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2008年11月

2008年11月30日 (日)

旧車移動

間もなく師走を迎えようとする日になったけれども。

私たちの職場の新車の納車が、年1回になってから、毎年大体このぐらいの時期に「旧車移動」が行われる。ここで言う「旧車」とは、納車予定の新車以外の車のこと全てを指し、廃車寸前の車のこととは限定しない。

その旧車移動が、私たちの営業所では今日行われた。新車が入ることによって車庫間で車の年式の新旧に偏りが出ないよう、既存の車を交換などの形で移動させ、どの車庫でも平均の年式がほぼ同じになるように調整する作業のことで、普段はハンドルを持つ機会の少ない非乗務の職員(私たちに点呼などをする係)が、実際には車を動かす。

基本として自分の車庫に入ってくる車は、自分の車庫の職員が引き取りに行き、自分たちの車庫から出て行く車は、出て行く先の車庫の職員が引き取りに来る。非乗務の職員でも土日は多少余裕があることが多いので、毎年土日に行われることが多いようだ。

今回私たちの車庫に入ってきた車の中で、変り種はこの車。Dscnns19

到着直後の姿で、工場の中へ頭を突っ込んでしまったのでバック向きの写真だが、社内番号NS-19号車。Nはノンステップ車、Sはメーカー(いすゞ)を示す。「NS」で始まる車は他にも多数在籍するが、このNSはノンステップ化されたいすゞの「ガーラミオ」の初期車である。多数派のNS車とは、中扉の形状が異なり、またトルコンスイッチも押しボタン式(ZF社製)である点などが異なる。私たちの車庫には初めての形式になる。これと入れ替えに、日野のノンステップ車が1台、この車の元いたJ車庫へ移動している。

Dscnh806

また、G車庫から一般用ツーステップ車、H-806号車もやってきた。これも移動直後の写真。ご覧のように方向幕は外されているが、車庫間移動の時は方向幕は取り外す。方向幕の内容は車庫によって全て異なっている。だから、他車庫の内容の方向幕を持ってきても仕方ないので、方向幕だけは旧の車庫へ置いてくる訳だ。そして、新天地へやってきた車は、すぐ稼動できるように、出来る限り早い内に車庫の工場職員が新天地の方向幕を取り付ける。

因みに廃車車両の回送の時も方向幕は取り外して走るけれど、その時は既に営業ナンバーも取り外して赤ナンバーをくっつけて走るから、それで区別がつく。

この他に、通称グリーン車庫との間で、多数派NS車と旧式NH(日野のノンステップ車)の交換があった。この多数派NS車は「LED式方向幕」なので、幕の取り外し云々の面倒な手間がない。最近、多くのバス事業者で方向幕のLED化が進んでいるが、このような時にもLEDの車は手間が少ない。データさえ入れ替えれば、すぐに新天地で稼動できる。

また、今年度で廃車となるツーステップのいすゞ車が一台他車庫へ出て行く。

私たちが知らされていたのは以上なのだが、車庫を見回したら他にも移動があった。

先程のJ車庫から基幹バス用の日野のノンステップ車2台(デジタコ付き)が、私たちの車庫の同じ基幹用日野ノンステップ車2台(デジタコなし)と交換となった。これは、来年4月からJ車庫が他会社に委託化されるのに伴って、委託会社側が自分の会社で使っているものと同じデジタコを全車に取り付けるために行われた移動だと思われる。

来るべきものは来たから、あとは新車の納車と最古年式車の廃車が、恐らく1月~2月にあると思う。因みに今年度の新車は、いすゞと三菱ふそうだそうで、全車MT車とのこと。また、これについては、動きがあったらお知らせしようと思っている。

おさかなの車庫からのお知らせでした。

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2008年11月29日 (土)

大糸線撮影結果ご報告

先日出掛けた、大糸線(非電化部分)のフィルムが上がってきた。

今回の旅行は、仕事の都合で出発直前になって予定を変更した部分があり、結局3日間出掛けても24枚撮りのフィルムを1本消費しただけと、少々残念な結果になった。元々列車本数の少ない地域だから止むを得ないことでもあるが、職場の事情が許せばもう少しゆっくりしたい旅行であったことは否めない。

そんな次第で少ない中から4枚だけだが、画像をご紹介する。

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最初に訪れた地点で、駅間としては小滝~根知になる。大糸線の南小谷以北は、山中の南小谷から海沿いの糸魚川まで一気に下るので、駅数の割には標高差がある。で、この辺りはまだ見られる程度の紅葉が残っていたので、それをバックにして写した。言ってみれば「ただ綺麗なだけ」の写真かも知れないが、川原に下りて自分なりにアングルは工夫したつもりである。

Img2

普段、撮影旅行に出掛ける際は、出来る限り「お立ち台」的なところを避けて自分だけの撮影地を探すのだが、今回は逆に「お立ち台」にこだわって撮ってみた。ここもそんな場所なのだが、見本写真(サイト)は105mm程度のレンズで写してあった。それが私には不足気味に思えたので、思い切って自分の切り札300mmを使ってみた。これでも雪や周りの表情などが判る程度に写っているが、如何なものだろう。撮影地点は北小谷~平岩。

Img3

頸城大野駅から根知方面の大野トンネルまでは、アングルの宝庫と本に書かれていた。本来はここを一日かけてじっくり撮りたかったのだが、前述の事情で半日しか時間が割けず、その上ここへ着いてからはずっと雨で、ポイントを探すのには苦労した。結局は勾配標が立ててある区画を踏み台にさせてもらい、逆S字カーブを撮った。実際にはかなり暗くて、絞りはf2の開放・シャッター速度は1/60秒まで落としている。列車の速度がのろくてブレなかったのは僥倖だった。

Img4

私が最近撮るように心がけている「イメージ」的な写真。折角の国鉄カラーが走る線に赴いて、こんな写真を撮るのは勿体無いとのご批評もあろうが、どちらみちかなり暗くなっていて、然も雨脚が強くなっていた。それで帰り間際に頸城大野の駅ホームから、こんな写真を撮ってみた。雨だからこそ撮れた写真だと勝手に思っている。因みにシャッター速度は2秒かけている。

いつものように、三流写真家の撮るものだから、大した絵はない。自分自身、少しでも心の休養になればとのつもりで出掛けているから、尚のことだろう。温泉に2晩浸かれただけでも良しとして、お粗末な結果ご報告とさせて頂く。

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2008年11月28日 (金)

皆さんはどう思われますか?

明日は自分の公休日。幸い、私の悪かった体調はお蔭様で大分よくなった。実家の方のことはこれから当分続きそうなので、すぐには解決しないと思うが、取り敢えず今日はこれを書く余裕が出来たから、3日ぶりくらいでちょっとした記事を書こうと思う。

あ、本文に入る前にもう一言。先程書いたように、ちょっと実家で歓迎しかねる事態が起きていて、多分これから当分の間、今までのように毎日は書けないと思う。以前も書いたように、これを書くことは私の気晴らしなのだが、気晴らしが重荷になってしまってもつまらないから、やれる範囲でやっていこうと思っている。

と、前置きが長くなったところで、いい加減本文に入りませう。

今日のことなのだが。

仕事で、始発のバスターミナルを発車した直後のこと。

ここのバスターミナルは、ターミナルから本通りへ出る際に信号があって、当然のことながらその信号に従ってバスターミナルを後にすることになる。信号が赤なら、これまた当たり前のように、ちょっと止まって信号が変わるまで待たなければならない。

で、私はその赤信号に引っかかって、信号待ちをしていたのだ。位置としては、自分がお客さんを乗せたバス停から、15m程度移動した位置になるかと思う。区分としては車道に当たる部分で、ここでの客の乗降は原則として禁止されている。

