越線の雪景色撮影のフィルムが上がってきたので、何枚か駄作をご披露しようと思う。

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一枚目は、お立ち台写真。古津駅から長岡寄りへすぐの踏切脇から撮影した。朝の時間帯は何本かのEF81牽引の貨物があるので、私も挑戦してみた。「撮影旅行記」でも書いたように、新津に近い側では積雪が殆どなかったので、この様な中途半端な写真になってしまったのはちょっと残念だ。

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雪が少ないので、逆に「緑」で誤魔化してみた写真。田上駅付近で撮影したものだ。ネギの向こうには大根の葉っぱも見える。一雪降ってしまえば全て雪の中に埋まってしまうが、天然の冷蔵庫を兼ねているのかも知れない。

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1日目は、新津~田上付近までの撮影で終わってしまったので、帰りの電車の中で出会った光景を撮らせて頂いた。と言っても、これでは何が撮りたかったか判らない写真ですな。明るさ補正もしたのだが、帰宅の男子高校生がi-podというのか、携帯用の音楽再生機で歌を楽しみながら電車に乗っていたので、その足元を撮らせてもらった。もう少し上まで撮ると状況が判りやすかったかなと、反省の残る一枚でもある。ただ、肖像権の問題もあるから、彼らの顔はどちらみち写すことが出来ない。厄介な時代になってしまったものだ。

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これは2日目に撮ったもの。保内駅から10分ほど東三条寄りに歩いたところで撮影した貨物列車の3093レ。RED THUNDERことEF510の牽引だが、次位に無動力のDE10を連結している。3093レは新潟貨物タ行きだから、新津車両所への検査回送かと思われる。この辺りは程々に雪があったから、本来の目的はある程度達成していることになるのかも知れぬ。

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24日に書いた「撮影記」で『煮ても焼いても食えない』と書いた、保内駅から加茂側へ歩いた辺りでの景色。幸い、造園屋さんの苗木などが植えてある所があったので、そこの盆栽風の松の木を借景にしてみた。この写真もかなり露出アンダーで撮影してしまっており、ここへのアップに際して明るさをかなり補正している。雪景色のセオリーに則った露出で撮影していた筈なのだが……。

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これも「撮影記」で書いた、帯織駅から東光寺方へ歩いた神社での写真。画面に鳥居を入れようとしたら広角レンズで撮らざるを得ず、結果的には電車が凄く小さくなってしまった。鳥居は結構綺麗な朱色をしていたが、森の陰になって露出が適正でないことがバレバレだ。とは言え、鳥居に露出を合わせれば、今度は電車の方が真っ白に飛んでしまうこと請け合いで、この辺り、ポジフィルムのシビアさに頭を捻るところである。

結局は、36枚撮りのフィルム1本しか消費できなかった今回の撮影旅行。その中から来年の年賀状用の写真を選ばねばならず、頭が痛い。どんな賀状になるかは、来年の元旦までお待ちになってくだされ。

と云った、お粗末ご報告でした。

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2009年1月27日 (火)

超デカイ携帯

職業柄、携帯電話と関わる機会は多い。でも、自身は携帯電話を持っていない。

携帯電話が普及し始めてからもう10年以上経つと思うけれど、何となく買う気になれなかった。一人住まいの家に固定電話があるから、それ以上電話を2つも3つも持っても仕方ないと思ったのが、主な理由である。その内、かような世の中になって、携帯電話を持っていない人間など血眼で探さなければいけないくらいの情勢になってきた。だが、やっぱり持つ気になれなかった。初めの文で書いたように、仕事柄関わる機会が多いのは事実だが、それは「無遠慮なお客がバスの車内でかける携帯電話に関わる機会が多い」ということだ。

車内での携帯電話のマナーの悪いこと。乗務員が注意しても聞いてくれない人もいる。また、注意すると「うるせぇな、判ってるよ!」と逆に食って掛かる人までいる。それが嫌だからと注意をしないと、今度は別の客が「おい運転手、携帯電話、注意しろよ!」と怒鳴られることも。

従って、携帯電話に対していい印象を持っていないのだ。そんなこんなで、いつの間にやら、意地でも携帯電話を持ってやるものかと思うようになった。定年まで、どんなに不自由でも持ってやらないぞと心に決めている。このおさかなは、かなりの意地っ張りなのである。

そんな私が、急に何を思ったか、いきなり携帯を買った。但し、とてもデッカイ。

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これが、私の買った携帯。何のことはない、私が買ったのは携帯用パソコンである。ノートPCではなく、最近流行の「ミニPC」だ。一部の方には既にお知らせしてあるけれど、あまりの廉価に感動したのと、移動時の連絡手段としてメールくらいは出来ないと正直言って不都合なことが増えてきたからでもある。

以下、携帯電話のことは「ケータイ」と書かせて頂くとして、ケータイに比べて通信料だって割高だし、機能も少ない。少なくともPCでは電話できない。それに、メールするにしたって、PCなら一々ウィンドウズを立ち上げてからでなければメールソフトも走らせられない。

ただ、私なりの言い訳をするなら、一旦立ち上げればメールを打つ速度は多分PCの方が早いと思う。ケータイは所謂「テンキー」に「♯」と「*」のキーがあるくらいだろう。「ア行」の文字を打つなら「1」のテンキーを何度も押さなければならない。記号などは、どのキーに何の記号が割り付けられているのか覚えるのも億劫そうだ。

PCなら、かな入力をすれば(私はかな入力主義者である)あとは変換キーを押すだけだ。勿論慣れれば、かなりのスピードでケータイでメールを打つ人もあるけれど、そこまで無理して自分の信念を曲げたくない。

またPCなら、いくら小さいサイズでもネットの世界が不便なくフルサイズで見られる。仕事に追われて家のPCに辿り着く前に、仕事の合間を縫えば色々な情報が入手できる。

そのような次第で、携帯PC購入を決めた。

ただ、どう足掻いてもPCはPCだ。携帯用といっても私のものは25センチ×17センチに厚さが約4センチ。重さも1.2キロ程度あって、ケータイの身軽さにはとても敵わない。仕事用の鞄に入れて持ち歩くようになって今日でまだ2日目だが、どうにも鞄が重くなった。

でも、自分が納得できる方法で人との意思や情報の交換が出来れば、それでよいと思っている。ご批判も色々受けるだろうけれど、私の手元に来てくれた携帯PCの将来に幸あれと、早くも我が子の様に可愛がっているおさかなである。

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2009年1月24日 (土)

信越本線長岡付近撮影記+ガーラ湯沢

過日お伝えしたとおり、長岡方面の信越線撮影に出掛けた。簡単にだが、軌跡をご紹介しようと思う。

1月21~22日

21日の仕事を終え、洗濯だの諸々の家事を済ませて家を出る。要は下り最終の新幹線と、それに接続する新潟行きの列車に乗れればそれでよいのである。

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最下段ののぞみが、最終の下り列車になる。これで京都まで赴き、京都駅ホームで日付変更線を迎える

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この列車に乗るわけだ。名古屋も京都も雨だったが、ホームに覆われた私には彼岸の話であった。

寝台列車に乗車して、30分くらい車掌の検札を待ったが一向に来ない。もう眠くなったので、とっとと着替えて寝台に横になった。眠りにつきかけた頃、車掌の「京都からご乗車のお客様、乗車券を拝見致します」の声が聞こえたが、殆ど脳みそは寝ていたので無視する。12月の旅行記でも書いたけれど、JR西日本の車掌って本当に何を考えているのだろう。寝台列車なら、京都を出て少なくとも10分以内に検札に来るのが礼儀と云うものだろう。もう一度「寝台のお客様、お休みですか」と声がしたが、不愉快さも相俟って無視を貫いた。レチ氏の声もそれきりだった。