ところが、外からおばさんの声がして、どうも私のバスに乗せて欲しいらしい。バスのすぐ横まで来て何か言っている。私はマイクを車外に切り替えて「ここでのご乗車は危険です。次のバスでお願いします」と言った。これは、営業所の業務習得でも言われていたことで、ここでは乗せてはならない、柔らかい言葉で乗車を断りなさいと指導されている。その通りにしただけだ。

一旦諦めたかと思ったおばさんだったが、今度は年配の女性も連れてまたバスに近付いてきて、前扉を叩いた。

私が担当していた路線は、昼間は1時間に1本しかない。乗せて欲しい気持ちは判るけれど、規則は規則である。仮に私がこの危険なところで扉を開いたばかりに、その女性らが怪我をするような何かが起これば、全責任は私にかかってくる。それに、1時間に1本だということは判っている様子であったから、それならちゃんと間に合うようにバス停で待って乗るのが筋というものだろう。私はたまたま赤信号で止まっていただけで、実質バスはもう始発のバス停を発車しているのだ。

私はもう一度、外マイクに切り替えて、先程と同じことを丁寧かつ少し強い口調で言った。2人の女性が私を睨み付けてバスから去ろうとした時、信号が変わったので、私はさっと発車した。

正直言って、良い気分ではなかった。先程も書いたように、乗せて欲しいとの気持ちは判るけれど、最後に睨み付けられたのが不愉快だったのだ。自分たちの権利だけを主張して、道路法規はどうでもよいと言わんばかりの態度も気に入らなかった。

ここまで書いて、バスの乗務員或いはそれに近い仕事をしておられる方なら、多分私の肩を持って下さるだろう。でも、乗客としてしかバスに乗ったことのない方なら、私の行為に対して「意地悪だな」と思われるかも知れない。

お堅いことを書くなら、バスの車内にこんな注意書きが張られているのだが……。

Dscn

おばさんたちの行為は、明らかに青線の部分に引っかかる。

で、話はこれで終わらない。

始発から20分くらい走ったバス停だったろうか、降車ブザーが鳴ったのでバス停に車をつけると、降りようとした老年の男性がわざわざ運転席まで来て「さっき、変な所でバスに乗ろうとしたお客があったけれど、あれを乗せなかったのは大変良いことだと思います」と言って、小さく一礼してから降車口へ向かったのだ。

この何年か、仕事をしていて嬉しいと云う感情を持てたことは皆無に等しかった。

だが、あの老年男性の言葉は、本当に心から嬉しかった。判ってくれる人もいるのだ、との思いで、とても気分がよくなった。本当に、仕事でこんなに嬉しく思えたのは何年ぶりだろう。

私はバス乗務員の立場で書いた。読まれた方はどのように思われるだろうか。

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2008年11月25日 (火)

大糸線南小谷以北撮影旅行

11月22~24日の3日間、大糸線の北部部分(非電化部分)の撮影に出掛けた。

本来ならいつものようにゆっくり旅日記を書きたいが、私の体調が思わしくないことと、家庭の事情でちょっと時間が取れないので、今回は途中でのデジカメ画像をアップして、簡単な説明を付すだけとさせて頂く。

Dscn1

松本から大糸線に入ったばかりの車窓。山の麓は紅葉、上部は雪化粧である。

Dscn2

今回の撮影目的はこの列車。何度見ても国鉄時代の塗装はいい。小滝駅で発車した姿を、大急ぎでデジカメで撮ったもの。

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初日はここの鉄橋を中心に撮影していた。こんなに暗くなるまで粘っていた。

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宿は、この駅のすぐ近く。立派な駅名板は、無人駅ながら歴史が感じられていい。

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今回の旅行のもう一つの目的はこれ。久し振りに温泉でゆっくりしようという魂胆だ。

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2日目。撮影地へ向かう途中で見つけた道標。古くから「千国(ちくに)街道」は、塩を長野県に運ぶ道として、重要がられた。この塩が届く最終地点が塩の尻で、「塩尻」と云う市名として現在も残っている。

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列車のカラーは先程のものと違うが、形式は先程のものとまったく同一。これも国鉄時代の塗装で、これを目当てに全国からファンが集っている。

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上の写真から30分程度しか経っていないが、天気予報どおりに昼から雨となってしまった。

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時折雷も鳴る不安定な天気。一時的に陽が射すこともあり、こんな架け橋も暫しの間見られた。

Dscn10

帰りに、南小谷駅で撮ったもの。駅ホームの除雪機だ。もう11月も下旬。これの活躍する日も近い。

***

誠に駆け足での軌跡のご紹介となってしまったが、初めに書いたような事情なのでお許し頂きたい。

尚、同じ理由により更に2~3日、こちらは休載とさせて頂くので、いつもお読みくださっている方々にはお詫び申し上げます。

また時間が取れたらちゃんと復活させるつもりですので、よろしくお願いします。

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2008年11月21日 (金)

イテテの季節

Dscn3895

寒さと共に、空気の乾燥も本格的になってきた。

いつ頃からか覚えていないのだけど、冬になると手の指があかぎれるようになった。今の職場に入った時はこんなことにはならなかったから、多分ここ10年くらいのことだと思う。

今年も、上の写真の如く、早くも右手の親指の先がぱっくりと傷口を開けている。今のところ、この1ヶ所だけだが、寒さと月日が経つにつれ、人差し指・中指と拡大していく。もちろん、左手も同じこと。

尿素入りのハンドクリームが良いと聞き、仕事用の鞄の中に常備している。それでも、痛いなと気がついたときはかなり重症になっていて、もう血が滲んでしまっている。血が滲んでからハンドクリームを塗ったところで、手遅れなのだ。

指の先端だから、末梢神経と呼ぶのだろうか、これがかなり敏感なのだ。この写真くらいの状態になっていると、ちょっと傷口の辺りを何かにぶつけただけで、かなりの痛みが走る。私は仕事中、案内放送用のマイクを常時オンにしている。で、うっかりハンドルを握り損ねたりしてハンドルに傷口の辺りをぶつけると、思わず「ア、イテテテ……」と呟いてしまう。多分、客室の方にもこの声が流れてしまっているだろう。お客からすると、この運転手、一人で何を痛がっているんかいな、と思っているかも知れない。

高校生の頃までは、足の指のしもやけに悩まされた。これは、いつの間にか消失した。その代わり、みたいな感じで、あかぎれがオジンを悩ませている。

以前医者に聞いたら、植物性油脂を摂取するとなり難いと言われた。大豆やとうもろこしなどがいいそうな。冬になると、極力、豆腐を食べるようにしている。医者も「豆腐と油揚げばかり食べてなさい」と言っていた。

でも、毎年冬になると、律儀にばっくりと傷口を開けてくれる。まったくもって、何とかならないものか。

***

明日から3日間、例の如く撮影旅行に出掛ける。24日は早く帰ってくるが、帰ってから別の用事があるので、多分25日までこちらはお休みになると思う。ご了承あれ。

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2008年11月20日 (木)

入試の思い出

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昨日、この秋(冬?)初めての風呂を沸かした。今までずっとシャワーだったのだ。また部屋の暖房も初めて使った。寒さも半端ではなくなってきたから、私も気持ちだけはそろそろ冬ごもりである。

さて。

今日、用事でとある大学の前を通りかかったら、もう「推薦入試」の文字があった。ちょっと車を止めて写したのが上の写真である。

それにしても早いものだなと思う。もう入試なんて。もちろん大体の大学では、推薦入試は年内に行うケースが多いのだが、11月20日でもうそんな季節かな、と思う。

然し、かく言う私も実は大学は推薦入試で入った。

自分の入試が何月何日だったかはもう忘れたが、とにかく日曜日に試験で、合否発表の通知も日曜日に来た覚えはある。クリスマスもお正月も笑って過ごせられたから年内だったことは確かだけれど、12月に入ってからじゃなかったかなあと思う。それこそ押入れから昔の日記を取り出せば判るのだが、ゴミに埋もれたくないので捜索は止めておく。

それにしても高校時代は学校に反抗して、殆ど勉強しなかった私が、よく推薦なんぞを受けさせてもらえたなと今更ながらに思う。成績はどう贔屓目に考えたところで下から数えた方が早い順位だったし、学校の詰め込み主義のやり方そのものが気に入らなくてわざと教師に反感を買うようなことばかりしていたから、教師からも殆どサジを投げられていた。

具体的に受験する学校と学部が決まったところで、母親も加えた三者面談があり、その時に母の口からとんでもない言葉が出たのである。「あの、推薦入試などは受けさせて頂けないでしょうか?」

聞いた瞬間、私の体が氷ってしまった。この親、一体何を考えとるんじゃ、と。そして当然教師も一瞬困惑の表情を見せたのは今になっても忘れない。でも、そこはそこ、流石に教師である。さりげなく逃げるような言い方をしたのである。「うーん、受けてみる価値は全くない訳ではありません。ご本人が希望されるなら、そのように考えますが」。

あまりにとんでもない親の発言だったから、その時の様子はよく覚えていて、教師の言葉もほぼ書いた通りだったはずだ。

私の受験したところは、推薦だと「論文・面接」と内申書だけで決まるというので、作文だけで他の勉強をしなくても済むのなら、とナマケモノの私も一応は心を決めた。面接は礼儀正しく目的をはっきり言えば何とかなるといわれていたから、これで受かればモウケモノのつもりで受けた。そしたら何をどう間違えたのか、本当に受かってしまったのであった。

私の成績を漏れ聞いていた父でさえ、かなり驚いた表情であったし、何より一番吃驚したのは担任教師だろう。更に、結果報告を学年主任の教師にしに行ったところ、私の悪評をよくよく知っている学年主任であったから、何と握手まで求められた。「おさかな君、よく頑張った」と言って。はっきり言って何も頑張っていないのだが。

そんな次第で、12月中頃からは益々何も勉強せずに、そのまま最低レベルの成績で高校を卒業した。クラスの仲間がもっともっと難易度の高い学校を目指して必死で勉強していたのに、そして中には浪人をした仲間もいるのに、私のお受験はそれだけのことであった。

お粗末過ぎて、これではブログの文章にもならぬ。

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2008年11月19日 (水)

職場のトラブル

昨日・今日と2日続けて、職場でトラブルがあった。何れも私の休暇や勤務時間に関することである。

詳しくは書かないが、私たちの職場では、休暇の最終決定権は労働組合が握っている。だから、トラブルがあれば最後には組合に話を持っていって、妥協案を出してもらったり、無理を聞いてもらったりと云うことになる。

だが現在、職場の人数が極端に不足している。それで、本来組合が持っている決定権が営業所長などの「職制」側に事実上移ってしまっている。本来なら組合と点呼などをする係とで話し合って、最終決定するという長年の構図が崩壊している。

私の所属する班では、現在中々休暇が出してもらえないからとて、独自で休暇を調整する方法をとるようになった。ところが、その盲点をついた形で、私が出ると思っていた休暇が実際には出ないと判ったのである。それも休暇を取る4日前になって突然言われて、初めて判ったのだ。

人員不足は、色々な問題を引き起こすと改めて思った。本来の休みの日に無理に休日出勤をやらされている現在、せめて休暇くらいは制度に則って出して欲しい。だが、人員不足が職場に歪みをもたらしてしまっている。休暇の制度も崩壊しかけているのが現状だ。

昨日の件は私が折れ、今日の件は結局無理を聞いてもらって私の仕事を労組の支部長が代わりにしてくれることで、何とか収まった。同じ職場に居るもの同士でいがみ合っていても始まらないから、どこかで折れるところは折れなければ仕方がない。

抽象的な書き方しか出来ないので、第三者の皆様にはお判りになり辛い点も多いだろうが、図太い私でも気痩せしそうなことが本当に最近多い。

くどいようだが、職場の状況改善が一日も早く行われることを願わずにはいられない。

今日は精神的にグッタリした。

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寒冷前線通過

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昨日(11月18日)の夕方17時少し過ぎ、寒冷前線が通過した瞬間の映像である。

ちょうど私は自家用車に乗っていて、信号で止まっていたら急に突風と共に雨が降ってきた。夕方頃から寒くなると天気予報で言っていたから、すぐに寒冷前線の通過に違いないと思い、車のフロントガラスに当たった雨粒と複雑な色の空を写した。

雨は1分も経たない内に止んだ。一瞬の出来事だった。

昼間の内は暖かくて、夜までもってくれないかなと淡い期待を抱いていた。実際、11時頃にバスの中では、少し汗ばむくらいの陽気だったのだ。

この「1分の雨」を境に、ぐんぐん気温が下がり始めたのが判った。17時50分くらいから、バスに乗務していたのだが、いつも半分開けにしている運転席横の窓から吹き込む風が、みるみる冷たくなっていく。

22時頃乗務が終わった時には、はっきり言って「寒い」と感じた。

いよいよ、冬の到来だ。仕方ないよね、今日は11月19日。もう寒くなったって当たり前の日付だ。あの雨が降ったときが「秋の最後」だったのだろう。

今夜は暖房して寝ようかなあ(只今0時28分に書いております)。

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2008年11月17日 (月)

雑餉隈

タイトルをすんなりと読めた方は、古くからの鉄道通か福岡近辺にお住まいの方ぐらいだと思う。

これ、「ざっしょのくま」と読む。現在、鹿児島本線に「南福岡」駅があるが、これの旧駅名である。手元の資料では、昭和41年11月に現駅名に改称されたそうだ。まだ雑餉隈と呼ばれていた時代に、駅横に「南福岡」と称する電車の車庫ができ、以来ここの駅を起終点とする列車も多く存在するようになった。

少し話は外れるが、私がいつも部屋に溜め込んでトクトクとしている列車のサボ(行先表示板)や愛称表示板にも、1両1両の列車のように所属する場所が決まっている。

例えば、「名古屋⇔東京」と書かれたサボがあったとしよう。そして、名古屋と東京を一日に2往復の在来線の特急があったと仮定する。発時刻は名古屋も東京も朝8時と昼過ぎの15時に発車する列車同士としておこう。そうした時、このサボは、名古屋発の列車にも東京発の列車にも初めから取り付けられていなければ当然のことながら都合が悪い。それならば、名古屋を朝発つ列車に取り付けるサボは、名古屋で管理していた方が便利である。逆に東京を朝発つ列車のサボは、示している内容が同じでも東京で管理していた方が都合が良い。誠に簡単な仮定の例での話だが、サボや愛称板にもそんな次第で「受け持ちの(所属する)駅や車庫」がある。

その所属する場所を、サボなどにも片隅に小さく書いておく場合が多い。誠にマニアックな話になってしまうが、駅や車庫の名前はカタカナの2文字で略して書かれるパターンがある。名古屋なら「ナコ」とか東京なら「トウ」など。このパターンでは濁点は略し、「ょ」や「っ」などの小文字も大文字で示すのが前提になっている。また、場合によっては○の中に漢字一文字で表すパターンもある。名古屋なら○の中に「名」、東京なら○の中に「東」などと書く。例外も多々あるが、これらの略号は、マニアなら大体すぐ判別できる。ただ一般の方には判り難いものも多いので、詳しい説明は略させて頂く。

さて、それで、やっと元の話に戻るのだが。

Dscn

今日、公休日だったので、栄にある鉄道ショップへ出掛けた。そこで上の写真の表示板を見つけたので買ってきたのだが……。

ここで、さいぜんの話に出てくる「所属箇所」と思われるものが左下に書かれているのがお判り頂けると思う。「○サマ」と云う奴だ。先程の話で言えば、「カタカナ2文字で所属箇所を示す」方のパターンである。因みに前提を申し上げておくと、この種別板は北九州地区で使われていたものとのこと。