さて、きたぐに号の寝台券は、翌朝8時10分の新津までにしてある。目覚ましはかけなかったが、うまい具合に新津到着20分くらい前に、自然に目が覚めた。仕事の時はいつも遅刻寸前にしか起きない癖に、こう云う時は器用に目が覚めるもので、我ながら感心する。

その新津のホームへ降り立って初めに出迎えてくれたのが、この列車。

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ご存知トワイライトエクスプレス、上り(大阪行)列車である。新津の正規の発車時刻は4時40分だから、団体専用の臨時仕立ての運行らしい。

薄ら寒いホームで菓子パンの朝食を食べ、折り返し羽生田行きの列車で、隣の古津駅まで向かう。駅付近の踏切から、下り列車がいいアングルで撮れると、サイトに書いてあったのだ。ここで、10時半頃の貨物列車まで粘っていた。

続いて、また一駅戻った矢代田へ行く。大したアングルがある訳ではないが、自分なりの「絵」が作れないかと思ったのだ。

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こんな感じで狙ってみたが、結果はどうなっていることやら。全体的に、新津に近い方では積雪が少なく、長岡に近付くほど積雪が多かったようである。

天気はそれほど良くなかったが、この後、更に一駅戻った田上駅付近でまた少し撮ってみる。一時的に日も射して、まあ悪い印象ではなかった。愚図愚図撮るうちに早くも夕暮れの帳が下りてきたので、この日の撮影はこれで終了。

1月23日

朝は結構ゆっくりしていた。出発したのは9時06分発の新潟行で、である。ただ、私は2駅乗っただけの押切で降りる。駅から少し長岡寄りに、田圃の広々とした場所があり、ここを狙って降り立ったのである。

駅からすぐに細い流れがあり、橋を渡っていると水鳥の鳴き声がする。鳥好きの私は敏感に反応し、彼らの写真を撮っておいた。

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かなりの数いる。それにしても、この寒いのに平気で水に浸かっている彼らの神経が判らない。思わず立ち止まって、「あんたたち、寒くないの? 風邪引かないの?」とついつい声を掛けてしまう。こんな所でも、一人上手をしている。

天気予報では、「朝は曇りで昼から雨」とのたまっていたが、ここにいる間は日も射し、気分的にまずまずであった。

1時間ほどでここを辞し、今度は保内駅まで向かう。駅付近の長岡方・新津方、どちらにも絵になりそうな場所があるように思ったからである。結果的には、長岡方の方は何とか絵にできたが、新津方の方は煮ても焼いても食えぬ状態で、かなり苦労して一つのアングルを作り出した。うまく撮れていたら、後日の「結果ご報告」でアップする予定でいる。

保内駅辺りで結構ゆっくりしたから、戻りにかかったのは13時52分発の列車になった。

さて、次に降りる駅は今回の旅行で最後の撮影地になる。降りる駅の候補は2つあって、気分が向いた駅で降りようと思った。この辺りは新潟近郊圏で電子マネーの代名詞になっている「Suica」が使える。私はSuicaは持っていないが、これと互換性のあるJR西日本の「ICOCA」を持っている。降りる駅が定まっていないから、このICOCAで入場した。こう云う時、カード式の乗車システムは便利だ。

結局は、帯織で降りることにした。駅近くで、車窓を神社の鳥居が掠めたからである。私も以前よりは歳をとったのか、こうした歴史的な構造物と列車を組み合わせた写真に興味を覚えるようになった。で、車窓から眺めた感じでは、何とか列車と絡めた写真になりそうなので降りることにしたのである。

帯織付近では、長岡寄りへ2キロほど歩いた地点が「お立ち台」として非常に有名だが、私はわざとそれを無視し、反対側の新津方面へ歩き始めた。10分も歩かぬ内に、先程車窓を掠めた神社へ到達した。

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神社自体は大きなものでもなく、誠にひっそりしているけれど、私にはそれが却って好印象に思えた。神社の外と中から、2~3枚ずつ撮ってみたが、さて、結果は如何に。それはいいとして、15時くらいから冷たい風が非常に強く吹き始めた。下手すれば、雨も降り出しかねない様相である。幸い私がここにいた16時過ぎまで、雨粒は落ちなかったけれど。天気予報が外れたのはよろしいことだ。帰路はその強い北風に吹かれながら駅へ戻り、17時過ぎの列車で宿のある長岡へ戻った。

1月24日

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朝起きたら、今度こそ天気予報の通りになっていた。「明日はぐっと冷え込み、一日中雪となるでしょう」と言っていたが、本当にその通りだ。

さて、今日は撮影の予定はない。帰りがてら、かねがね気になっていた「ガーラ湯沢」へ赴こうと思ったのである。

まずは上越線の

Dscn_7 この列車から出発する。9時49分発・土日休だけの臨時列車である。5両もつないでいるが、お目当て(だと思う)のスキー・スノボの客はなく、1両に10人ほどの客を乗せただけで終始した。越後湯沢、11時08分の定刻着。

「ガーラ湯沢」とは、鉄道ファンの方にしか通用しないと思うので、ちょっとだけ解説させて頂く。

越後湯沢駅から2キロほど離れた場所に、JR東日本が開発した「ガーラ湯沢スキー場」がある。ここへのアクセスのために、冬季だけ上越新幹線の越後湯沢駅から、営業キロで1.8キロのガーラ湯沢駅まで、新幹線列車を乗り入れさせるのである。走る車両は新幹線電車だが、在来線という扱い。それはいいとして、困ったことにこの区間は営業期間の冬を終えると、時刻表の巻頭地図からも消えてしまうのである。

私は2003年の8月に、南武線・浜川崎支線を最後にJR線を完乗した。然し、季節的とは言え時刻表の巻頭地図に掲載される線に乗っておかないのは、「完乗」を謳うものとして気にかかる。単に季節列車の運転される臨時線と扱うなら乗らなくてもいいが、何ともすっきりしない。そんな気分のまま何年か過ごしてきたのだが、過日、私鉄をも全線完乗した職場の同僚にここに乗ったかどうかを訊ねると「乗ったよ」との答え。氏の完乗基準も、私の考えに近く、「時刻表の巻頭地図に載っていれば乗る」とのことであった。それで、折角この近くへ来たからとて、今回の旅行の帰路を利用して乗ろうということにしたのである。

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話が長引いたが、11時08分に着いて、次のガーラ湯沢行は11時22分発。中々の好接続である。少し新幹線ホームで待つと、案内放送が鳴って上越新幹線の車両が姿を現した。

乗ってしまえば僅か1.8キロだから3分で着いてしまった。敢え無く「全線完乗」のための乗車は終わった。

ガーラ湯沢は本当にスキーヤーのための駅らしく、改札を出ると目の前に飛行場のような広い「リフト券・レンタルスキー、スノボ貸出し」のカウンターがあるだけで、あとはスキー場へ直結する通路があるだけのようであった。完乗以外の目的で鉄ちゃんが訪れるところではないなと思った。更に驚いたのは、飲料の自販機。

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値段をよくご覧頂きたい。通常120円の缶コーヒーなど、全ての飲料が通常価格より30円増しなのである。益々、鉄ちゃんが来るところではない。然し折り返しの列車にはちょっと時間がある。ここで持参のパンと、缶コーヒーで昼食をと考えていた。まあ、150円の缶コーヒーもそうそう飲む機会もないかと思い、結局は予定通り、ここの自販機で缶コーヒーを買った。

パンを食べ終わり少しすると「東京行き、たにがわ410号の改札を致します……」と案内放送が入った。ここから東京までの新幹線自由席特急券は既に買ってある。スキーに縁のない者は、とっとと立ち去った方が良さそうだ。

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LEDの方向幕だからちょっと写真写りが悪いが、兎に角これで東京へ出て、更に東海道新幹線に乗り継いで、後は帰るだけである。

幸い雨には降られなかったし、豪雪で列車が止まるようなことにもならなかったし、一駅間だけだけど乗ったことのない線にも乗れたし、まあまあの首尾だったかな。贅沢を言い出せばキリがないし、こんな気休め旅行も良かろう。

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2009年1月20日 (火)

一人上手と呼ばないで

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昔、中島みゆきさんの深夜放送で、同じタイトルのコーナーがあった。タイトル名だけ失敬しているのだが。

さて、上の写真は魚澄庵の風呂の操作スイッチパネルである。今どきの風呂は、水を入れた後、ガスで決まった時間の湯沸しをする必要なんてない。予めこのパネルで設定しておけば、規定の温度のお湯が規定の量、自動的に給湯される仕組みになっている。まったく便利な時代になったものだ。

ところが、この便利な給湯器、パネルを操作する度に一々喋ってくれるのである。例えば風呂にお湯を張ろうとスイッチを入れると「お湯張りをします」と喋る。

で、やめておけばいいのに、一人暮らしで話し相手のない私は、それに一々応答することにしている。今の「お湯張りをします」の場合だと、大抵は「はい、是非してください」と言うことにしている。

風呂温度が写真では42℃に設定してあるが、この温度を変えると「給湯温度が変更されました」と自動的に喋る。給湯温度を変更したいから、温度スイッチをなぶっているのに、随分当たり前のことを言ってくれるものだ。その時の気分にもよるが、大体は「判ってるよ。給湯温度を変更したいからスイッチをなぶっているの!」と言い返す。

他にも兎に角色々喋る。それに対して私はバカみたいに一々返答する。全く以っての一人上手である。

一人暮らしだと喋り相手がいないから、本当に退屈してしまうことが往々にしてある。その際に、この給湯器は変に喋ってくれるから、ついつい応答してしまう。他人から見たら、「バカみたい」ではなくて、「バカそのもの」であろう。

こんな虚しい人生を送りたくなければ、世の独身諸氏よ、やはり連れ合いはもらった方がいい。

こうもバカバカしい日々の送り方は、私ひとりで沢山だと思うから。

教訓:給湯器に一々返事するのはやめよう。

***

さて、明日の仕事後より恒例の鉄道撮影旅行に出掛ける。今回は長岡~新津辺りの信越本線の雪景色を狙っている。早くとも24日まではブログの更新がないので、ご了解くだされ。

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2009年1月18日 (日)

定期試験のとある思い出

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昨日・今日と大学入試センター試験だったようで。

そう言えば私達が受験生の時代は、まだ「センター試験」なんて言わなかった。「共通一次(試験)」って呼んでいたっけ。今のセンター試験は、国公立大学の他に私立大学も利用している学校が多いようだけれど、私達の頃は「国公立大学へ入るための」共通の第一次試験だから「共通一次」って呼ばれていたのだ。

私の大学受験に関する思い出は以前書いたから省くけれど、何しろ国公立大学なんてまるでお呼びでない成績だったことはその時にも書いた通りだ。その入試にしても、地元の学校で農学部がある大学は、国公立を除けば私の通っていた学校しかなかったので受けたのに過ぎない。それで進路が決まってしまったものだから、共通一次試験なんて、私にはてんで縁がないのだ。

そんなお粗末な成績の高校時代のことを考えていて、またぞろ下らないことを思い出しのでそのことを書く。

時は一番勉強しなかった高校2年の定期試験のことだ。学校が4期制だったから毎度毎度中間試験と期末試験があって、そのどれの時だったかは覚えていない。

高校では、英語が3つの教科に分けられることが多いと思う。「コンポ」「リーダー」「グラマ」の3つだ。問題は、そのグラマの試験で起きた、いや、起こした。

グラマの担当教師は、50歳くらいの男性で学年主任の頭ガチガチ真面目教師だった。で、その定期試験に臨んだのであるが、兎に角全然勉強していないものだから、試験を受けたところで判る問題の方が遥かに少ない。答案用紙は真っ白にかなり近い状態であった。

特に解答用紙の真ん中辺りにある問題6問が、まるきり判らぬ。設問は「次の例文にある間違った単語を、正しいものに直せ」というものだった。例えば「I is a boy.」とあったら、解答用紙に次のように書くようになっていた。

(  is   ) → (  am   )

この6問に何か書かないと、空白が非常に目立つのだ。成績なぞどうでもいい、何でもいいから空白を埋めようと思い、私はとんでもないことを書き始めた。

( 赤点 ) → (職員室)

(  呼出 ) → ( 正座  )

(   0点 ) → (ゲンコツ)

この3つは正確に覚えているのだが、あとの3問は何を書いたか忘れた。とにかく似たような内容のことを書いた。少し空白が埋まったので、見た目は多少マシな状態になり、そのまま提出した。

そして、答案が帰ってくる時、いよいよ“事件”が起きた。

件の四角四面の学年主任が、名前の50音順に答案を返していて、私の答案を見た途端「んっ? おっ? おっ!!」と唸りとも叫びともつかぬ声を出したかと思うと、いきなり手元にあった英語の辞書で私の頭を叩こうとした。私もどんな答案を提出したかくらいは覚えているから、咄嗟に逃げた。教卓の周りで、学年主任と私の追っかけっこが始まったのである。追っかけっこは教卓の周りで済まず、教室を私が逃げ回ろうとしたが、とうとう教室の角でつかまり、辞書で4~5発叩かれた。

他の級友は何が起きたのか判る訳もない。いきなり教師と生徒が追っかけっこを始めたので、皆、呆気にとられていた。私が叩かれ終わって、かなりくしゃけた答案用紙を手に席へ戻ると、隣の奴が「お前、何やったんだ」と言いかけて、答案用紙を見て爆笑した。周囲の席の連中も集ってきて、皆で大爆笑になった。

四角四面教師は、「こらっ、そんな答案用紙、見なくてもいい!」と頑張ったが、誰も言うことを聞かず、暫くの間、教室は爆笑の巷と化した。

大学になれば、所謂「裏回答」で、こんなことを書く輩もいるが、高校でここまで堂々とバカをやったのは、当時としては非常に稀なケースだったのだ。

我ながら、つまらないことにだけは勇気のある人間だなあと、今更ながらに思う次第である。 

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2009年1月17日 (土)

お日さまへの雑感

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この画像は、2008年大晦日の日没直前の模様。いくらお日さまのことを話題にしたいからと言って、去年の大晦日の日没の写真を載せてもあまり意味がないような気がする。まったく我ながら、何を考えているのだろうね。

いっそ、もう一度昨年に戻った気持ちになり、昨年最後の日没を皆で拝んで頂くとしようか。

下らない余談は兎も角として、早いもので冬至(12月21日)から、はや、1ヶ月近くが経とうとしている。先程調べてみたら、名古屋の冬至の日の入り時刻は16時44分。今日・1月17日の日の入りは17時05分とのことだから、既に20分以上日の入りが遅くなっていることになる。

私は仕事柄、車内灯のスイッチを入れる時刻で、季節を感じるようになった。勿論、肌で感じる寒暖でも季節を感じることには違いないが、18年間もバス運転手をしていると、いつの間にやら日の入りの時刻が自分の行動に密着していることを強く感じるようになった。

日の入りが早ければ、それだけ「夜」の運転時間が長くなる。バスってただでさえ図体がでかくて見通しの利かない乗り物であるから、明るい内に運転する時間が長い方が仕事も楽に決まっている。それで、知らず知らずの内に「夜」の長い季節を嫌うようになった。また早くから暗くなれば、同じ夜の20時でも、もう22時くらいに感じてしまうことがある。「暗くなってから、もう3時間運転しているのに、まだ20時かよ」と冬には屡々思ってしまうのだ。

そんな次第で、20分でも日没が遅くなることは歓迎である。

日の出にしても同様だ。

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これは一昨日に、とある終点の待機場所から撮影したもの。撮影時刻は6時55分頃である。因みにこの日の日の出時刻は、7時ちょうどだそうだ。できるだけ空ではなく地表部分の明るさに照準を合わせて撮影したつもりである。日の出時刻にはまだ5分ほどあるから、どうしたって車内灯どころかヘッドライトも必要な明るさしかない。今の時期、ヘッドライトをスモールに切り替えるのは、大体7時15分くらいである。