北九州地区で、列車の起終点になるところで、略すと「サマ」になる駅はどこだっけ?と考え、鉄道オタクの私にはすぐ判断がつくことになっている。「ああ、雑餉隈(ザッショノクマ)だな」と。

先程書いたように、雑餉隈駅が南福岡駅に改称されたのは昭和41年の話。だから、それ以前から使われていたものということになる。ざっと40年以上は経っている代物だということも判る。

40年以上経っていても、錆や塗装の剥がれなどはそれ程ない。大体が、今時に「サマ」を所属とした表示板など中々鉄道ショップを探しても見つからない。そして、値段を見て「ウン、これなら納得行くな」と思えたのでご購入と相成った。

鉄道マニアの方以外にはどうでもいいような話になってしまったが、どの趣味の世界にもちょっとした専門知識はあると思う。それの「鉄道版」のお話だったと思っておいてくだされ。

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2008年11月16日 (日)

晩秋の日豊本線にて(3)

日曜日の5号勤務だから週休の筈だが、ちゃっかり休日出勤を割り当てられている。本当にこんな職場に居て自分はいいのだろうかと、やりきれない疑問が頭をもたげている。早く4月が来て欲しいけれど、4月になるとまたそれはそれでちょっとしんどくなりそうで。

考えていても仕方ないので、絶賛不評中の日豊本線編、第3弾をご披露する。

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この時期になると水田もすっかり涸れた表情になって、冬間近を思わせる。しかし、こちらの心の内をまるで無視するかのように、白い特急が颯爽と走る。どうもJR化後に新製された九州の特急列車は、どれも気に入らない。変にデザインに凝り過ぎているのが一番の理由だろう。色が白かったり、ドアが車両の中央にあったり、座席がミッキー○ウスみたいだったり。こういう景色にこそ、国鉄のありふれたクリームに濃紅の電車が来て欲しい。豊前善光寺~柳ヶ浦にて。

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鶴崎駅構内で見つけた、使われなくなった分岐信号機。ここは国鉄時代は貨物の扱いもあり、構内は結構広い。今でも普通電車の折り返し駅としての機能はあるけれど、そんなものは構内に3本の線路があれば事足りる。で、貨物を扱った時代の何本もの側線は、お役御免となってしまい、ポイント用の信号機にも無残にバッテンがうたれている。JRになって20年なのだから、そろそろ頭を切り替えなければと思いつつ、まだ後ろ髪を惹かれる思いがあちこちに散見する。

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鶴崎から北を眺めると、鉄橋を渡るために築堤を上っていく列車の姿が見られる。この辺りはまだ大分の郊外住宅地といった感じで、マンションや住宅が多く見受けられる。それらを少しでも隠すためにタテ構図とした。でも、こうして見ると一直線に伸びた線路が結構気持ちいい。走り去る列車も一応国鉄型なので、撮った本人もまあ納得できる写真である。高城~鶴崎にて。

Imgre

列車が走っているだけの写真ばかりではつまらないから、最近、自分なりに色々構図や被写体の中心を考えている。多くはプロの写真の模倣になってしまうが、模倣でもワンパターン写真の羅列よりはいいと思っている。これは特に模倣と云う訳でもないが、日代駅からトンネルに吸い込まれていくRED EXPRESSが絵になるような気がしたので撮ったもの。トンネルも勿論側面では全く役に立たない題材だが、正面から狙えるところはそれなりに構図をまとめると面白いような気がする。日代~浅海井にて。

講釈ばかり垂れた第3弾だけど、とても見れない写真はアップしないように心がけているつもりだ。何分にも3流写真家なので、多少のお見苦しい点はご堪忍を。

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2008年11月15日 (土)

気動車特急「くろしお」が来ていた頃

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名古屋から紀伊半島方面へ行く特急は、現在「南紀」と名乗っている。車両もJR化後の85系という気動車が使われているが、民営化されて暫くは国鉄から引き継いだ80系気動車が使われていた。そして更にずっと遡って、昭和53年10月のダイヤ改正までは、現在では天王寺と新宮を結んでいる電車特急「くろしお」が、気動車特急として1往復だけ名古屋まで乗り入れていた。というより、名古屋から紀伊半島へ向かう特急は、この「くろしお」が一日に1往復あるだけだった。

また少し昔のネガを漁ってみたので、僅かな画像だがご紹介しようと思う。尚、この当時、私はオリンパスのPEN-EEというハーフサイズで写るカメラを使っていたので、画像処理上、写真の縦横比や大きさに違いがある。また画像もよくないが、ご容赦頂きたい。

さて、表紙のように使った上の写真であるが、天王寺へ向かう「くろしお」が入線してくるところである。当時は10両編成だったようで、現在の「南紀」がせいぜい5両で運転されているのと比べると、大きな差がある。名古屋発が9時50分だったので入線は9時30分頃だと思われる。

Img_2

これが、当時の「くろしお」のサボ(行先板)。天王寺と名古屋を紀伊半島回りの直通で結ぶなど、今の発想ではあり得ないだろう。関西線を経由するのではなく、紀勢線経由でぐるっと回って天王寺へ行くのだから、全区間を乗る客などなかったと思われる。

それにしても、当時から私がサボに大変興味を示していたのは、この写真一枚を見てもわかる。わざわざサボだけの写真を撮っているのだから。因みにこのサボと全く同じものが、先日、鉄道関係の部品屋で15万円で売りに出されていた。私も思い出深いサボで咽から手が出る気持ちだが、この値段では如何な独身気儘者の私でもちょっと簡単には手が出ない。

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名古屋へ来る「くろしお」で忘れてならないのは、ブルドックの愛称を持つキハ81型が天王寺方に連結されていたことだろう。元々は東北本線・常磐線の特急「はつかり」号で使われていたので「はつかり型」との呼び名もある。「はつかり」の登場は昭和35年12月のダイヤ改正、そして、この「はつかり型」は昭和53年10月の改正で全廃となっているから、僅か17年余の短命で終わった車両と云うことになる。この写真も、53年9月に撮影しているから、まさしく「晩年の姿」だ。

Img80

“ブルドック”を追う人たちの反対側は、比較的当時はどこでも見られたキハ82型であった。ただ、時間帯によっては中央本線を走る「電車の80系」と並ぶ姿も見られて、こちらのサイドも今となっては時代を感じさせる風景だったと思う。時間から言って、電車の80系の方は9時40分発の高蔵寺行きだと思われる。

まだこの当時は、私がそれほど「カメラ」に執着していなかったので、あまりいい映像もないが、探せば多少はこんなものも出てくる。

***

ところで、先日の『昭和54年3月・名古屋駅〈続編〉』の記事で、名古屋に181系気動車が来なかった理由を「扱える技術者がいないから」と記したが、とある方から正確な情報を頂いたので、訂正したい。理由は「181系気動車のトラブルが多いので、名古屋の技術者たちが名古屋地区に同車両が来るのを拒んだから」だそうだ。お詫びして訂正します。

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2008年11月14日 (金)

色づく街

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私の職場から然程離れていないバス停付近の歩道である。朝の内は、陽の光が歩道にも当たってもっと鮮やかだったのだけれど。

季節としての秋は、あまり好きではない。気候は爽やかになり好きだけれど、どうも背後に冬が待ち構えていると思うと、素直に喜べないのである。

そんな季節の楽しみは、紅葉だ。食とかアウトドアとか、人それぞれ楽しみはあるだろうが、私は街を走るのが仕事だから、走りながら木々の葉の色が鮮やかになっていくのを、せめてもの楽しみにしている。もっとも、こんなものばかり見ているのですぐバスをぶつけてしまい、上司に叱られてばかりいるのだが。