日の出の時刻も調べてみたのだが、(何れも名古屋標準で)こちらは冬至を過ぎてもまだ遅くなっているのである。冬至には6時57分なのだが、最も遅い元旦だと7時01分にしかお日さまが顔を出さない。この日の出時刻は何と1月13日まで続き、翌14日から今日までが7時ちょうどなのだそうだ。

先程の車内灯の話をすると、確かに夕刻に関しては冬至よりは点灯時間が遅くなっていると思う。冬至の時には、もう16時過ぎにスイッチを入れていたものだが、今は晴れていれば16時半くらいにスイッチを入れるように思う。つまりその分、確実に日の入りは遅くなっている訳だ。

でも朝の話をすると、車内灯を消すのは、まだまだ早くて8時少し前だ。最近はカーテンの代わりにスモークガラスを採用している車も多くなったから、場合によっては8時半になっても灯りを消すのに躊躇うことがある。

細かい時間のことまで触れてしまったけれど、何れにしても、お日さまの出ている時間は長い方がいい。暗くなるのは寝る時間だけで十分だ。

かような次第で、陸の上に住む変なおさかなは、暑くても蚊がいても日の長い夏の方が季節としては好きなのだ。少なくとも、春分の日ぐらいまでは非常に待ち遠しい思いで日々を過ごす。「春よ来い」とは、よく言ったものである。

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2009年1月16日 (金)

ドライバーズグラブ

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格好つけて横文字のタイトルにしてしまったが、要は運転用の手袋の話である。

仕事で運転する時、私はいつも運転用手袋をはめている。上の写真では少し判り難いかも知れないが、薄手の軍手に滑り止めの白いポツポツのゴムがついたタイプのものだ。前々職のスクールバスの時からしているから、もう20年近く、このテの物にお世話になっている。

そもそもゴム付き軍手をはめるようになったのは、更に前の職場でトラックに乗っていた時、荷物を持ちやすいようにと会社から支給されていたのが発端だと思う。荷物の積み降ろしをし、そのままトラックのハンドルを握っていた。その延長線のような感じである。

バス、それも路線バスの仕事になってからは、お客様と直に接するので、清潔感が損なわれないよう私なりに気を配っているつもりである。勿論、この手袋は毎日取り替えて洗濯している。それでも最近は車椅子やベビーカーなどの扱いがあるので、汚れた手袋で運転している時もあるとは思う。

更に困るのは、こうなった時。

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5双で600円程度の安物を使っているから、割と簡単に穴があく。寿命調査まではしていないが、5双のものを使い回しにしていても、1双当たり半年程度しかもたないようだ。

この写真では珍しく左手に穴が開いているが、穴があく率は右手の方が断然高い。右手ではウインカーを出すのに加え、扉開閉レバーの扱いもするからだ。穴があく指も、決まって親指か中指だ。左手はギアチェンジくらいしか役割がなく、現在はAT車も多いので益々左手の負担が軽くなっている。

かような事情から、我が家には左手がマトモで右手に穴のあいたポツポツグラブが山積している。たまに自宅での軽作業用に使うこともあるが、他には使い道がない。一部を残して、大体は捨ててしまうことが多い。

メーカーさんにお願いが出来るものなら、指先に穴があき難いようパワーアップを施してくれるか、右手だけのバラ売りをして頂けると大変助かる。

……と私は思っているのだが、読者の中に同業者の方がおられたら、是非ご意見をお聞かせ下さい。

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2009年1月14日 (水)

配転騒動

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ずっと前から、書こうか書くまいか迷っていたのだが。

昨年11月10日に、市内南東部の車庫への配転を言い渡された。異動の日付は平成21年4月1日付でということである。私の行く車庫へは合計18人と云う大量異動である。

書いたこともあったかと思うが、私は現在の職場へは自宅から直線距離で1.5キロを切ると云う、大変恵まれた環境の下で暮らしている。然し今年の4月1日から、一つの車庫を他の会社に業務委託化することが決まっており、それに伴って大幅に人事異動が行われることになっているのだ。その煽りを受けて、私もトコロテン式の異動を言い渡されてしまったのである。

配転を言い渡された車庫は、魚澄庵から直線距離でも10キロを悠に超える。今まで通勤時間は10分で済んだものが、かなり飛ばしても40分はかかる場所である。早朝や深夜の仕事がある私たちのことだから、特に朝などはとんでもない早起きを強要されることになる。厄介なことになったな、と困惑していた。

然し、異動者名簿が発表されて間もなく、異動者らの間で「異動しなくても済む人間が2~3人出るのではないか」との噂が立ち始めた。私も自分なりに、異動先の車庫の方に話を聞いてみると、噂はある程度真実味があるような様相であった。それで今日まで異動の話を書くのをためらっていたのだ。

どっちつかずの気持ちのまま迎えた昨年末に、間違いない情報が入ってきた。私の異動する車庫へは、18人中4人が配転免除になるとの話である。異動しなくて済む者は、『異動先の車庫から距離が遠い者から順に選ばれる』が私たちの車庫(労組支部)の規則である。私はどう考えても、異動者中遠い方から2番目になるようであった。これで異動しなくて済む話が、かなりの真実味を帯びてきた。

私たちの職場では、乗務員の人事決定権は労働組合が握っている。労組の支部同士で話し合いが成立すれば、異動者の人数や異動する人間を変えることも出来る。その話し合い、即ち支部長会議が昨日行われ、最終的な異動者が今朝発表されたのである。上の写真は、その発表された名簿のごく一部分だ。

その名簿の中に、私の名前はなかった。噂は本当になった。火のない所に煙は立たぬと言うが、今回の騒動はまさしくその言葉通りとなった。4月からも、通勤時間は10分で済むのだ。張り詰めていた自分の気持ちが少し緩んだのが、今ははっきりと判る。

ヤレヤレ。

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2009年1月12日 (月)

祝日法改正に関する雑談

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今日は、成人の日でありまして。時代の移り変わりと共に、成人式の服装やその内容も変わっているようだが、まあ、それはそれぞれの年代の方にお任せしておけばよいことで、特にここでは言及しない(と言いつつ、それらしき方たちの写真をしっかり撮っているが)。

あと、自分の成人式の記憶と云うと、会場が矢鱈寒かったことと、何やら自治会の順番とかで「新成人・誓いの言葉」を読まされたとの、碌でもない記憶しか残っていないので、これも割愛。

私が一番訴えたいのは、この祝日がコロコロ変わる俗称「ハッピーマンデー」を止めて頂きたいということだ。こちとら頭が悪いから、1月15日でもないのに成人の日ですと言われても、ピンと来ないのだ。それなりの理由があって日付が移動する「春分・秋分の日」以外は、どうして無理に月曜日に移す必要があるのか理解できない。3連休を量産したところで、若い世代を甘やかすばかりではないか。

職場の同僚、と言っても小学生の子供を持つ親父さんのご意見なのだが、このハッピーマンデーのお陰で変な日に父親参観日などの学校行事を入れられて、困惑しているとのこと。この意見を言った同僚曰く「アンハッピーマンデー」だそうだ。

今年は、この変な制度のために、5月のゴールデンウィークの他に、9月にも5連休が出来ることになる。敬老の日と秋分の日が飛び石で配置される影響である。連休が増えることは結構と言えば結構かも知れないが、結局はその日に人出が集中して、道路は渋滞、街は大混雑と、これまた碌でもない事態が容易に予想される。

飛び石連休だって別にいいじゃないかと思う。経済効果がどうだの、子供の集中力が欠けるだの、もっともらしい理由を唱える方もあるが、飛び石連休でも集中力が欠けない子供を育てるのも教育者の使命じゃないのかなあ。

言い方を変えれば、自分の記憶力が悪くなってきたことを棚に上げているだけの話かも知れないが、昭和生まれのおじさんは、1月15日が成人の日であって欲しいし、10月10日が体育の日であって欲しい。元々はそれなりの理由があって定められた日にちである。ややこしいことはこちらの頭が混乱するので堪忍して欲しい。

単なる、クソ親父のたわごと……なんだろうね。

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2009年1月10日 (土)

飯山線の雪路(夕・夜間編)

過日、ご覧頂いた飯山線の雪景色、今日は夕方以降の時間に撮ったものを僅かだがアップしようと思う。

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終点に近い内ヶ巻駅から、5分ほど歩いた踏切から撮ったもの。ここの踏切付近は、季節を問わずそれなりの写真が撮れて面白い。踏切端の公道から撮れるから足場もいい。この写真は、前日、逆方向を向いて三脚を構えていたら、こっち側の方が情緒がありそうな景色なので、改めて撮り直しに来たものだ。私的には、列車が近付いてからよりも、遥か彼方にヘッドライトが見える程度のタイミングで撮った方が、冬の寂しさがあるように思えて好きだ。

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上の写真を撮り終えて戻った内ヶ巻の駅舎。駅舎を照らすライトがタングステンらしく、周囲までをも青く照らして幻想的だったから、ついでのようなつもりで撮った。あまり周囲に人家もなく、特に夕刻以降は人も見かけない辺りなので、時間潰しに駅舎や周囲の景色を撮るのも気を遣わなくて済む。もうちょっと露光時間を短くして、背景のトーンを落とした方が良かったかも知れない。

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同じく内ヶ巻の駅へ進入する列車をホームから撮影したもの。乗降客が少ないからか、あまりホームの除雪もされておらず、それが却って雪景色を撮る者には幸いするように思える。見た目、大変雪深い処の様に見えるから。実際に雪の量は多い地域だけれど、大きな駅のようにしっかり除雪されてしまうと、情緒もヘッタクレもなくなってしまう。この程度の駅の方が自分の好みには合う。

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「何じゃい、こりゃあ?」と思われそうな写真だが、宿泊した十日町の宿の部屋から撮影した、入替作業中の列車である。予約した宿が線路沿いであることは知っていたが(故・宮脇俊三氏の著書による)、たまたま線路側の部屋が割り当てられ、目の前に夜の列車が見えるので、何か撮れないかとない知恵を振り絞って撮ってみたものだ。どうと言う事もない写真だとは思うが、ピント合わせには結構苦心した記憶がある。

私は撮影に出ても、写真家やそれに準ずる方のように本格的に撮っている訳ではないので、夜間の写真は極めて少ない。夜は大体、酒を飲んで部屋でひっくり返っているのが常である。人それぞれ考え方はあるだろうが、私は気晴らしのために撮影旅行に出ていることが殆どだから、オフタイムはグウタラしていることのほうが多い。

ちょっと前に、ブログのサイドバーに「検索フレーズ」を表示するようになって意外に思ったのが、このブログを撮影地ガイドのように見て下さる方が多いことだ。実際にはご覧の通り、撮影地ガイドとは程遠い情報しか提供していない。それに鉄道専門ブログのつもりは全くないので、関係ない記事もかなりある。

ご来訪頂く事は執筆者としても大変嬉しいことではあるが、目的が異なるので、ガイドとしては殆どお役に立てないことだけはここに明記しておこうと思う。鉄道を撮ったりそれに乗ったりするのと同様、文章を書くのも私にとっては気晴らしの一手段に過ぎないのである。

ガイド的なことを期待してご来訪くださった方には、心よりお詫び申し上げます(ペコリ)。

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2009年1月 9日 (金)

ハトポッポとの物語(2)

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前回は、1985年の春辺りまでのことを書いた。

餌の与え主は年齢イコール彼女いない暦であるが、こいつは、よく彼女を連れてきた。彼女の方も次第に慣れてきてしまった様で、我が家の物干し台を2羽で占領するのも当たり前になった。私も甘やかして育てた(?)から、彼らは何でもし放題であった。この写真では、下でこっちを向いているのが、いつもの奴である。

さて、自然界に生息している彼らだから、食糧事情がよければ当然の如く夫婦となり、庭のダイオウマツに勝手にマイホームを構築してしまった。つまり、子バトポッポが誕生したのである。一人でいる時は夕方になるとどこへともなく帰っていったものだが、子育てが始まるとマイホームに付きっきりになる。そして、ある程度子バトポッポが育ってくると、そいつらまでをも連れて縁側のたたきへやってくるようになった。

神社などに群生するドバトのことは詳しく知らないが、奴らキジバトは2羽の子供を生むのが普通だそうだ。何度か我が家で子供を孵したが、そういえばいつも連れてくる子バトは2羽だった。

夫婦(2)+子供(2)で、合計4羽となってしまうと、餌の消費量もかなりハイスピードになった。でも私もバイトなどしてハトの餌くらいは買えたから、相変わらず子連れのヤツに4倍の餌をやっていた。子供を連れてきていた頃の映像。

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一番右側にいるのがヤツで、左2羽は子供である。まだ、子供は餌を一人でよう食べられないので、親に纏わりついて離れない。子連れの時はいつも、子バトポッポに追いかけられてばかりのヤツであった。

私の方は大学4年となり、授業らしい授業は殆どなく、毎日卒論実験に明け暮れていた。実験は自分の好きな時間に出校して、必要な実験をして帰ってくる日々だったから、奴らに餌をやってから家を出て、大体の時は奴らの夕飯の時間には帰ってくる毎日が続いた。時間に拘束されることも殆どなく、好きなように実験をやってデータ集めをする、大変のんびりした日々だった。その「のんびり」にヤツが火に油を注いでいる感じだった。

本来、大学4年ならばこれに加えて就職活動もしなければならないのだが、私は学部研究生としてもう一年学校に残ろうと決めていたので、特別、就職活動はしていなかった。だから、ハトポッポと非常に密着した毎日だったと思う。

ヤツは子供を育て終わると無理矢理子離れさせて(これは自然の摂理であるが)一人に戻り、気が向くとまた別の彼女を連れてきて、やがて子育てに専念するのだった。動物図鑑によると、キジバトの繁殖期は「4月~11月」と記されていたが、これは餌を得られる時期が春から秋にかけてだからそう書いてあるだけのことらしく、一年中餌をもらえるヤツには、図鑑の知識は通用しなかった。つまり、冬でも平気で子育てをしていたのである。

研究生になっても、私の毎日にはそう変化はなかった。論文のテーマは変わったけれど、4年の時と同じように実験をしてデータ集めをして、の毎日だった。就職に関してもあまりまじめには活動せずに、ひたすら奴らと遊んでいた。私なりに就きたい仕事はあったけれど、どうもそれが叶わないらしいと判ってきたので、余計ダラダラと日々を送っていた。で、より一層ハトポッポに密着してしまい、ヤツも私にすっかり寄生してしまい、お互いにどうにもならない同士だったとしか言いようがない。

いつだったか、私が帰ってくると、珍しくヤツの姿がない。必ずどこか目の届く範囲にいて私からの餌を待っているのだが、と思いつつ、適当に「お~い、ハトポッポ、ごはんだぞぉ」と手を叩くと、全くどこにいたのか、ちゃんと飛んできたことさえあった。図鑑の知識が通用しないくらい手なずけてしまったのだから、仕方がなかろう。その、「図鑑の知識に背いた」写真を一つ。

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木々に葉っぱのついていない時期に、のんびり小枝でくつろぐ親子のシルエット。写真には撮らなかったけれど、雪の積もった庭で親子が餌をつついている時もあった。

そんなこんなで過ごした2年間。私にとっては大変楽しく、かつ長閑な日々だった。ヤツにとっても多分そうだったのではないかと思う。何しろ、存在すればちゃんと餌をもらえるのだから。事によると、単なる「餌をくれる機械」程度に考えていたかも知れぬ。私の溺愛が全ての原因だったのだ。