ともあれ。

私たちの営業所は、街中よりは郊外の方が担当路線が多い。私が引っ越してきた当時は街路樹など植える余裕もないような殺風景な辺りだった。それが、住宅地として発展するようになってから街路樹が増え、程々に木の種類も混植されているので、緑・黄・赤と「葉の3原色」が楽しめる。これから半月ばかりが、一番鮮やかな季節になると思う。

ただ残念なのは、一番綺麗な時期に、街路樹の剪定作業が重なってしまうこと。私の知人も造園業をしていて、市からの仕事を落札したりしているので文句は言い辛いが、もう半月、剪定時期を遅らせてくれればなあと思う。色々それぞれに事情があって、勝手も言えないから止むを得ない。

あ、今日のタイトルは、私たちの世代の方なら大体の方がご存知だと思うけれど、南沙織さんのヒット曲のタイトルをそのまま借用した。個人ブログでもネット上に晒す限りは、一言お断りを入れておかないとうるさい世の中なので。

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2008年11月13日 (木)

カセットテープのCD化

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10月24日の記事で、カセットデッキのノイズ除去装置が、何故か動くようになったから、CD化を急ぎたい、と云う旨の話を書いた。実際、アナログ機器はオーディオの世界でもどんどん消え去っており、出来るだけ急いでCD(デジタル)化しないと、誰も保障してくれないような世になりつつある。

そんな次第で、私も暇を見てはちょくちょくカセットテープをCDに録音している。私は、以前にCDレコーダーを買っているので、これが活躍してくれる。

自分が音楽好きなことも以前に書いたと思うけれど、私が聞く曲は1970~80年代の曲が中心である。

最近は、自分が漫然と日々を送っているからだろうか、特にこれといって思い出に残ることが少ない。私が色々な曲を好きになるのはその当時の出来事が、曲と共に思い出されるからでもある。だから、何もない(仕事三昧だけの)ここ最近、特に好きになった曲もない。また、年寄りじみたことを書くと、この頃の曲のテンポがあまり私の波長に合わないので、余計好きになるような曲も登場しないように感じている。

余談が長くなった。兎に角、CDレコーダーに生のCDを入れ、テープから一枚のCDを作っていくのは、これはこれで結構楽しい作業である。ただ、CDは一度録音してしまったらカセットテープのように消去や上書きが出来ないから一発勝負で、その点はちょっと神経を使う。また、途中で作業を中断すると、どのテープをCD化したか忘れてしまったりするので、出来る限りまとまった時間のある時を選んで、作業する。

あの記事を書いてから、今日までに、5本のテープから3枚のCDを作った。少ない枚数だが、仕事が多忙でまとまった時間が取れない昨今なので、これが精一杯である。

でも、確かにCDにするとテープのように引っくり返す手間も要らないし、連続再生も出来るし、何かと便利だ。カセットテープはメーカーも種類も色々あったものだが、CDはどこのメーカーのものを使っても大きく音は変わらない。ただ、エラーを発生させることが少ないメーカーは間違いなく存在する。私は、そのエラーの少ないメーカーのCDで統一している。

出来上がったCDには、自分なりの符号番号をつけ、何の曲が入っているかは上の写真のようにCDのケースにその符号番号と共に無造作に貼り付けるだけである。

自分が楽しむものだから、自分だけが判ればよい。それで、こんな方法で今のところはやっている。

取り急ぎ、あの記事で書いた「dbx」のノイズリダクションをかけたものだけでも、早くCD化しておきたい。まとまった時間がより一層欲しい、今日この頃である。

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おぉ、年金記録

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今日は公休日明けの遅い勤務。ただ、書かなかったけれど一昨日の勤務後に、今日(11月12日のこと)の正規の勤務前に、時間外勤務をして欲しいと点呼の窓口でつかまってしまい、渋々承知したから、朝は6時45分に出勤している。この仕事は10時40分頃に終わり、一旦魚澄庵に戻り2時間少々グータラ寝ていた。本チャンの方は、14時46分からの仕事。トータルの勤務時間は結構長くなって、しんどい。

で、また気晴らしにこれを書くのだが。

本チャンの出勤点呼を済ませた後、所内掲示で庶務へ呼び出しがあったので担当の方のところへ行くと、上の写真の「ねんきん特別便」なる封書を手渡された。「おうちへ帰ってから開けましょう」とは書いてなかったので、車庫を出発するまでの時間で封書の中の自分の年金記録を見てみた。昨今の年金記録紛失問題などのために、職場へ直々、各個人宛に「社保庁が保管している範囲での記録」を渡されたらしい。同様のものを渡された方も多いのでは、と思う。

私は今の職場に辿り着くまでに、あちこちの職場を点々としていたから、一度社会保険事務所に行かねばとは思っていた。自分の記憶力は三流以下と自負しているが、勤めた所ぐらいは覚えている。だから向こうの方から記録を送ってくれるとは有難い。

有難いのはいいけれど、あったのだ。「記録の漏れ」が。

その昔、私立学校の職員として1年間スクールバスの運転をしたことがあったのだが、その1年がごっそり抜けている。やってくれたね、舛添君という感じである。

私立学校は、その学校の出身者などの身内で職員を固めることが多く、よそ者の私には居心地の悪い職場だった。それに「スクールバスの運転手」との条件だから入ったのに、実際にはパスの運転は日に3時間程度で、あとはやりたくもない事務屋をさせられていた。

私は事務屋が嫌で今の現場仕事を選んだのだから、もう事務は懲り懲りとばかり、1年でそこは辞めてしまった。おまけに良い印象がないからとて、当時のものは殆ど廃棄してしまった。私立学校だから私学の共済組合だったことは確かだ。年金手帳までは廃棄していないと思うが、今更どこにそれらの書類があるのか、とんと見当も及ばぬ。

幸い、回答用紙が附属しており「記録の誤りや漏れがある方で、不明の部分がある場合は空欄のまま返送してください」とあるので、判らないところは空欄のまま職場の庶務へ提出するつもりだ。その私学に勤めていたのは20年近くも前のことだから、下手にゴミまるけの押入れを引っくり返した挙句、ゴミの下敷きになったりするのはあまり好ましくない。

判るところはちゃんと書くから、あとはよろしくね、社保庁さん。

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2008年11月11日 (火)

昭和54年3月・名古屋駅〈続編〉

先日アップした昭和54年当時の名古屋駅の映像がもう少しあるので、スキャナで読み込んでみた。もう暫く、懐かしの映像とお付き合いいただければと思う。

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名古屋のDC特急は、今と同じ「南紀」と「ひだ」だが、当時は82系が使われていた。本来は53年10月改正で、1往復だけ残っていた大阪行しなのと同様の181系に置き換える予定だったらしいが、名古屋に整備関係で181系を扱える人がいないとの理由で、82系のまま据え置かれたと聞いている。何れにせよ、名古屋では82系の先頭車を中間車扱いすることは滅多になく、珍しいので撮っておいたものだ。この写真の大きさでは読めないが、サボには「金沢行(高山線経由)」とあることから、15時30分発の「ひだ7号」らしい。

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先日アップした、中央線の荷物列車5043レの全景である。停まっているのは4番線で、この頃の3・4番線は東海道筋も含め荷物列車が主に使用していた。隣に小さく写っているのは「しらさぎ」で、こちらは5番線になる。今では信じられないことだが、この頃の東海道線の普通・快速列車は1時間に1~2本しかなかったので、5番線は名古屋始発の「しらさぎ」や「ひだ」に使われることが多かった。

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時刻表を調べてみても、昼間時に客車列車の設定はないから、団体専用の臨時列車であろうと思う 。EF58は、末期には多くの車両のヘッドライトがブタっ鼻(シールドビーム2灯)化されてしまったが、まだこの車両は施工されておらず綺麗な姿である。牽引機のEF58 92は、当時の配置表を見てみると宮原になっている。下り列車だった覚えがあり、先程のしらさぎ同様、停まっているのは5番線だと思われる。