だが、無給の学部研究生も2年は続けられない。1987年春、私は一応就職して、朝は7時に出勤、夜は19時くらいにしか家に帰ってこられない生活になった。当時は週休2日ではなかったから、日曜日くらいしかヤツには会えない。勿論、餌もやれない。

2ヶ月もしない内に、ヤツの方から諦めをつけたようであった。私も本格的に仕事が忙しくなって、気付かぬ内にヤツとは疎遠になっていた。ふと気付いた夏には、もう我が家へ遊びに来るヤツの姿はなかった。

もう、あれから20年以上の歳月が流れる。ハトの寿命は長くて15年程度だから、とうにヤツは天国で私を見下げているのだろう。

でも、もう一度だけでいい、あの洗濯竿にのんびり止まっている姿を見せてくれないかなあと、私は今でも思っている。

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2009年1月 7日 (水)

あの日あの時

大まかに言って、昭和50年代以前に生まれている方にとって、20年前の今日は忘れられない日になっているのではなかろうか。

昭和64年1月7日・朝、そろそろ屠蘇気分の冷めかけた日本列島を、激震が駆け抜けた。昭和天皇崩御のニュースである。

当時、私は大型二種の免許を取るために、会社を辞めて運送会社でトラック乗りのアルバイトをしていた。スーパーやコンビニなどに問屋から日用雑貨品を運ぶ仕事である。天皇崩御の第一報は、出勤間際の自宅のテレビで聞いた。前年の11月頃から既に「かなり危険な状態」にあられることは、国民誰しも判っていたとは思うが、実際にメディアから「ほうぎょ」の単語を聞かされると、矢張り私は私なりに血の凍るような思いがした記憶がある。

この日は土曜日で、私の勤め先の問屋は通常通りの勤務であった。乗用車に乗って、いつもなら聞く民放をNHKに変え、勤め先へ向かった。

勤め先の問屋の倉庫は大きなもので、2トン積みのトラックが一度に12台程度つけられる所だった。私はいつも遅く出勤する方で、私が出勤した時にはいつものように多くの運転手が既に荷積みの作業をしていた。ただ、言葉を交わすものは少なかった。タイムカードに時間を捺し、今日の自分の配達コースを受け取る。この日は、市内南区の柴田辺りから南へ下がって知多半島を一周するようなコースだった。空いたトラックバースを見つけて車をつけ、私も黙々と荷を積み始める。配達軒数や荷の量が多いと助手をつけてもらえるが、私より若いフリーターの子の名が助手の欄に書かれていた。やがて、彼も出勤してきて、二人でまた黙々と荷物を積む。

8時半から、作業を一時中断して、問屋会社の朝礼が行われる。所長が何を言ったかはまるで覚えていないが、ともかく9時頃には荷を積み終え、問屋の倉庫を出発した。

普段だと、まず運転手のたまり場になっているような喫茶店に向かいモーニングを摂るのだが、この日はそんな気分ではなく、助手の子にも頼んで喫茶店はパスさせてもらった。

「自粛ムード」との言葉もこの当時流行ったものだが、大型スーパーではそうも言っておれないから「新春初売り!」の幟を一応上げていた。1軒目の配達店にもそんな幟が上がっていたが、それを店員たちが大慌てで片付けている時に、私達が到着した。幟を抱えた男女の店員の慌てふためいている姿が、今も脳裏に焼きついている。

スーパーによっては、納入業者が納入した商品の陳列までしていかなければいけない店がある。1軒目の店もそうだったのだが、私たちはそのゴタゴタに紛れて、商品を売り場のバックヤードまで持っていくだけで、陳列はせずにとっとと逃げて行ってしまった。でも、世の事態が事態だったから、店からの苦情は来なかったらしい。

NHKのラジオは、トラックの中でもつけたままにしていた。これからどんな順序で世の中が動いていくのか、新しい元号は何になるのか、不謹慎ではあるが興味もあったからである。配達はこの後、東海市、阿久比町、半田市と順に南に下がっていくが、どこの店でも舞台裏は似たような騒ぎで、私たちはそれに乗じて陳列指定の店に陳列はしなかった。

昼頃だったか、JR武豊駅前を通りかかった時、ふと思い立って私はトラックを止めた。当時の武豊駅はまだ硬券の入場券を売っていたので、昭和最後の日付の入場券を買おうと思ったのだ。その画像を読み込んでここにアップしようと思ったが、どこにしまってあるのか見当たらなかったのでパスさせて頂く。

この武豊駅から程近いスーパーで、(珍しく)商品陳列をしている内に、元号が発表されたらしい。だから私はかの「平成おじさん」の生の映像は見ていない。陳列を終えてバックヤードへ戻ると、警備員のおっちゃんが「『へいせい』か」と呟いていたのを横目でちらと見たのだけははっきり覚えている。

仕事はこの後、常滑市、知多市と回って、16時頃には問屋の倉庫に戻ったように記憶している。普段は冗談ばかり言い合う仲のいい助手の子であったが、重苦しい雰囲気に二人とも余り会話を交わした記憶はない。

***

仕事の方はそんな感じであったが、翌日、日曜日で仕事が休みだったので、私はJR名古屋駅へ出掛けた。「平成初めての日」の様子をカメラに収めようとの魂胆である。以下に3枚の写真を掲載させて頂く。

Img1

当時の名古屋駅はまだツインタワーなど建っておらず、古い国鉄時代の建物だった。正面屋上には電光テロップ式のニュースなどが流れるようになっており、この写真にも「天皇陛下の崩御を悲しみ……」の文字が読める。

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駅のホーム側からも、さいぜんの電光テロップは読めるようになっていて、今度は「『平成時代』幕開け。……」の文字がある。記録によると当時の3番線ホームから、2番線に留置されている電車と共に撮影しているようだ。民営化後に大量投入された211系電車がまだまだ新品の頃で、ステンレスの車体が綺麗だ。

Img3

KIOSKで売られている新聞と電車を写しこんだもの。新聞の見出しには最大の活字で「平成」の文字が書かれている。同じく3番線ホームからの撮影である。

当時は全くの記録として撮ったつもりだったが、時が流れて20年、立派にブログのネタになってくれている。我乍らあの日に名古屋駅へ出掛けたのは、いい行動だったと思う。不謹慎と言われればそれまでだが。

私が現在45歳であるから、昭和が終わったのは25歳の時だったことになる。かなり様々な面で記憶も抜け落ちている。だが、人間、忘れるから生きていけるのであろう。一々全部覚えていたら頭の中は飽和して、爆発を起こすに違いない。自分の頭とて、物騒な事態にはなって欲しくない。

最近では、深刻な不況の問題が毎日のようにニュースの見出しを飾っている。また、現天皇陛下のご体調が少々優れないとの、歓迎しかねる情報も時折流れている。

「平成」の元号が発表された時、語源となった古書の言葉も併せて読まれていた。『天、平らかに、地、成る』がその一つだった様に記憶している。20年を経た今、改めてこの言葉を思い起こし、平穏な世の中になって欲しいものだと思う。雑な輪っぱ回しの私とて、いさかいのない穏やかな日々を送りたい気持ちに変わりはないのである。

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2009年1月 6日 (火)

新車乗務記

昨年12月19日の記事で、私たちの車庫に新車が2台搬入されたことを書いた。このうちの1台に先日、運良く乗務出来たので、そのレポートを書こうと思う。

おっと、その前に一つお詫びと訂正を。当の12月19日の記事で、新車の搬入に関して「これから隔日ペースで2台ずつ搬入され、旧年中に1次納入分は出揃うだろう」と書いたのだが、これは大きな誤りであった。あの記事で書いた2台以来、新車の搬入は捗らず、結局年末年始期間に突入してしまった。今日現在、あの時の2台以外の新車は来ていない。いつものペースだと、あの文の様になるのが普通だが、今回は納入されるペースが遅くなっている。この点、あの日の記事は誤りであったので、お詫びして訂正する次第である。