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上の写真と同じ団臨列車の発車シーンである。客車の所属が大ミハとなっていた覚えがあり、上の牽引機とも一致する。それはともかく、12系客車の後部窓がやけに縦長で、ちょっと趣が違う。後々まで残った12系客車でも同じ傾向があったのだが、関西以西の所属車に、この形の窓をちょくちょく見かけた。番台でこの窓の形の種別があったのか、製造所による違いなのか、詳しくは私は知らない。

この時の映像で、見られるものはこれぐらいなので、これが“最終回”になる。でも思いの外、貴重な映像を自分も持っているなと勝手な感想である。

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2008年11月10日 (月)

晩秋の日豊本線にて(2)

昼間は、今日もあまり暖かくならなかった。おまけにちょっと気が滅入ることがあり、元気のない文章になるかも知れないが、そこはご容赦頂くとして。

先日、第1回目をアップした日豊本線の映像の、続編である。前回は、ちょっとイメージ的な写真にこだわってしまったので、今日は特急列車の写真ばかりを集めてみようと思う。

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大神駅付近を走る「RED EXPRESS」。にちりん号かと思いきや、方向幕は「臨時」となっていた。にちりん号なら長くても5両編成となる場合が多いので、赤い特急列車が7両で走る姿はある意味、貴重だとも思う。ただし、この場所は「鉄道写真攻略本」にお世話になったものである。

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秋の高い青空をバックに、メタリックプルーの「ソニック号」が走り抜ける。と、書くとカッコいいけれど、実は上の写真と同じ大神付近の橋を、下から見上げただけのものである。上からでも絵になるけれど、下から写しても中々の絵になる鉄橋である。写真に覚えのある方ならお判りだろうが、これは広角レンズで撮っている。列車が来る直前、近所のおばさんが橋の袂に自家用車を止めて、どこかへ行ってしまった。広角レンズだから写る範囲が多く、車が写らない様にするのにはちょっと苦心した映像でもある。私って、つまらない思い出ばかり持ち帰る奴である。

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これは、小さくしてしまうと何が言いたいかよく判らない写真になってしまう。私の勉強不足で、この写真をクリックして頂いても写真の大きさは変わらないところが悲しい。鉄橋を走っているのは、上と同じ「ソニック号」だが、私は川に浮かんでいる水鳥たちが長閑だったから、こんな構図にしたのだ。川をよく見て頂くと、茶色っぽい点々が散見されると思うが、それが私の副題にしたかった水鳥たちである。いっそ、望遠レンズで水鳥をもっとアップにして、「列車を副題」程度の撮り方をした方が良かったかも知れない。勉強不足の上に、腕前不足まで加わってしまった(お詫び:写真をクリックすると画像が大きくなる方法、勉強しておきます)。

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邪道かとも思ったが、流し撮りを一枚。それも列車が止まっていないのに。でも、列車が止まっていなくても、これはこれで絵になるか知らんと思いアップしてみた。ハイパーサルーンを使用した「にちりん号」だ。流し撮りは今まで何度もやっているけれど、中々コツがつかめない。本当のプロになると、わざとこの様にブラして速さを強調させることもある。そう云う写真だったということにしておこう。

以前も書いたように、これは鉄道専門のブログではない。私の気晴らしで書いているに過ぎないものだ。多少見栄えのの悪い写真は、黙ってスルーして頂くと有難い。私とて、これで鉄道写真界にデビューするつもりなど毛頭ないのだし。

まあ、そんな次第で、お気楽な日豊線のギャラリーの2回目でした。

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2008年11月 9日 (日)

お絵かきバス顚末

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バスの側面を真っ白に塗装してキャンバスとし、油性マジックで小学生以下の子供たちに割り当てられた区画へ自由な絵や文字を書いてもらう「お絵かきバス」の企画が今年もあった。多くの場合は、秋に行われる名古屋市内各区の「区民まつり」など市や区の行事に照準を合わせて実施される。

私達の営業所のバスには、10月に行われた区民祭りで「お絵かき」をしてもらった。彼らの絵にも著作権があると思うので、絵の部分のアップをやや小さめに載せる。

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こんな感じ。運転操作に必要のない中扉の部分にも、目一杯書いてもらっている。

ただ、書かれてしまうと影響のある前扉や、その他運行に関係のあることを記した部分だけは“お絵かき当日”にテープなどで覆って、あくまでキャンバス部分に書いてもらうようにする。

この催しを始めた当初は「らくがきバス」と名打って行われたのだが、「こちら側がお金を貰って代償に好きなものを書いてもらうのだから『らくがき』はないだろう」、ということになり、翌年から現在の呼び方に変わっている。

あてがわれるバスは、余程のことがない限り、その年度中に廃車となる古い車を使う。ここ数年、新車が納入されるのは1~2月頃である。つまり、新車が入れば他の古い車と共に「お絵かきバス」も廃車の運命にある訳だ。10月か11月くらいに書いてもらって、1月か2月頃まで走るのだから、お絵かきバスとしての寿命は短いが、「絵」そのものも毎年更新しなければ、より多くの子供に書いてもらえないから、止むを得ない処置といえる。

お絵かきされたバスは、別に他の車と区別されることなく、同じ設備を持ったバスと共通で運用される。だから、日によって走る路線はまちまち、ハンドルを握っている人も日替わりである。私自身も何度か、お絵かきを運転した経験はある。子供たちが喜んで指を差したりして、結構面白いものである。

ここまでは、近郊のバスマニアの方ならご存知の話だと思う。で、折角私も運転手なので、身内でない方があまりご存じない話を付け加える。

お絵かきを済ませたバスは、翌日からすぐ走れるというものではない。先程も書いたように、油性マジックで書いてもらうだけだから、強く手で擦ったりすれば絵は消えたり滲んだりしてしまう。だから、それを防ぐために「お絵かき」が済むと車両工場へ持って行き、透明のラッカーを上塗りして絵を保存する。ラッカーが乾くのに概ね2日はかかるので、実際にお絵かきバスが街を走るのは、早くてもお絵かきの4~5日後になる。

また、お絵かきの下準備をしたのに、荒天などで当日催し物が中止になってしまう場合もある。止む無く近隣の幼稚園などに話を持って行き、バスの車庫まで園児たちに来てもらいお絵かきしてもらうケースも今までにはあった。

順序が逆になってしまったが、お絵かきのためのキャンバス、つまりバスの側面を白一色で塗りつぶしたばかりの時の映像があるから(上の写真とは別の車両だが)、お目にかける。

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まだ、一人ひとりが書くスペースを区切る境界のテープも張られていない、本当に白を塗り終わったばかりの状態である。

因みに申し上げると、この白のキャンパス作りは、各営業所内の工場で十分やれる。勿論吹き付け塗装で行うのだが、催し物の日が近付くと対象車両からまず外広告を入れる枠を取り外す。それから晴天の日を選んで一気に塗装作業をする。晴天の日を選ぶのは、当然、乾きが早いからだ。そして完全に乾燥後、先程書いた「一人ひとりの区画を区切るための色付きテープ」を張る。白塗装は簡易的に塗ってあるだけだから、テープは粘着力の弱いサージカルテープなどを使う。これで、やっと準備完了となる。

色々と順序も立てずに書いたけれど、お絵かきバスの陰にも結構多くの人の手がかかっている、というお話でありました。

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2008年11月 8日 (土)

大変判りやすい看板

名古屋も一気に寒くなった。今日は昼間は何度まで気温が上がったのかな。

えー、さてと。10月の熊本方面旅日記で書き忘れていたものがあって。

撮影地へ向かう道すがら、こんな看板を見つけて、思わず立ち止まった。

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立ち止まったあと、思わず独り笑いしてしまったのであるが。