さてさて、やっと本文に入るのだが、新車の乗り心地については、いつもコメントを下さるN市のTさんがコメントで結構詳しく書いて下さった。その下知識を基に、私もハンドルを握ってみた。

運転操作のし心地は、人によって異なる。AT車の好きな人もいれば私の様にMT好きもいる。以下はあくまで、私の主観だけで書かせて頂くので、その点だけはご了解頂きたい。

だいたい私が新車と言える車に乗れるのは、初めてのことと言っていい。乗務してすぐ見た距離メーターは

Dscnodo

こうなっていた。ODOが何の略語かは知らないが、兎に角「総走行距離」を示している。私たちのバスは1日に140~50キロ程度走るので、乗務が始まって4日程度しか経っていないということだ。総走行距離1000キロ以下のバスのに乗らせてもらうのは、人生初のことなのである。

運行前に、今日の行程をコンピューターに入力する。これで案内放送や方向幕などは全て入力したとおりに作動してくれる。この入力方法がタッチパネル式のモニターに変わったことは、12月19日の記事で書いた。実際に行程を入力してみたが、不慣れもあってかスムーズにはいかない。ただ、かなりの場面でタッチパネルが使えるので(写真をご参照あれ)

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うまく使いこなせるようになれば、もう少し印象は変わってくると思う。

この日は、写真に出てしまったのでもう正直に書くが、「栄18系統 妙見町~栄」がメインの仕事であった。この路線は起伏が殆どない。ただ、私たちの車庫から妙見町までは、かなりのアップダウンがある。そういう意味では、両方の路線を運転できたと言えよう。

ギア比が低く、走行音の割に走ってくれないとの意見もあったけれど、これに関してはあまり気にならなかった。確かにギア比が低いことは感じたが、いすゞのV8エンジン車と同じ感覚で運転すれば、それ程の違和感はない。また、踏み込めばエンジンの噴きが良いので、それなりに速度が出る。街中で、混雑した車線を横切る時に思い切り踏み込んでみたが、ちゃんと踏んだ分だけ速度が出てくれたから、まあまあこの点は及第だろう。

私はV8車を運転する時、低速トルクが強いので早めにチェンジする癖があるが、これと同じようなチェンジをすれば問題ないようだ。思いの外、トルクが強いな、が第一印象。

何しろマニュアル車好きなので、片手が暇を持て余すAT車よりは気分よく運転できる。そのミッションの入り具合だが、これは過去のいすゞ車と殆ど変わらないとの印象を受けた。私の車庫に多く在籍する日野車は、日野独特のFFシフトと云う奴で、ギア入れに二段階の手応えがある。これはこれで悪くないが、一発でプシュッと入ってくれるミッションは、スムーズさも相俟って私的にはかなり好印象だ。

いすゞに関しては、過去のキュービックLVの格好悪さが頭に浮かんで、どうも好きになれないメーカーだったが、V8車が私たちの車庫に来てから印象が変わった。今回乗務した新車もいすゞ(規格としてはJバスになるが)なので、これでいすゞに対しては完全にイメージが変わったように思う。知り合いが「バスは格好で走るものではないのですから……」と言われていたが、まさにその通りである。

MT操作に関しては、その程度かと思う。

あと、私の乗務した車は、試験的に車内ミラーがワイドミラーになっていた。これは、今回の新車で各車庫1台ずつ試験導入されたものだが、N市のTさんが言われていたように、慣れない所為もあって目が魚眼レンズにでもなりそうだった。じっと見つめていると、目が回りそうになる。慣れてくると車内全体が見渡せて便利ではあるが、もう少しワイドさを弱めてくれてもよいような気がした。

レポート的なことはこれ以上書けない。以下は悲しい物語に移行する。

食事休憩の間に、モニターの操作方法などをちょいと覚えてやろうと思い、「兎にも角にも」の栄2往復をこなし、食事に入ろうとした時、食事休憩場の電話が鳴った。たまたま私が電話に出ると、私の車庫からの電話で「あ、おさかなさん? 今ねぇ、○×さんが別の路線でそっちへ向けて走っているんだけど、ギアが故障して1速にしか入らなくなっちゃったんだって。だから、○×さんがそこに着いたら、おさかなさんの車をそのまま譲ってやって欲しいんだわ。おさかなの乗る車は、おさかなが食事している間に車庫から別の在来車を持っていくから。」

がーん。

かように、私は新車につくづく縁のない野郎である。

従ってレポートもこれでお終いにします。

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2009年1月 4日 (日)

ハトポッポとの物語(1)

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かなり昔の話になるのだけど。

私が学生の頃、我が家へ遊びに来る1羽のハトポッポとお友達になったことがある。

当時我が家(実家)ではカナリア1羽とセキセイインコ数羽を籠の鳥として飼っていた。それらの餌のおこぼれを頂戴に、スズメに混じってこのハトも、いつの頃からか我が家へやって来るようになったのだ。最も古い写真は、私が大学へ入学する間際に庭を闊歩する姿を撮影してある。ということは、1982年の2月頃だと思う。

カナリアは母の趣味で飼っていたものだが、セキセイインコは父の勤め先に飛来するものを、父が同僚と捕まえて、我が家へせっせと運んでくれたものばかりだ。元々私が小鳥好きなので、父も気を遣ってくれたのだと思う。

そんな鳥好きの私の元へ、いつもいつも呑気に遊びに来るハトを見ていると、何となくコイツも可愛いなあと思い始めた。でも初めの内は、特別何をしていた訳でもない。スズメに混じって遊びに来るハト、と思っていただけで、コイツのために餌をまいたりはしなかった。ハトの方も人間に対しては警戒心があるから、一定の距離以上近付いてくることはなかった。

大学も2年になると学校の様子がわかってくるから、早く帰れる時はとっとと帰って、家でのんびりしていた。そんな日々が続くうち、家でも特別することがない私は、不器用な歩き方しか出来ないハトに興味を抱き、面白半分でインコの餌をばらまいてやったのである。奴は嬉しそうに餌のアワをコツコツと食べ始めた。スズメも飛んできて食べ始めたけれど、別に追い払うわけでもなく、一緒に仲良くまかれた餌を食べていた。意外と心の広い奴だなあと思ったのが、今から思うと、餌をやり続けるきっかけになったのかなと思う。

こうなってくると、スズメとは違いハトは体格がある程度あって警戒心も少ないから、人間との距離が縮まってきた。私が餌をばらまく距離もだんだん近くになってきた。

はっきりとは覚えていないが、大学3年の夏過ぎだったと思う。かなり間近に餌をまいても、喜び勇んで食べに来るいつものハトに、餌付けできないかなと思ったのだ。彼はだいたいいつも夕方4~5時頃、我が家へやって来る。彼が来るのを見計らい、「コリャ、一回俺の手からご飯を食べてみろ」と言って、縁側から餌で一杯になっている左手を差し出してみた。

奴も初めは「う~ん、欲しいんだけど……」と躊躇していた。私も意地悪して、絶対地面にはばらまかず、そのまま手を差し出していた。5分くらいのこう着状態が続いた後(私も暇人だったなぁ)、とうとう折れたのはハトの方だったのだ。トコトコッと歩み寄ると、さっと私の手から餌をついばみ、すぐにちょっと後ろへ引いた。私は「おー、遂に食べましたな」と言っただけで、左手はそのまま。餌をもらっても人間が何もしないと判ると、彼はまた私の手から餌をついばんだ。結局とうとうその日の餌は、全部私の手から食べさせられることになったのだった。

このことを機会に、彼の警戒心もかなり薄れて来たようで、縁側のたたきに餌をまいても、平気でそこで餌を食べるようになった。私も奴にかなり親しみが湧いてきて、ホームセンターで「ハトの餌」なんぞを買ってきて、与えるようになった。餌はもらえるわ、相手の人間は別に何も危害を加えないわで、それからは彼の方からぐっと距離を縮めてくるようになった。