誠に明快な看板であり、誠に明快な病院のネーミングであり、何の説明も要らないものだなあと。

どうした経緯か、日本人の頭の中に「たま」はネコの名前・「ぽち」はイヌの名前としっかりすり込まれている。人間で言えば、太郎・花子みたいなものだろう。それを動物病院のネーミングに使った例は、実は初めて見た。よくよく考えれば、ありそうな名前の病院だが、そして「私は見たことがあるよ」と云う方もあるかも知れないが、私にとっては初体験の院名なのであった。

病院の営業妨害等にもなってもいけないから詳しい場所などは伏せておくが、類似の病院名をご存知の方がおられましたら、是非コメントをお願い致します。こういう面白いものには、目がない性分でして。

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2008年11月 7日 (金)

夜景の話

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本日の仕事。栄と某所を5往復。

夜の時間帯にもかかる仕事だったから、最後に栄に行った時に栄の夜景を撮ってみた。

今までこのブログで夕景は度々アップしたことがあるが、夜景は初めてではないかと思う。

言うまでもなく、栄は「都会」名古屋の中心街だから、人も多いし車も多い。以前、栄の仕事はあまり好きじゃないと書いた覚えもある。本当に、人と車の波に溺れそうな気分でいつも栄の仕事はしている。

ただ都会の夜景は、人間が作ったもので一番マシなものじゃないかと思う。確か高校時代にも、友達とやっていたグループ日記にそんなことを書いたと思う。そんな頃から街の夜景が好きだったのだ。

夜は、余分なものが見えない分、都会嫌いの私でも景色を景色として見ることができる。特にネオンサインは極彩色が繰り広げられて、ぼんやり見入ってしまうこともしばしばだ。夜だけは、田舎より都会の方がいいかも知れない。ただあくまで、景色としての話であるが。

そう言えば、今日から名古屋駅前のタワービルのライトアップも始まったと新聞に書いてあった。明日は名駅前は凄い車の行列だろう。

って、明日、私は夕刻以降に、名駅へ行く仕事じゃないか!

こりゃ、あかん。

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不眠症その後

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今日は仕事の都合でとんでもなく遅い時間にしか帰れなかったから、シャワーを浴びてこれを書いているのは、もう1時を過ぎている。眠い。でも、これは私の気晴らしも兼ねているので、そうおいそれと「今日はやめ」と云う気にはなれない。

でもって、と。今「眠い」と書いたけれど、そして、本文記事には直接書かなかったかもしれないけれど、頂いたコメントのお返事には書いた覚えがあって。8月の末ごろからとうとう不眠症に陥っていたのであった。

仕事が多忙を極めたのが原因なのは明らかだ。それに加えて暑さも加わり、夏の終わりには、なぎら健壱さんの「悲惨な戦い」よりもっと悲惨な状況になっていた。2~3日続いた不眠症なら今まで何度か経験したけど、まるっと2ヶ月、断続的に眠れない晩が続いたのは生まれて初めての悲劇である。当然、睡眠薬も複数種、医者から処方されていた。

この仕事のドンちゃん騒ぎ以降、私は一々自分の体調なども乗務手帳にメモしていて、それによると一睡も出来ずに出勤する羽目になったのが、何と15晩もあったのだ。翌朝早い出勤の時ほど、気持ちに焦りが加わるから寝られない。どちらにしても勤務時間が大幅に増えたのだから、体や心の緊張が仕事を終えて帰っても取れてくれない。それで、トータルするとこんな数字になってしまったらしい。

それが、5日ほど前から急に、何の前触れもなしに、睡眠薬を飲まずとも寝られるようになった。何と気分の楽なことか。これだけは、経験したことのある人にしか判ってもらえまい。

職場の現状を自分の心が受け入れてしまったのか、或いは先日書いたように7日から8人の新人さんが加わり多少仕事が楽になることが心を無意識に癒したのか。

どちらかは判らないが、緊張が解けたから眠れるようになったのは事実だ。自分の判らないところで、緊張の糸の張りが弛んだものらしい。

眠れる内は、なるべく薬に頼らないようにしようと思っている。

従って冒頭の写真の薬たちも、当分休業になるはずである。

有難い話である。

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2008年11月 5日 (水)

昭和54年3月・名古屋駅

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今日は公休日。最近、先輩の某氏が昔のご自分の写真をブログで盛んに紹介されているのに刺激され、私も昔のフィルム箱を漁ってみた。

出てきたのが上のモノクロフィルムである。たまにはモノクロ映像をご覧頂くのも一興かと思い、昭和54年当時の名古屋駅の姿をご紹介しようと思う。

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我ながらよくぞ撮っておいたなあと思うのだが、当時としては大出力機関車として名を馳せたEH10型機関車牽引による貨物列車である。当時の名古屋駅は、現在の1番線に当たるところが0番線で、東海道線の上り列車は主にこのホームを使っていた。通過列車も0番線を通るのが原則で、これは0番線の北端からホームへ入ってくる列車を狙ったものだ。

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今となっては垂涎の的のような映像だが、前部に荷物電車クモニ83型を併結した東海道線の下り普通電車。時計の針から推察して、541Mではないかと思われる。荷物の積み下ろしの関係もあったのだろう、名古屋駅では13分の停車時間がとってある。そうでなくとも、この当時の普通列車は大きな駅へ着くと15~30分の停車が当たり前であった。この頃の東海道線の普通電車は、急行型の153・165系を使うことが多く、(写真では判りにくいが)111系を用いているのは珍しい。大垣の車庫にそもそも111系の配置がなかった。神領電車区の車両が使われているものと思われる。

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荷物列車の映像をもう少し。「小荷物」や郵便物を運ぶ荷物列車は、貨物としての扱いではなく、客の荷物としての扱いであった。だから使う車両も貨車ではなく客車であった。この辺り、如何にも国鉄らしい分け方だと思う。先程の写真のように、旅客列車に併結される例もあったが、「荷物専用列車」も幹線では数多く存在した。これは、中央線へ入る荷物専用5043レの解結作業。名古屋地区では、当時、荷物扱いの本拠地は熱田駅で、この列車も始発駅は熱田となっている。一駅走っただけの名古屋で(当時、金山・尾頭橋の両駅は東海道線に存在せず)わざわざ向きを変える関係から、機関車の付け替えや解結の作業もあったようだ。写っている郵便車の配置は長野になっている。如何にも中央線の荷物列車らしい。

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まるで趣の違う写真だが。当時の駅の発車案内装置。列車種別や発車時刻等が「パタパタ」と回転する方式の古式ゆかしい案内装置が当時は一般的であった。今では3色LEDの案内が当たり前となっているが、こんな装置が30年前では常識だったのだから、時代の変遷が伺える。因みに下段の行先表示「 松」は「浜松」の誤表示。当時の私は、この誤表示が面白くて撮った写真なのである。歳月過ぎて、こんな処で使うことになるとは思いもよらなかったけれど、当時から「イレギュラーもの」に関心を持っていたことが窺い知れ、自分ながらに面白い。

私は、今までに自分で写した鉄道関係のフィルムは全て保管してある。引越し等でどこかへ行ってしまったということも幸いない。機会があればこんなものも時折織り交ぜて、ご紹介できたらと思っている。

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2008年11月 4日 (火)

晩秋の日豊本線にて(1)

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日豊本線といって判り難いなら、「九州の鹿児島本線の反対側を南北に走っている線」とご解説申し上げておく。

秋に九州へ行くのは初めて、などと過日の「鹿児島本線熊本付近撮影旅行」などに書いてしまったが、過去帳を調べると何のことはない、ここ毎年11月頃に九州へ行っている。自分の記憶力の悪さに呆れるばかりだが、ともあれ、そんな撮影旅行で拵えてきた駄作を、またしぶとくご紹介しようと云う企画である。

ご参考までに申し上げておくと、上の写真は日代駅で撮ったもの。駅ホームに入り込むように柿の木が生えており、それにたわわに実がなっているから思わず撮った一枚だ。走り去る列車は「RED EXPRESS」こと「にちりん号」である。

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この撮影旅行の時は、大分を中心にした地域を徘徊した。で、この一枚は「大分くんだりでも、朝のラッシュは凄いものがあるのですぞ」と言いたくて撮った。大分に限らない。熊本だろうと鹿児島だろうと肥前山口だろうと、朝のラッシュ時は通勤と通学が混じるから、昼間の2両編成を4両にしても、こんな有様はどこでも安直に撮れる。私はこういったものを運転する立場で、お客様方にはつくづく「ご苦労様です」と言いたい。

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今度はいきなり、派手な塗装の電車が登場したが、現在は特急の「きりしま」や「ひゅうが」で使われている国鉄型特急をこんな画面で切り取ってみた。この塗装、元はと言えばオランダ村の「ハウステンボス」へ行く特急用にこの様なカラーで塗られたのだが、当の「ハウステンボス号」には新しい列車があてがわれることになったため、宮崎や大分地区にやってきた。「宮崎空港」の方向幕(行先表示)も今や見慣れたものとなっている。

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たまにはマトモに電車が走っている写真もないと格好がつかないので、幸崎付近で撮った夕方の写真を一枚添えよう。この電車、車中に乗ってみると3ドアにロングシートと、鉄道旅行派には誠に味気ない車両なのだが、外面は後輩の817系よりまだマシなので、ちょっとは絵になる。11月でもまだ上旬だったので、夕刻でもそう寒さはなかったが、「北の町ではもう……」の季節であることもまた間違いのない事実である。

本日は、こんな駄作の合計4枚とさせて頂いたが、また時間がある時に、続編をやりたいと考えている。

洗濯の合間を縫ってのブログ、取り急ぎ本日はこれで終了。皆様おやすみなさいませ。

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2008年11月 3日 (月)

床屋の親父さん

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私がいつも行く床屋。これと言って目立った床屋でもない。ごくありふれた、町中の長屋の片隅に店を構えている。

とは言っても、私にとっては随分長い間通っている場所でもある。私がこの地域に引っ越して以来、ここの床屋にしか行ったことがない。引っ越してきたのは9歳の時であるから、何と36年間ここの親父さんにお世話になっている。

親父さんとの会話も、私の歳に合わせて段々と変わってきたものだ。小・中学生の時は、それなりに学校の話などを聞いてくれたりした。高校は、頭髪に関して無闇矢鱈と厳しい学校だったから、どうすれば「刈り上げじゃないが刈り上げらしく見える髪型」になるか苦心してくれた。一転して、大学生の頃は年に1~2回しか行かない「売り上げに貢献しない客」になった。高校で厳しくされ過ぎた反動で、大学時代はかなり長髪に近い髪型になるまで床屋へ行こうとしなかったのだ。

地元で就職して、ある程度の身だしなみが必要になればそれなりに親父さんが整髪してくれた。もっとも私はオシャレに全く関心がなく、「何か軽いものでもお付けしますか?」と聞かれて、首を縦に振ったことはない。それは今でも続いている。

でも、親父さんとの会話は徐々に大人の会話になっていった。当たり前の話ではあるけれど、兎に角職業柄だろう、向こうはちゃんと私の年齢や職業に会話の内容を合わせてくれている。

今日、仕事帰りに久しぶりでここへ行った。最近、少し短めに切ってもらって、多少長めになるまでここへ行かないという「省財政政策」をとっている。前回行ったのがいつか覚えていないけれど、多分、8月かそこらの暑い時期に行ったきりだと思う。

自分が高校生だった時代もある癖に、今時の高校生批判をしてみたり、たまたまついていたテレビ(水戸黄門をやっていた)のことを話題にしてみたり。

でも、私が忘れていたことが一つ。親父さんが「孫の名前が覚えられなくて……」と言われた時、そう言えば昔、ここに私より6つか7つ違いの娘さんがいたことを思い出した。そうか、あの頃に赤子同様だった女の子も、今では母親なんだ、と。

と同時に、親父さん、歳はいくつなんだろうなと思った。私が9つの時に既に床屋として腕を振るっていたのだから、もう還暦はとうに過ぎているだろう。そう思ってみると、親父さんの白髪の多いこと。私の方に変化がなさ過ぎるからこうなるのだ。

親父さんとの付き合いはいつまで続けられるのだろう。

気楽な場所だから、出来るだけ長く付き合いたいものだけど。

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2008年11月 2日 (日)

夢去りし街角

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本日の夕景。

ここ2~3日、体調がよろしくない。いや、元々よろしくないのだから、一層よろしくないと書くべきだろうか。

おまけに、同じく2~3日、気分的に落ち込んでいる。

こんな落ち込んでいる時に、この夕景は自分の気分に似合い過ぎていた。因みに記事の題名・『夢去りし街角』とは、フォークグループ「アリス」のヒット曲のタイトルである。自分の気分もこの夕景も、そのタイトルに合っていたから、今日の記事の題名として拝借した。

夕景って、好きなのだけど、いつも何かしら寂しさが漂っていて、「斜陽」とか「寂光」とか「負け組」とか、マイナスイメージの言葉ばかりが頭に浮かぶ。

都会って嫌だなと思う。人ごみに心までもへし押されて、息つく場所もありはしない。そんなゴミゴミした雑踏の中で、こんな夕景を見せ付けられて、益々嫌になる。

一人になりたくても一人になれない、それが、都会というものらしい。

本当は、一人っきりになって、ため息を死ぬほどついてみたいのに。

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2008年11月 1日 (土)

職場の機関紙より

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著作権は私の職場の労組にあるので、全部はお見せできないが、私達の営業所の労組が発行している機関紙の今月号の一部である。大きな文字で「待ち人来たる!」「八名」の文字がご確認頂けると思う。

私達の営業所は現在、22名の欠員を抱えアップアップの状態で日々運営されている。ここまでの状態にしたのは言うまでもなく、職場の上層部の連中で、彼らに言わせると「新しい人を雇うより、現存の人間に時間外労働をやらせた方が、人件費は安くつくので、新人は採用しない」と長い間粘っていた。

然し、私達の営業所は、OB乗務員を含めて160人程度の職場である。そこで22人の欠員では、休みの日も休ませてもらえない。私達の営業所に限らず他の営業所も皆、似たような悲惨な状態で仕事をさせられていた。

然し、今年6月に労働基準監督署から「職場改善命令」を出されたことと、労組役員が頑張って新人獲得のための交渉をしてくれたお蔭で、今般、私達の営業所には8名の新人さんが来てくれることになった。新人さんの一人立ちは11月7日なので、あと6日の辛抱である。

22人の欠員に8人の穴埋めでは、焼け石に水だが、それでも何もないよりは余程いい。労組の機関紙が大きく書きたてるのも、それなりの事情があるのだ。

取り敢えず今回の新人さんの補充で、私達の営業所は強制的な時間外労働(休日出勤は除く)の縛りが解かれる。また、按分休暇数(一日に有休を出してもらえる人数)が一人だけ増える。これだけでも大きな進歩である。

12月に、もう若干名の補充があり、来年の4月に1つの営業所を他のバス会社に委託することで、人員不足は大幅に改善される予定である。尤も私はその煽りで、他の営業所へ移らねばならない可能性が大だが、どこの営業所でも休む日に休ませてくれれば兎に角今は文句は言えない。私が不眠症に陥っているのも、この過労の所為なのである。

こんな愚策を続けてきた我が職場の上役さんたちよ、ちっとは反省して我々乗務員に頭の一つでも下げる練習をしておきなさいよ。

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