大学の講義は、4時限目まで受けてすぐ帰ると、ちょうど彼の夕食タイムに間に合うような時間だった。餌がまかれていないと、彼はいつの間にやら洗濯竿がお気に入りの待機場所になったみたいで、そこで私が来るのを待っていた。初めに掲出した写真は、そんな彼の「待ってるスタイル」である。

実家にいるとき、私の部屋は2階の一室であった。彼がだんだん我が家の様子がわかってくると、私の部屋の近くに飛んできて「餌がないなぁ……」と言わんばかりに窓外の屋根をうろうろしていることもあった(実家の二階にベランダはない)。ただ、奴も家の中に入るのはかなり警戒していたようで、あくまで家の外から餌をおねだりしていた。こうなると、また意地悪心が湧いてきて、「家の中で食べてみるか」と私の部屋の中へ餌を置いてみたこともある。結果は、

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こうなってしまった。何しろ餌がもらえれば、彼は何でもいい様だった。

母も初めの内は、洗濯物にフンを引っ掛けたりするハトに向かって「ちょっと、あんた洗濯物が汚れるでしょ」などとぼやいていたが、次第に諦めたようだ。私が大学4年になる頃には、すっかり家族の一員のような顔をして、ほぼ一日中我が家の庭のどこかをうろついているような有様になった。

餌があれば何でもいいと云う奴だから、その内ナンパまでするようになったらしく(きっと「餌が一杯食べれますぜ」とか言って誘ったのだろう)、やがては彼女まで連れてくるようになった。ありゃありゃ、餌が2倍要っちゃうよ、とぼやきつつ、私は出血大サービスを続けていた。そんな彼女とのツーショット。

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右側の、色の薄い方がいつも来る“奴”である。

思い出はまだまだ続くのだが、このまま書いていたらとてつもなく長い文になってしまうので、今日はこれまでにしようと思う。何しろ、このツーショット写真は、大学4年(1985年)の5月頃に撮った写真だ。物語も1985年の春まで進んだものと思っておいてくだされ。

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2009年1月 3日 (土)

とある偶然

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12月30日から5日続いた勤務がやっと終わり、ちょっと一息ついているところである。

明日は休みなので、今晩は今年初めて実家で夕食を食べ、新年を祝うことになっている。だから今日の仕事が終わるまで、本当の気持ちを書くと、新年が来た気分など味わっている余裕も無かった。こんな年始は今年限りにして頂きたいものだ。

ところで。

私たちがよく出入りするHヶ丘に、小さなバスの操車場がある。バスが20台程度止められるだけの、本当に小さな操車場だ。

ここに、昨年12月19日に「新車搬入」の記事で書いた、お役御免の2台のバスが仮留置されている。私たちの車庫は狭くて廃車予定の車を置くスペースもないので、廃車のための処置をされると、よくここの操車場に仮留置される。写真一番手前が「私が3年間担当車として乗った」と書いた、社内番号H772号車である。もう、ナンバープレートは外され、いつでも赤ナンバーをつけて引っ張られていける状態だ。

手前側2台は私たちの車庫の車なのだが、何故か今回、他車庫の廃車車両も持ち込まれている。写真一番奥の車で、バス好きの方ならお判りだろうが三菱ふそうの車である。社内番号はRF125。理由はよく判らないが、まだ緑ナンバーがついたままになっている。

RF125号車は、基幹バスとして走っていた車をリフレッシュして、一般車に改造したものである。記号の「R」とは、リフレッシュの略だ。「F」は三菱ふそうを指す(その昔、「民生」と云うメーカーがあったため、三菱は「M」を使わない)。基幹バスとして走っていた時は、KF125が社内番号だった。

そしてこのKF125とは、私の見習い時代の師匠(指導役の運転手)が、担当車として新車で貰われた車である。つまり、『15年前の師匠と見習い』の担当車同士が、奇しくも現在同じ場所で廃車回送を待っているのである。

私の師匠は、もう定年を迎えられ、昨年春でOB乗務員も引退された。だから、ご自分が貰われた当時の新車が今どうなっているかなど、ご存知の由もないだろう。

師匠とは、年賀状だけではあるが、今も音信は続いている。元旦の日に、ちゃんと師匠からのお年賀も頂いた。勿論私も出した。でも、このことはつい最近になって起きた出来事なので、年賀状にも記していない。

この写真をきちんとプリントして、なるべく近い内に師匠に手紙で送ろうと思っている。こんな偶然が起きていますよ、との言葉を添えて。

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2009年1月 2日 (金)

飯山線の雪路(昼間編)

信州・長野と新潟を跨ぎ走る飯山線は、豪雪地帯を走る線として有名である。最近では、平成18年の豪雪で一週間以上不通になった。然し、それだけの地帯だからこそ、適度な雪の時ならどこでカメラを構えても、いい絵が撮れる。

2003年と少々以前のものであるが、1月に飯山線を撮影に出た時のフィルムを読み込んでみた。今日は「昼間」の部だけを5枚ほどご紹介しようと思う。

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ちょっとインチキと言えばそうなるのだが、これは2004年の年賀状でも使った写真。ウェブでは出していないからと思い、アップすることにした。見ての通り信濃白鳥駅でのものだが、この撮影旅行の時に一番気に入った写真だったから、年賀状でも使ったのである。地面に届きそうなツララを見ていると、撮った自分でも寒さを覚える。

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同じく、信濃白鳥駅にて、夕陽が西に傾きかけた時間に撮影したもの。幸いこの日は雪晴れで、行動するには良い按配だった。ただ、夕陽の色に染められたホームが、こうも眩しくなるのかと少々戸惑いながら写した記憶がある。正直に白状するなら、露出が判らなかったので同じアングルで2枚撮った。その内のマトモな方と云うことである。

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これもちょっとインチキ臭いかも知れない。上境~上桑名川で撮ったものだが、所謂「お立ち台」になっている所だ。たまたま日曜日か何かで、ここで少し粘っていると、後から母親連れの中学生くらいの子がタクシーでここへ乗りつけた。私は駅から苦労して歩いてきたというのに。とまれ、お立ち台になっているくらいだから、景色は悪くない。右側に見えているのは信濃川で、この日が曇りでなければ、もう少しはっきり写し止めれたかと思う。色温度が高くなってしまっているので、若干だが色補正をしている。

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ここは、あまりインチキでないつもりだが。森宮野原駅から20分くらい横倉駅方へ歩いた辺りで撮影したもの。広角レンズで撮ったから色調は硬くなってしまっているけれど、雰囲気はいいところだと思う。流れは上と同じく信濃川。千曲川との別名もあって、長野県側ではこちらの呼び方のほうが一般的だと、旅館の人に言われた。そう言えば、前は「ちくま」って名前の急行もあったっけ。

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初めの2枚と程近い、信濃白鳥駅から西大滝方面へ5分程度歩いたところで撮影したもの。この辺り、鄙び方がとてもいい。人気も少ないし、廃屋は雪下ろしをしないから「雪国」っぽい写真になる。キハ110系の気動車は四角四面で面白味のない車両だと思っていたが、こんな景色に埋もれてしまうと、これはこれで情緒があるように思えてくる。勝手なものだ。

月が改まって、これから暫くは雪景色が撮りたくなるシーズンである。飯山線の「夜間編」も予定しているが、余裕があれば、別の地域の雪景色もご紹介できればと思っている。

取り敢えず、本編はこれにてお仕舞い。

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2009年1月 1日 (木)

賀正

Dscn2009

皆様、明けましておめでとうございます。

旧年中は、多くのコメントやアドバイス、有難うございました。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

尚、上の写真は何もネタがないので、魚澄庵の壁の一部を適当に写しただけのものです。

                 魚澄庵庵主

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